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『資本主義はいかに衰退するのか』根井雅弘(2019年)を読書。

経済学者ミーゼス/シュンペーター/ハイエクを解説。
何れもウィーン大学出身のオーストリア学派だが、経済理論は微妙に異なる。
主にシュンペーターの経済論/民主主義論を解説している。

新自由主義の起源の1つがオーストリアなのは面白い。

自由資本主義の理論を知る事ができるが、引用部分は極めて難解。

お勧め度:☆(専門的)
内容:☆☆☆(資本主義の一部の理論が分かる)

キーワード:<まえがき>シュンペーター/ミーゼス/ハイエク、<経済思想の原点>経済計算、一般均衡理論、渡米、景気循環理論、ケインズ、人間行為学、静態、<市場均衡論を超えて>「隷属への道」、自生的秩序、分配的正義/交換的正義、完全競争、市場プロセス、均等循環経済、混合経済、競争、ガルブレイス、<シュンペーター理論>「経済発展の理論」、新結合/イノベーション、企業家/銀行家、資本主義衰退論、「資本主義・社会主義・民主主義」、<政治過程>民主主義、自由主義、「法と立法と自由」、独占権、<資本主義>「反資本主義メンタリティ」、新古典派総合、比較制度分析、社会的正義、<経済学者>動態的ビジョン、イノベーション、人間行為学、自生的秩序

まえがき

・本書はミーゼス(※1881~1973年)/シュンペーター(※1883~1950年)/ハイエク(※1899~1992年。ノーベル経済学賞の受賞者)の経済思想から(シュンペーターが主軸)、今日の経済問題のヒントを得る事を目的とする。彼らはハプスブルク帝国で生まれ、オーストリア学派のウィーン大学で学び、景気循環論/企業家論/民主主義論/体制比較論などの分野で活躍した。

・3人が同時に比較されなかったのは、シュンペーターが早くからオーストリア学派を離れ、ローザンヌ学派に近付き、コスモポリタンになったからだ。彼は『経済発展の理論』で「企業家のイノベーションが資本主義を資本主義たらしめている」として世界の人になった。一方ミーゼス/ハイエクはオーストリア学派である事を隠さなかった。ハイエクはオーストリア学派の迂回生産論とスウェーデン学派の貨幣的循環論から、『価格と生産』(1931年)を書いている。

・ミーゼスは貨幣的景気循環論(※詳細は後述かな)の『貨幣および流通手段の理論』(1912年)を書いている。しかし彼を有名にしたのは、社会主義下での経済計算を否定した『社会主義社会における経済計算』(1920年)である。これは今では常識だが、当時は少数派で、ベルリンの壁の崩壊後、再評価される。そのため彼の代表作は米国亡命後の『ヒューマン・アクション』(1945年)であろう。これはオーストリア学派の方法論的個人主義の流れにあり、「人間行為学」を掲示している。当時は「先験主義」「混合経済論」が主流で、干渉主義を批判する彼の理論は評価されなかった。※各理論を理解していないので困る。

・ハイエクはミーゼスよりも光が当てられた。彼は経済学者より自由主義社会哲学の研究者になっていたが、1974年ノーベル経済賞を受賞し、経済論壇に戻される(※そのためシュンペーター/ハイエク/ミーゼスの順で名前を知っているのかな)。彼はベストセラー『隷属への道』(1944年)を出す。しかし戦後は自由主義社会哲学に取り組み、『自由の条件』(1960年)『法と立法と自由』(1973年)を出す。後者に「社会主義の幻想」が織り込まれており、後者が彼の代表作と思う。

・2020年はシュンペーター没後70年で、3人の思想を比較する事にした。本書のタイトル『資本主義はいかに衰退するのか』はNHKから頂いた。彼らは資本主義を擁護しているみたいだが、実際は彼らが理想とした資本主義がになっていない。

第1章 経済思想の原点-オーストリア学派の影響

<「経済学的考え方の動向」にて>
・1933年ハイエクは「ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス」(LSE)で教授就任講義「経済学的考え方の動向」を行う。彼は既にLSEで、景気循環論の『価格と生産』の講義を行っていた。彼は社会主義の経済計画だけでなく、資本主義の計画・管理(ケインズ主義など)も批判し続けた。この時、彼の経済思想が完成していた訳でないが、以下を述べている(※簡略化)。
 かつてからの経済現象の分析は、個人的努力は意図的な計画でなく、望みもしない方法で行われる事を示した。そして暗黙・不可避の変化が、誰の理解もないままもたらされる。要するに複雑なメカニズムが作動している。それが達成し得る唯一の方法であり、意図的な規制の結果でない。我々はそれが自生的な制度によってもたらされている事を何度も発見する(※難解)。

・後に彼は「自生的秩序」を重視するが、それがうかがわれる。学生は社会主義に染まりつつあった。それに対し、次の様に述べている(簡略化)。
 国家的コントロールが不可避とする信念は、計画から予想できる利益に基づいているのでなく、「歴史は後戻りしない」などの運命論に基づいている。60年前の重商主義に回帰する現状において、「最終的に計画が勝利する」との信念の源泉に、「指揮を欠くとカオスになる。計画する事が現状の改善になる」がある。

<甘すぎた評価>
・現代の学生に社会主義の魅力を語るのは難しい。例外の国はあるが、政治的自由/選択の自由がない国への憧れはない。1917年ロシア10月革命が起き、社会主義が実験から実践に移り、「経済計算は可能か」の論争が始まった。その起点になったのがミーゼスの論文『社会主義社会における経済計算』(1920年)だった。当時は左翼の運動家・労働者や理論経済学の研究者が社会主義に共感していた。マルクスは『資本論』で資本主義崩壊の論理を掲示したが、社会主義での経済計算については触れていない。

・1930年代に活躍したオスカー・ランゲは『社会主義の経済理論いついて』(1936年)で「一般均衡理論」から、社会主義では生産手段に「価格」はないが、「市場価格」を「財の代替比率」に広げる事で、価格にできるとした。この一般均衡理論は、「需要と供給が一致すると取引が行われる」である(※詳細省略)。ランゲは一般均衡理論の「競売人」を「中央計画当局」に置き換えた。

・これについてシュンペーターも「決着済み」と述べている(※論文を引用しているが省略)。ハイエクなどは「経済計画のために何百本もの方程式を解くのは無理」としたが、ラングは「コンピューターにより可能になる」とした。

<ミーゼスは自説を曲げなかった>
・この問題はミーゼスが起点だが、彼は自説を曲げなかった。1979年彼の入門書とされる『経済政策-現在と未来のための思考』で頑固に主張している(※簡略化)。
 私は社会主義にない経済計算について論じる。経済計算は消費財だけでなく、生産要素の貨幣価格がある事で可能になる。つまり、原料/半製品/道具・機械/労働/人的サービスなどの市場が必要になる。社会主義者はこれに気づき、諸悪の根源は市場と市場価格とし、商品・労働の商品性を廃そうとした。しかし社会主義者はこの問題に直面し、「我々は市場を全廃しようとしていない。市場を仮想する」と考えを変えた。

・ミーゼスの出世作は『貨幣および流通手段の理論』(1912年)で、「貨幣的過剰投資論」に分類される。同書はシュンペーターの『経済発展の理論』と同じ年に刊行されている。この頃は「景気循環論」が乱立していた。

<何が言いたかったか>
・ミーゼスもハイエク/シュンペーターと同様にウィーン大学で学び、1906年法学博士を取得する。『貨幣および流通手段の理論』を書いた後、同大学の私講師になるが、教授にはならなかった。彼が充実したのはウィーンの商工会議所に勤めていた期間だろう(1909~34年。※随分長いな)。論文『社会主義社会における経済計算』を書いたのも、この期間だ。また私的ゼミナールを開き、ハイエクも参加している。また「オーストリア景気循環研究所」を解説している。彼はハイエクを可愛がったが、それが彼の夫人の回想に書かれている(※引用されているが省略)。

・彼は大著『共同経済』(1922年)を書き、ハイエクに影響を与えている。しかしこれは社会主義への対抗姿勢が強く、昔の自由放任哲学の講義に近い(※引用されているが省略。社会主義をドグマとして批判し、米国の経済成長を称賛している)。これは大著『社会主義』の抜粋である。この先同書にも触れるが、彼の重要な著作は『ヒューマン・アクション』(1945年)と思っている。

<ナチス台頭の影響>
・『ヒューマン・アクション』は、オーストリア学派の創設者カール・メンガーの方法論的個人主義の「人間行為学」の宣言書である。同書は渡米後に書かれたが、その前に幾つかの出来事があった。1つはナチスの影響で、1936年ドイツがオーストリアを併合する。ミーゼスはユダヤ系で、この時期ジュネーブの国際高等研究所の教授をしていた(1934~40年)。※彼の回想が引用されているが省略。

・1940年彼は渡米するが、当時の欧州の学者・芸術家はナチスを過小評価し、欧州に執着していた(※指揮者ブルーノ・ワルターを詳しく説明しているが省略)。ミーゼスも同様でジュネーブを離れ様としなかった(※夫人の回想が引用されているが省略)。
・1940年彼は渡米し、1945年ニューヨーク大学経営大学院客員教授の職を得る(1945~69年)。しかし米国は彼に温かくなかった。米国は1930年代大恐慌になり、自由放任主義と決別しようとしていた。しかしニューヨーク大学時代は実り多い期間になる。数年後に『ヒューマン・アクション』を出している。また彼のゼミナールから多くの弟子「ネオ・オーストリアン」が育ち、1980年代に保守主義が復活すると、彼は援護射撃する。

<ハイエクの回想から>
・ハイエクに戻る。彼もウィーン大学で法学(1921年)/政治学(1923年)の学位を取る。彼は経済学の学位も取ろうと思ったのは、第一次世界大戦の従軍中である。彼は回想している(※簡略化)。
 私が経済学を学ぼうと思ったのはイタリアでの軍隊生活の時です。メンガーの『経済学原理』に夢中になり(※従軍中?)、ウィーンに戻り法学を学んだ。心理学にも興味があったが、職がないので経済学を選んだ。

・彼は心理学にも興味があり、『感覚秩序』(1952年)の著書もある。ところで彼はミーゼスの「弟子」と語られる事が多い。しかし正確にはミーゼスは彼の「恩人」である。それは彼を引き立て、「オーストリア景気循環研究所」の仕事を与えたからだ。※ミーゼスとの関係を回想しているが、長いので省略。
・ハイエクは景気循環研究所の仕事を誠実にこなす。そして1931年LSEで景気循環理論の連続講義を行い、そのスタッフに迎えられる(本章冒頭で紹介)。

<景気循環理論の連続講義>
・ハイエクの連続講義の内容は、英語で書かれた『価格と生産』(1931年)とほぼ一致する。これはクヌート・ヴィクセルの「自然利子率」「市場利子率」を区別した経済分析に、オーストリア学派の迂回生産論を組み合わせた内容になっている。
・「自然利子率」とは、投資と貯蓄を等しくする利子率で、投資の限界収益率を反映する。一方「市場利子率」は銀行が設定する利子率である。イノベーションにより限界収益率が高まれば、投資が有利になり、投資>貯蓄となる。ヴィクセルは完全雇用を仮定したので、この場合物価上昇が続く。これがヴィクセルの『利子と価格』(1898年)の「累積過程」である。

・ハイエクはヴィクセルの理論にオーストリア学派の迂回生産論を挿入した。銀行の信用創造により市場利子率が自然利子率より低くなると、自発的貯蓄より多くの投資資金が提供され、迂回的な(生産期間を長期化させる)生産方式が採用される。投資資金が銀行の信用創造により自発的貯蓄以上に賄われる場合、固有の問題が発生する。つまり自発的貯蓄の増加は消費の減少で、無理のない迂回生産が行われる。しかし銀行の信用創造による場合は消費は減少しないため、迂回生産で獲得された所得は消費財の需要を増やし、消費財を減少させる。ここで投資財の増産を止めたり、銀行の信用を止めると、迂回生産は維持できなくなり恐慌になる。※難解。まず迂回生産の具体例が欲しい。

・それゆえ銀行の信用拡大により自発的貯蓄以上の投資が進められると恐慌になる。これを防ぐには、信用を引き締めるか、自発的貯蓄を増やすしかない(※金融引締めかな)。これは今の理論と大きく異なる。今の理論だと、これらを行うと恐慌はさらに悪化するが、当時はこれが常識だった。※『価格と生産』が引用されているが省略。

<ケインズ革命とハイエク>
・ハイエクはLSEに向かい入れられるが、1930年代に大不況になり、ケインズの『雇用・利子および貨幣の一般理論』(1936年)が登場する。同書は経済学の思考法を変革した「改革の書」となる。LSEのライオネル・ロビンズはオーストリア学派の影響を受け、反ケインズだった。しかし第二次世界大戦後に「反ケインズは誤りだった」と認める。ハイエクの理論は完全雇用から始まるが、大量の失業者が出て、生産設備が遊休し、需要不足の状態では、ケインズの「非自発的失業」が生じるとする理論が現実的である。ハイエク=ロビンズの連合軍は、ケインズの『一般理論』に敗北する。

・ケインズ革命の渦中、ハイエクは論文『経済学と知識』(1937年)などの後期ハイエクの仕事に舵を切り始めていた。彼は、均衡分析が均衡が達成されるまでのプロセスでなく、均衡状態に関心が集まっている事に異議を唱えた(※結果より過程が重要かな。経済は流動的で、均衡状態は一時的かな)。これは後のネオ・オーストリアンに影響を与える。※大変長いハイエクの理論が引用されているが省略。

<先験主義に反省を促す>
・彼の論文『経済学と知識』が重要なのは、ミーゼスの「先験主義」に反省を促しているからだ。ミーゼスの「先験主義」は、大著『ヒューマン・アクション』の「人間行為学」を説明しないと分からない。人間行為学は、命題「人間は行為する」から始まる。そしてその行為には目的があり、「手段」が主観的に選ばれる。そのためこの命題から生じる命題は全て「真」で、「検証」「反証」する事はできない(※客観性がないからかな)。

・この「先験主義」はネオ・オーストリアンの間でも評価が分かれる。ハイエクは論文『経済学と知識』に、経済学に「先験主義」を適用するのは誤りと書いている。彼は「私達は主体的均衡(効用最大化と利潤最大化)と市場均衡の区別を知っているので理解できる。しかしミーゼスに好意的な弟子はいないのか」と思っていた。愛弟子カーズナーがミーゼスに「人間行為学の命題は理解できるが、それが他人もそうだと知り得るのか」と訊ねると、ミーゼスは「観察によって存在に気づける」と答えている。これからカーズナーは、「社会は目的を持つ合理的な人間からできている」との根本概念を基礎にできるとフォローしている(※詳細省略)。要はミーゼスとハイエクは同じオーストリア学派でも、思考法が少し異なっていた。

<シュンペーターとオーストリア学派>
・最後に一番のスターのシュンペーターを紹介する。彼は「イノベーション」「創造的破壊」で有名だ。1906年彼はウィーン大学で法学博士の学位を取る。しかし彼はローザンヌ学派の創設者レオン・ワルラスの一般均衡理論に夢中になる。彼は純粋経済学(完全競争を仮定した価格決定理論)/一般均衡理論の数少ない理解者だった。これらが『経済発展の理論』(1912年)の基礎となる「静態」を構想する。

・彼の一般均衡理論は数理的解法(連立方程式を解く)を取っている。これに時間を含めていないので「静学」と云われる。そのため求められた経済数量が毎年繰り返されるとした。『経済発展の理論』は「発展」を解明しようとしているのに、「発展」の契機が欠落していた。「静態」を「動態」に変えるには企業家のイノベーションが必要だが、これについては第3章で解説する。まずは「静態」について解説する。

<静学から静態へ>
・『経済発展の理論』の第1章は「一定条件に制約された経済の循環」となっている。ケネーの「経済循環の発展」は経済学創設期の偉業である。ここでは「静態」が年々繰り返される。シュンペーターはワルラスの一般均衡理論を絶賛していたが、その「静学」理論にケネーの『経済表』にある均衡価格・数量年々が繰り返される理論を組み合わせた「静態」を構想した。
・この時、経済主体は「本源的生産要素」(労働、土地)の所有者(労働者、地主)しかいないとするオーストリア学派の考え方を採用している。そのため生産財を「本源的生産要素」に含めていない(※詳細省略)。それは「動態」が始動する時、イノベーションを起こす「企業家」と、それを支援する「銀行家」を登場させるためだった。

・「静態」の本源的生産要素には所有者(労働者、地主)しかおらず、生産物価値は賃金/地代として分配される。ここに企業家/銀行家は存在せず、彼らへの所得/利子も存在しない。企業経営者はいるが、イノベーションを起こさず、労働者に含めている。『経済発展の理論』の第1章を引用する(※簡略化)。
 個々の経済単位は生産の場所となる。その収益は個々で分配される。そこには2つの本源的生産要素しかない(※労働者と地主だな)。この機能はその経済期間に機械的・自動的に行なわれる(※時間の無視だな)。そこに生産手段や消費財を所有するそれ以外の人は存在しない。しかしこの様な財が蓄積されているとする考えは誤りである。しかしこの事実は本質的な要因にならない。それは消費財か生産財かで相違がないからだ。そこでの企業者は特別の機能も所得もなく、単なる生産者に過ぎない。※様々な要素を無視しているな。複雑な経済活動を最初に理論化する時は、様々な要素を無視するしかないか。

<決して悪くないスタート>
・シュンペーターは『経済発展の理論』の第1章で「静態」を描写する。第2章から発展理論を掲示し始める。彼は若い頃から「神童」とされ、ウィーン大学でも、その才能は注目された。しかし19世紀末のハプスブルク帝国は黄昏を迎えようとしていた。彼の若い頃(古き良き時代)を説明するのに、シュテファン・ツヴァイクを引く(※簡略化)。
 「共存共栄」がウィーンの原理である。貧しい者も富める者も、チェコ人もドイツ人も、ユダヤ教徒もキリスト教徒も、時には愚弄し合うが、平和な共同生活に戻る(※多民族多宗教で、オスマン帝国とも似ているかな)。議会で罵り合っても、それが終わるとビールを一緒に飲んだ。私はユダヤ人だが、障害・軽蔑を経験した事がない。英雄感情も大衆感情も今ほど不快で強力でなかった。今では考えられないが、全てが自由だった。忍耐強さが弱点として見下される事もなかった。

・シュンペーターはカイロで弁護士になり、1908年1作目『理論経済学の本質と主要内容』を発表する。これは彼の才能を顕示した。彼はチェルノヴィッツやグラーツで経済学の教授になる。第一次世界大戦後、ハプスブルク帝国は瓦解し、共和国になる。彼は大蔵大臣になるが、旧友の閣僚と対立し、間もなく辞任する。ビーダーマン銀行の頭取になるが、経済恐慌で経営破綻し、巨額の借金を負う。1925年ボン大学の教授に就く。ドイツの学界は歴史学派に染まっていたが、彼がワルラス/マーシャル/ヴィクセルなどの理論経済学の最先端を教授する。やがてナチスが台頭する。彼はユダヤ人でなくナチズムに曖昧な態度を取る。かつてハーバード大学で客員教授をした事から、1932年ボン大学教授を辞任し、米国に渡る。※既に50歳に近い。波乱の人生だな。

第2章 市場均衡論を超えて

<ハイエクの決断>
・第二次世界大戦が終わった時、ミーゼス/シュンペーターは米国に逃れていたが、ハイエクは英国にいたが、1950年にはシカゴ大学に移る。1944年に刊行した『隷属への道』は彼の代表作だ。1930年代ケインズ革命に敗北し、経済理論より広い範囲の自由主義哲学(社会哲学)に関心が向かっていた。彼は国家の経済介入が個人の否定/全体主義に繋がると確信していた。『隷属への道』が「政治的パンフレット」(※政府批判?)として片付けられる事を顧みず、出版した。「前書き」を引用する(※簡略化)。
 本書は仲間を傷付けるだろう。本書により将来の仕事を失うかもしれない。また私に対する偏見を植え付けるかもしれない。

・同書はソ連の社会主義とファシズムを同一視しており、左翼系学者は反発し、彼に「反動」のレッテルを貼った。しかし同書は彼の社会哲学の案内書と云える。もっともこれが云えるのは、社会主義諸国が瓦解してからだ。

<自生的秩序論の萌芽>
・同書に何が書かれているかを整理する(第5章でも詳述)。第1は、後期ハイエクの「自生的秩序論」の萌芽である。彼は、行為による意図しない秩序を「自生的秩序」とし、その意義を理解している人を「自由主義者」(国家から自由で、リベラリストと表記)とした。そのため18世紀の英国の思想家(デイビッド・ヒューム、アダム・スミスなど)を「真の自由主義者」とした。一方で人間の理性を過信し、意図した通りに秩序を作る事ができると考える人を「偽の自由主義者」とした(例えばフランス革命期の思想家・政治家)。同書から引用する(※簡略化)。
 この様な状況変化(※引用なので内容不明。社会主義の隆盛かな)を助長する原因は、テクノロジーに専念している自然科学者・エンジニアの考え方を社会問題に適用しているからだ。彼らはこれまでの社会科学の成果を非科学的とし、「組織」に関する科学的・技術的な理想を押し付けた。
 自由社会には期待する以上の成果を生んだ「自生的諸力」がある。この諸力に頼らず、市場を廃止し、熟慮して定めた目標に向けて集産主義的・意識的な管理・統制をするかが、今問題になっている。

<分配的正義と交換的正義>
・書かれている事の第2は、「分配的正義」は「交換的正義」と異なり、自由主義は相容れないとの主張である。分配的正義を決めるのは国家であり、これが恣意的に行使されると個人の自由は否定される。つまり社会主義は「完全な平等」でなく「より多くの平等」を要求している。そのため後者(※多分、分配的正義)は曖昧で、自由社会では両立しないとした。同書から引用する(※簡略化)。
 自由主義体制と全体的計画体制の違いは、ナチス/社会主義者は「政治と経済が人為的に分離されている」と非難する点にある。「自由社会では政策にない経済活動が容認され、経済活動が政府から独立して展開される」と非難する。しかし彼らの主張に従えば、単一の支配する権力が出現し、人の目的を統制し、各個人の立ち位置を決定する事になる。
 決定的な問題がここにある。「完璧な平等」に同意すれば全ての問題は解決するが、「より多くの平等」を求めても何の解決にもならない。これは明確な内容を持たず、個人・集団の功罪を決定する必要性を解消しない。これが主張するのは「金持ちから取り上げよ」だけである。その取り上げたものの分配において、「より多くの平等」は役に立たない。

<民主主義への警告>
・書かれている事の第3は、民主主義の危険性である。J・S・ミル(1806~73年)も少数派の意見が抹殺され「多数派の暴政」になると警告していた。『隷属への道』から引用する(※簡略化)。
 民主主義は平和を維持し、個人の自由を保証する手段である。民主主義体制より独裁的支配の下で文化的・精神的自由が実現された事もある。空論を振り回す多数派支配では、独裁体制と同様に圧政的になる場合もある。
 「主要価値としての民主主義が脅かされている」との議論があるが、これは「多数派の意志である限り、権力が恣意的になる事はない」との信念が根拠になっている。民主主義が存在するだけで「権力が恣意的にならない」のでない。

・ハイエクの思想は英国では受け入れられた。しかし「新しい伝染病」(社会主義)が流行り始めた米国は違った。それを読まずして受け入れる保守派もいれば、「最高の理想に対する裏切り」と感じる左翼もいた。そのため彼は「信じられない様な攻撃を受け、学者としての信用を奪われる所まで行った」と回想している。
・彼が言うように同書は「政治的パンフレット」と扱われたようだ。しかし1960年には自由主義哲学の体系書『自由の条件』を書き、1973年には『法と立法の自由』を書いている。よって同書は彼を自由主義・社会哲学の研究に導いた本と云える。

<ハイエクが見付けた論点>
・この章の本題に入る。ハイエクはケインズ革命で敗れ、社会哲学に方向を変える。ケインズ革命から10年後、彼らしい仕事が出始める。彼は新古典学派(一般均衡理論)が「市場均衡」に集中し、「市場過程」を等閑視していると批判する。ただしこれはカール・メンガーに始まるオーストリア学派に共通する主張でもある。

・彼は「競争」の使われ方に不満を抱いていた。一般均衡理論の「完全競争」に対する彼の持論を見てみよう。彼は完全競争の条件を、①原子論的な市場構造(売り手も買い手も多数存在する)、②均質の商品、③市場参入・退出の自由、④完全知識(売り手も買い手も十分な知識を持つ)とした。しかし現実は、独占・寡占が見られ、商品は不均質である(※情報も非対称)。経済学者は市場が不完全である事を知っているが、完全競争を参照基準にしている。

・そのため市場を完全競争に近付けるべきとの思考法もあった。彼の考え方もそれに近かった。論文『競争の意味』を引用する(※簡略化)。
 現実の市場に「完全なる売り手」は存在しない。広告/値引き/財・サービスの改善は定義によって排除される(※完全競争の定義に該当しないかな)。実際はあらゆる競争的活動が存在しない。

<経済問題は変化から生じる>
・彼は論文『経済学と知識』の延長で、「完全知識」を考察している。第1に、売り手・買い手は商品・サービスに関し十分な知識を持っていない。そのため個人的なコネクションから知識を得る。彼はこれを「真の競争」とした(※これは面白い。市場情報の獲得競争だな)。市場参加者は、この「競争プロセス」により知識を積み重ねる。彼は「完全競争論は競争的均衡に関心を集中させているが、そこに至るプロセスを対象にしていない」とした。当時の新古典派は静態的で、生産関数/費用関数(※説明が欲しい)の変化を捨象し、完全競争(価格=限界費用)を条件としていた。彼は「経済問題は変化から生じる」とし、論文『競争の意味』で述べている(※簡略化)。
 経済問題の解決は「未知なるものへの探検航海」であり、これまでより良い方法を発見する試みである。予見できない変化が起こり続けるため、この試みは尽きない。この様な変化が起こり続けるため、経済問題が存在する。

<競争が働いているか>
・第2に、完全競争の条件①③に関する論点である。教科書は、完全競争/不完全競争/寡占/独占の順で完全性が低下するとしていた。そのため司法当局が独占市場で企業分割する事を認めていた。ところが彼は、市場で競争が働いているかが重要とした。独占・寡占であれ、良い商品が安価に提供されていれば問題はない。実際は独占・寡占でも、新商品・新技術の競争に晒されている。あるいは政府が独占企業を保護しない限り、参入を阻止できない。論文『競争の意味』から引用する(※簡略化)。
 今の流行は不完全性への不寛容であり、競争の禁圧に対する沈黙である。一方我々は「競争が故意に抑圧された場合」を研究する方が、競争の本当の意義を学べると考える。「競争がない場合」とせず「競争が故意に抑圧された場合」とするのは、通常であればより緩和であても競争が発揮されるからだ。競争の不完全さが引き起こす害悪より、競争抑制によって引き起こされる害悪の方が重大である(※以下同様の事が書き続けられているが省略)。

・一方彼と同じ時期LSEに在籍していたジョン・ヒックスは『価値と資本』(1939年)で、「完全競争の仮定の一般的放棄、独占の仮定の全面的採用は、経済理論に破壊的な結果をもたらす」と述べている。しかし同書の後半では、「静学」と「動学」の橋渡しを問題視し、理論を展開している。そのため後年、「ネオ・ワルラシアン」(ワルラスの一般均衡理論を受け継ぐ人達)に染まっていたと述べている。理論経済学の最先端のヒックスでさえ「市場均衡」に集中し、「市場過程」(市場プロセス)を等閑視していた。

<市場プロセスへのアプローチ>
・ハイエクが早い段階から「市場プロセス」に注目していた事を解説してきた。同じオーストリア学派のミーゼスはどうだったのだろうか。彼の大著『ヒューマン・アクション』(1945年)を見てみよう。ただ同書の第2版(1963年)はミスプリント・落丁・乱丁が多く、版元とトラブルになり、彼は不眠症などになった。第3版(1966年)を出し、立ち直ったようだ。

・ハイエクもミーゼスも市場プロセスに注目していた。ハイエクが「変化が常に経済にアプローチしている」と考えたのに対し、ミーゼスは一切の変化が排除された「均等循環経済」(仮構)の構築を前提とした。これはシュンペーターの「静態」と類似している。『ヒューマン・アクション』で「均等循環経済」について述べている(※簡略化)。
 均等循環経済は、全ての財・サービスの価格が最終価格となっている架空のシステムである。ここでは、価格・生産量・消費量など何の変化もなく、全てが均等に循環する。価格は均衡価格で変わらない。この仮構は、時間/市場現象を排除する。需給の変化もない。

・この「均等循環経済」(仮構)もシュンペーターの「静態」も現実的でない。そしてミーゼスは、「この仮構に変化が生じた時、どの様な現象が生じるか」が経済学だとした。そして「この時の変化は、人間の行為により起こされる」とした。※当時は商品の種類・数量が少なく、変化は今より穏やかだったかな。

<プロモーターとしての企業家>
・「均等循環経済」では、未来は不確実でなく、「行為」する必要もない。しかし「変化」が大きければ、「行為」する余地が生まれる。シュンペーターは「静態」を破壊するのが「企業家」のイノベーションとし、それを「動態」とした。一方ミーゼスは、「企業家」はあえて投機し、利益を出そうとする「プロモーター」とした。『ヒューマン・アクション』から引用する(※簡略化)。
 企業家(プロモーター)を厳密に定義する事はできない。しかし経済学でプロモーターは必須で、全ての市場に存在する。これは全ての人で反応が異なり、同じでない事を示す。機敏に動く人もいれば、そうでない人もいる。市場の駆動力、革新・改善行動はプロモーターの情熱によってもたらされる。

・ミーゼスは、「企業家は、変化によって均等循環経済が崩れた時、利潤の機会を発見し行為する人」とした。利潤(製品価格と生産費の差額)があると企業家は供給量を増やし、需給が均等し、利潤がゼロになるまでそれを続ける。シュンペーターは「企業家には、均衡破壊の役割がある」としたが、ミーゼスは「企業家には、均衡回復の役割がある」とした。
※ミーゼスの方が現実的かも。現実は均等に近い状態で、これに企業家など(消費者も含む)が常に変化(破壊、回復)をもたらしているかな。

<混合経済に対する批判>
・大著『ヒューマン・アクション』の「人間行為学」は重視すべきかもしれない。しかし一般の読者は、彼の「人間行為は目的的行動」とする方法論をオーストリア学派の方法論的個人主義の延長であると捉えるべきだ。実践的に言えば、同書を企業家論/市場経済論として読むべきだ。ハイエクは「市場プロセス」に注目していたが、ミーゼスも企業家による「不均衡」から「均衡」に至るプロセスを重視していた。そのため静態的な一般均衡理論の新古典派に意義を唱えた。

・第二次世界大戦後、「混合経済」(政府が市場に深く関与)の言葉が使われる様になるが、ミーゼスは「資本主義に混合の言葉は適さない」と反論する。『ヒューマン・アクション』から引用する(※簡略化)。
 生産手段が政府・自治体により公有されても、社会主義と資本主義が結合した混合経済にはならない。市場経済の特徴は変わらない。公有公営企業でさえ市場の支配下にあり、市場経済の仕組みに従う。消費者はこれらの企業を愛顧するかもしれないし、しないかもしれない。政府はその損失を課税でカバーする。この課税は経済に影響を及ぼす。その影響は政府でなく、市場が決める。これにより公営企業の活動も決まる。
 市場に関係するものは、人間行為学/経済学では社会主義と呼べない。工場・商店・農場などの公有化は社会主義化の一歩ではあるが、社会主義でない。ソ連経済は市場で売買されており、資本主義体制である。貨幣計算(?)している事自体が、その証である。というのは貨幣的経済計算自体が市場経済の知的基礎だからだ。この計算により経済は進化し、機能している。

<競争政策をめぐる環境変化>
・ハイエクは「独占は、政府により保護されていなければ深刻な問題でない」としたが、それを大作『法と立法と自由』(1973年)でも取り上げている。競争理論は、1970年代まではハーバード学派の「産業組織論」が影響力を持っていた。彼らは「市場構造が市場行動を導き、市場行動が市場成果をもたらす」(SCPパラダイム)とした。そのため政府も市場構造の競争性を高める競争政策を採った。
・しかし「コンテスタビリティ理論」の登場で変化する。これは「コンテスタブル(競争可能)な市場であれば新規参入もあり、反トラスト法の厳格な適用は不要で、むしろ規制緩和すべき」とする理論である。ハイエクの主張を見てみる(※簡略化)。
 幾つか、あるいは単一の企業だけが低い費用で商品の供給が可能である。この場合、その企業は限界費用まで価格を下げるのでなく、新規参入を妨げる程度の価格を維持するだろう。彼らは独占・寡占企業になり、その価格を維持するだろう。
 独裁者は限界費用に達するまで生産を拡大し、資源の利用を改善できる。しかし市場は不安定なので、この基準は適当でない。それは市場を決定する事実の全てを独裁者が知っているとの仮定が誤りだからだ。※多分こんな事が書かれている。この先で詳細解説しているが、理解できないので省略。

<競争の本質>
・ハイエクの主張はプラグマティックである。ありもしない完全競争でなく、現実は独占であれ寡占であれ、より良い製品をより安価に供給できるかにある。オーストリア学派は「独占・寡占は望ましくない」とする硬直的な考え方を批判する点で一致する。ミーゼスは「市場が完全競争でないからこそ、競争が展開される」とした。『ルートヴィヒ・フォン・ミーゼス』から引用する(※簡略化)。
 完全競争ではミーゼスが重視する企業家を考える事ができない。彼は、生産者の成功・失敗から消費者が決定するとの競争プロセスを構想した。これは参入も確信させる(※詳細省略)。彼にとって「競争」は絶える事がない企業家の冒険である。この冒険により、新たな生産物・生産方式が生まれ、新たな価格が決まる。そして資源はより効率的に使用される。消費者はこの市場プロセスから利益を得る。そのため企業家の参入の自由が保証される諸制度が重要になる。

・ミーゼスは「競争」の本質を、「市場構造が完全競争に近いか」でなく、「企業家の参入の自由があるか」と捉えた。カーズナーはここから、競争政策を基準にする米国司法当局への批判に進む。

<オーストリア学派の伝統>
・私(※著者)が「オーストリア学派は市場プロセスを重視する」と主張するのは、オーストリア学派の創設者カール・メンガーが述べているからだ。彼は「限界革命」(※詳細省略)の中心人物として知られる。そして競争観はレオン・ワルラスの完全競争を仮定する「一般均衡理論」とは異なる。

・メンガーは主著『国民経済学原理』(1871年)で「主観的価値論」を掲示している。これは「財の価値は主観的評価による」とする。簡単に説明すると、AとBで穀物と葡萄酒の価値が異なる。この参加者が増えると価格が収束する(※詳細省略)。この価格が決まるプロセスを「競争」とした。
・ハイエクはこれを的確に理解していた。『国民経済学原理』の出版100周年で彼は述べている(※簡略化)。
 私は価格が一定点に収まるより、一定の範囲に収まる方が落ち着く。この考え方に現実主義を感じる。メンガーは数学の利用を嫌っていた。また彼の著作に一般均衡の概念はない。もし彼が著作を続けていたら、今私達が行っている過程分析の道具を提供していただろう。この点においてオーストリア学派の著作は、ワルラスによる経済システムの眺望と大いに異なる。

・ミーゼス/ハイエクもこのオーストリア学派の伝統を引き継ぎ、市場プロセスを重視した。彼らは「保守派」に分類される。米国のニューディール期、彼らは古典的自由主義を遵守し、「リベラリズム」に抵抗した。この時リベラル派のジョン・ケネス・ガルブレイス(1908~2006年)も反トラスト法の厳格な適用に反対している。ただし彼が反対する理由は、独占・寡占の方が資金的にイノベーションが起き易いからだ。それが彼の名著『アメリカの資本主義』(1952年)に書かれている。後の『新しい資本主義』(1967年)でも米国の資本主義を「大企業王国」とし、イノベーションで優位としている。

第3章 シュンペーター理論の核心

<シュンペーターの資本主義論>
・資本主義対社会主義の時代は資本主義の言葉が頻繁に使われた。しかし社会主義の瓦解後は、市場経済/市場体制などの言葉が使われている。これに旧マルクス経済学者(※旧?)は、「資本」の言葉が隠蔽される事に異議を唱えた。

・ここまではシュンペーターの資本主義論を語らず、その準備をしてきた。彼の主著『経済発展の理論』の出発点は「静態」である。彼は経済主体には本源的生産要素の持主(労働者、地主)しかおらず、生産物価値は彼らが分配する。その中から優れた企業家が現われ、銀行家の支援でイノベーションが起き、「動態」に変わるとした。まずは「企業家」について同書から引用する。
 企業家は新結合(※イノベーション?)を遂行し、それを能動的に行う経済主体である。

・シュンペーターは企業家をイノベーションを遂行する機能と考えている。そしてイノベーションを起こすために銀行家と共に登場するが、イノベーションを起こすと消える。同書から引用する(※簡略化)。
 誰でも新結合を遂行する時は企業家になる。ただしそれを終えると、性格を喪失する。これは研究者が常に創造しないのと同じである。

<5つの新結合>
・彼は新結合を5つ挙げた。①新しい財貨の生産、②新しい生産方式、③新しい販路、④新しい供給源の確保、⑤新しい組織。これは「技術革新」より広い範囲が設定されている。

・「静態」では貯蓄/資本蓄積がされていない。そのためイノベーションを起こすには、企業家と同様の先見の明を持つ銀行家が必要になる。彼は同書で銀行家について述べている(※簡略化)。
 銀行家の役割は、商品を仲介商人する「購買力」だけでなく、生産者である(※当時は商人が資金提供していた?)。しかし今は貯蓄の全てが銀行に集まり、購買力(資金提供?)の全供給が彼らに集中し、唯一の資本家になっている。そして彼らは新結合の遂行者と生産手段の所有者の間に立つ。彼らは発展の1つの現象であり、新結合の遂行に全機能を与える。

<動態利潤説>
・イノベーションが起こると(例えば新しい生産方式)、企業家は超過利潤を得て、銀行家は利子を得る。この利潤/利子は「動態」でのみ存在する。そこから「動態利潤説」と呼ばれる。
・イノベーションを起こすのは限られた企業家だが、模倣によりイノベーションが「群生」する。「静態」は「動態」に変わり、経済は「好況」になる。しかし大量の新製品で需給が変わり、価格が低下する。銀行の信用収縮も始まり、経済は「不況」になる(※必ず不況になるかな)。これにより「動態」は「静態」に戻る。しかし経済自体は豊かになる。これが「動態利潤説」の骨子だ。

<企業家に必要な資質>
・『経済発展の理論』の主役は企業家である。企業家には「静態」を打ち破る資質が必要になる。その資質を、「洞察」「意志の新しい使い方(※精神?)」「社会環境の抵抗」の克服としている。詳しく見るため同書を引用する(※簡略化)。
 慣行の循環においては、各経済主体は地盤を確信し、循環に適合した態度に支えられる。この場合、迅速かつ合理的に活動できる。ところが非慣行になると、彼の知識・経験では不十分なため、指導が必要になる。
 我々は生産の結合方法を自然的可能性として扱わなければいけない。そして新結合の遂行は特殊な機能であり、客観的可能性を持った少数者の特権である。従って企業者は特別な類型で、その行為は問題になり、顕著な現象の原動力になる。その事態は3つの対比で特徴的となる。第1は、2つの実体的過程の対比で、一方は循環ないし均衡傾向となり、他方は循環軌道の変更ないし経済活動の自発的変更となる。第2は、2つの理論的用具の対比で、静態と動態である。第3は、単なる業主と企業家である。※難解。静態となる場合と動態となる場合の比較かな。

・以上の文章には、彼の3つの明確な概念が表れている。「循環ないし均衡傾向対循環軌道の変更ないし経済活動の自発的変更」「静態対動態」「単なる業主対企業家」である。彼の理論には静態と動態の両方が必要なのだ。

<ネオ・オーストリアンとの溝>
・ネオ・オーストリアンのカーズナーはシュンペーターの企業家の「均衡破壊」を批判している。彼(カーズナー)は「不均衡状態こそ、市場プロセスが進行し、企業家に諸機会が訪れている」とした。彼は師ミーゼスの思考法を的確に理解している。つまり「不均衡状態において、諸機会に機敏な企業家が市場の不調和を調整し、均衡状態に導く」とした。これはシュンペーターにすれば、「単なる業主」になる。一方彼は「企業家には、動/静、創造型/適応型がおり、彼らにより経済が研ぎ澄まされている」と考えた。彼の若き日の名著『競争と企業家精神』(1973年)を引用する(※簡略化)。
 シュンペーターは企業家を「循環的流れを破壊し、均衡から不均衡を作る」と考えた。しかし私は「均衡化をもたらすのが企業家」と考える。それは「気づかれていない諸機会への企業家的な機敏さ」であり、それが均衡の循環的な流れに向かう傾向を生み出す。企業家精神が重要なのは、「市場プロセスにおいて、それを自ら作用させるのを可能にするから」である(※難解だが、企業家精神が常に働いているため、経済活動が変動しているかな)。従って経済発展の可能性は特殊ケースである。

・シュンペーターは「企業家の役割はイノベーション」と強調したため、ネオ・オーストリアンとの間に溝ができた。彼は反トラスト法を評価しない点で、ネオ・オーストリアンと一致していた。しかしイノベーションを理論や政策に組み込んでいるかを強調したため溝ができた。

<資本主義の原動力>
・シュンペーターが反トラスト法を評価しないのは、それが静態的な価格理論の応用に外ならず、資本主義の原動力であるイノベーションがもたらす動態を考慮しないからだ。彼はイノベーションを「創造的破壊」と表現した。そして「静態」は創造的破壊が不在の「凪」とし、そこで競争政策を立案するのは資本主義を理解していない者と考えた。『資本主義・・・』(※以下、『資本主義・・・』)から引用する(※簡略化)。
 例えば寡占的産業で、内部での周知の運動と反運動が高価格と生産量制限以外を目的としないと考える経済学者が、その様な仮定を置いている(※難解。運動は何?仮定は何?)。彼らは瞬間的な状態の与件を過去にも将来にもなかったと受け取り、その与件に関連せしめて利潤極大の原則で説明すれば理解できると思い込んでいる(※難解。与件は何?)。
 本当の問題は資本主義が如何に現存構造を創造・破壊したかにあるのに、資本主義が如何に現存構造を操作しているかに置いている。そのため研究者は無駄な仕事をしている。

・ここでシュンペーターの経済思想の発展・進化について補足する。1912年『経済発展の理論』を出した時は、小企業が競争する「競争的資本主義」だった。1926年ピエロ・スラッファが論文『競争的条件の下での収穫の法則』を出し、不完全競争理論が注目される。従って1912年の段階では、完全競争をモデルにしていた。1942年『資本主義・・・』を出した頃には不完全競争理論/寡占理論も登場し、これらにおいては価格は高くなり、生産量も少なくなると理解される。もっとも彼は、その「静態的枠組み」においてイノベーションを想定していない事に矛先を向けた。いくら競争形態が変わっても、イノベーションは消滅しないと考えた。

<新古典派への異議>
・彼は独占・寡占が占める経済を「トラスト化された資本主義」と呼んだ。そして「これにより企業家精神が衰退する」とは考えなかった。それゆえ完全競争をモデルにして競争政策を考える当時の正統派「新古典派」に異議を唱えた。『資本主義・・・』から引用する(※簡略化)。
 近代的産業条件では完全競争は不可能である。大規模組織/大規模支配単位を不可分の必要悪と認めねばならない。これを議論するだけでなく、次の事を認める必要がある。この戦略は生産制限的ではあるが、これにより大規模組織が経済進歩/生産量の長期的増大のエンジンになった事である。これを考えると、完全競争は不可能で劣等であり、理想的能率モデルでない。そのため完全競争を作用させる政府統制は正しくない。

・彼は、「大規模組織の専門家集団がイノベーションを計画・立案すると、企業家精神が形骸化し、資本主義は衰退する」と考えていたとされる。しかしこれは長い時間の後の社会変化を記述したもので、彼の資本主義衰退論と一致する(※まだ資本主義衰退論を説明していない)。1930年代アルヴィン・H・ハンセンが長期停滞論を出した時、彼はこれを「創造的破壊の原動力を知らない者だ」と切り捨てた。

<資本主義衰退論>
・ハーバード大学の保守派が、同大学がケインジアンに染まるのを心配し、ミネソタ大学からハンセンを引き抜いた。しかし彼は熱心なケインジアンになる。彼は資本主義の長期停滞論を唱えている。その根拠は、①人口減少、②フロンティア消滅、③イノベーションの低迷である。ここでシュンペーターに関連するのが③である。しかしシュンペーターはイノベーションが消滅する事に同意していない。第二次世界大戦後の米国経済の歩みから、ハンセンは自説を改め、「混合経済」の支持者になる。これは、政府はマクロ経済では経済管理し、ミクロ経済では自由市場を尊重する考え方である。

・ところがシュンペーターは資本主義を長期に見ると、社会主義に代わられる(資本主義衰退論)と主張する様になる(※結局はマルクスになびくのかな)。1950年『資本主義・・・』の第3版が出る。この頃は東西が政治的・経済的に対立し、「資本主義か社会主義か」が一般の関心で、同書も注目された。第2部「資本主義は生き延びるか」の冒頭で、「資本主義は生き延びない」と断定している。しかし直ぐに肩透かしを食う。同書から引用する(※簡略化)。
 分析がもたらすのは諸傾向の叙述に過ぎない。これらは将来、何が起こり得るかを教えるに過ぎない。不可避性・必然性などを意味しない。
 資本主義の現実的・展望的な成果は、資本主義が失敗により崩壊するとの考え方を擁護する。むしろ資本主義の非常な成功が社会制度を覆し、存続を不可能とし、社会主義を強く志向する事態になる。従って私の最終的結論は社会主義者・マルクス主義者と変わらない。しかしこの預言を期待してはいない。社会主義を憎悪しながら、その到来を預言できる。※経済学者も同じ主張を続けるのでなく、新しい注目される説を唱えないと、商売にならないかな。

<企業家機能の無用化>
・「シュンペーターは、資本主義はその成功ゆえ滅んでいくと唱える」とする啓蒙書が多い。しかし真意を知るには行間を読む必要がある。彼は資本主義衰退の第1要因を「企業家機能の無用化」としている。しかし彼は「競争的資本主義」が「トラスト化された資本主義」になっても企業家精神が衰退するとは考えていない。

・1908年ヘンリー・フォードがT型フォードを出すが、同じ頃彼は『経済発展の理論』を執筆し、フォードの様な英雄的企業家を想定している。「トラスト化された資本主義」になると、イノベーションは「一群の専門家」の「日常的業務」から起こされる様になり、イノベーションなどの変化が当たり前になり、消費者・生産者の新しい物への抵抗はなくなる。そして彼は「経済進歩は非人格化され、自動化された。官庁・委員会の仕事が個人の活動に代わる傾向にある」とした(※難解。公の仕事が民の活動へ?)。

・この「一群の専門家」の仕事が官庁・委員会の仕事に代わると本当に考えたのだろうか(※前文と逆?)。彼は幾つかの例を挙げている。ナポレオンの時代の軍事的成功は、司令官によるとした。しかし現代の戦争は、合理化・専門化されたオフィスの仕事によるとしている。同じ様に「企業家精神の無用化」→「資本主義の衰退」と考えたのだろう。『資本主義・・・』から引用する(※簡略化)。
 資本主義が停止または自動的になれば、産業ブルジョアジーの経済的基礎は準地代の残存物や独占的な利得を除けば、日常的管理の賃銀だけに押し込められる(※経済的基礎?)。資本主義的企業は業績によって進歩を自動化させる。それは自身を余計なものにする(※基本は進歩=自滅だな)。官庁化した巨大産業単位は中小企業を追い出す。そして企業者(※イノベーションを起こす企業家?)も追い出し、ブルジョアジーは収奪される。これが最も重要で、ブルジョアジーは機能を失う。社会主義の先導者は知識人・扇動者でなく、ヴァンダービィルド/カーネギー/ロックフェラーなどである。※イノベーションを起こす主体が代わっても、資本主義の根本原理は変わらないと思うが。

<擁護階層の消滅>
・シュンペーターが挙げる資本主義衰退の第2の要因は「擁護階層の壊滅」である。封建社会の制度的仕組み(荘園、村落、職人ギルドなど)は破壊されるが、中世貴族はしぶとく生き延び、資本主義の社会的・経済的条件に適応した。彼らは行政官・外交官・政治家になり、「古い威信の遺影」を残す。ところが企業家・商人は「神秘的栄光の片鱗」を持ち合わせず、「元帳と原価計算」に熱中している。そのため「政治的威信」が欠落している。以上が彼の考え方である。資本主義には「非資本主義的な支え」が必要なのに、企業家・商人の合理主義・非英雄的活動により支えが失われたとした。『資本主義・・・』から引用する(※簡略化)。
 資本主義は前資本主義社会の骨組みを破壊し、資本主義の進歩を阻止する障害物を打ち壊した。その必然的・印象的な過程で、制度的な枯れ枝は取り除かれ、資本主義の本質的要素である資本家階層の同伴者(※擁護階級?)も一掃した。この不明瞭な事実を資本主義独特の社会形態と見なしたり、封建主義解体の最終段階と見なす事が正しいか否かが問われるべきだ。私は異なった時代に生まれた2つの階級(※封建者と農民?)の共棲は例外でなく、常態と考える。この共棲は6千年間、すなわち遊牧人が土地耕作者を支配して以来の常態と考える。

<制度的枠組みの崩壊>
・資本主義衰退の第3の要因は、重要な制度的枠組みである「私有財産」「契約の自由」の崩壊だ。「競争的な資本主義」の時代は個人や家族が企業を経営し「私有財産」の観念が強かったが、「トラスト化された資本主義」になると、大企業の経営者は彼らほど利益に敏感でないとする。『資本主義・・・』から引用する(※簡略化)。
 資本主義過程は工場を株式に変え、財産であったものから生命(?)を奪う。そのため把握力を弛緩した。すなわち財産を処分する法的権利の把握力の弛緩、能力としての把握力の弛緩、所有者が経済的・肉体的・政治的に闘い、討ち死にする意志の把握力の弛緩である。これは所有者の態度だけでなく、労働者・一般大衆の態度にも影響する。財産形態は人の心を動かさなくなり、道徳的忠誠も喚起しなくなる。これを擁護しようとする人もいなくなる。

<知識階級の右傾化> ※左傾化でなく右傾化?
・資本主義衰退の第4の要因は、資本主義に敵対する「社会的雰囲気」の醸成である。シュンペーターはこれを「知識人の社会学」としている。生活水準の向上は、閑暇の増大/マスコミの発達/高等教育の拡充/知識階級の活躍をもたらした。知識階級は左傾化するが、近年は知識階級は右傾化している。『資本主義・・・』から引用する(※簡略化)。
 公共政策が資本主義に敵対的になり、資本主義の必要条件を斟酌するのを拒否し、その働きに対する妨害物に至る理由は社会的雰囲気である。知識階級の活動は、それを言語に表現し力を添える以上に直接的な関係を持つ。知識人が政治に参与する事は稀である。しかし彼らは政治参謀になり、政党の冊子・原稿を書き、政治家の人気を作っている。この人気を国民は無視できない。この様にして知識人は全ての事に自分の考え方を刻みつけている。

<シュンペーターの結論>
・以上の4つの要因が長期に進行すると何が起こるのか。「競争的な資本主義」の時代では、『経済発展の理論』の中核に企業家によるイノベーションを捉えた。しかし「トラスト化された資本主義」に移ると、大企業の専門家が組織的にイノベーションを企画する事になる。ただし企業家精神が停止されるとは考えなかった。そのためハンセンの「長期停滞論」「投資機会の消滅」を一笑した。しかし4つの要因の中の「非経済的要因」が資本主義のダイナミズムを削ぐと考えた。『資本主義・・・』から引用する(※簡略化)。
 企業家・資本家の重要性は低下し、擁護制度は破壊され、敵対の雰囲気が作られるなどにより資本主義の原動力は解体される。資本主義は超資本主義的素材(?)で作られておりながら、これを破壊する宿命にある。資本主義には自己破壊する傾向が内在する。
 客観的要素・主観的要素や経済内的要素・経済外的要素が相互に協力して、この結果を導くかは説明しない。これらの要因が資本主義の崩壊だけでなく、社会主義の出現を助長する事もここでは説明しない。資本主義は自らの骨組みを破壊し、他の骨組みを作り出すので、破壊でなく「転形」である。事物と精神が社会主義的生活様式に変形される。この転形とこの主動因(?)を経済過程に結び付ける事において、マルクスに賛成する(※誰もマルクス主義を怖れている)。かくして資本主義の衰退はその成功に基づくとする主張と、失敗に基づくとする主張に相違はない。

<注意すべき2つのレトリック>
・これがシュンペーターの資本主義衰退論の結論である。しかしこれには、2つの注意すべきレトリックがある。第1は「成功ゆえに衰退する」であり、「失敗ゆえに滅ぶ」でない。後者であるマルクスの『資本論』は経済学界や社会主義運動に影響した。シュンペーターはマルクスから多くを学んだが、彼の結論のみに同意し、資本主義衰退を経済的要因でなく非経済的要因から説いた。しかし「競争的な資本主義」から「トラスト化された資本主義」への進化、擁護階層の消滅、資本主義に敵対的な知識階級の台頭などは、資本主義の失敗に変わりない。

・第2は、社会主義を経済システムとして認めながらも、「文化的不確定性がある」とした点である。彼は「社会主義は絶対的支配者に統制される事もあれば、最も民主的な組織になる事もある」と述べ、社会主義が独裁になる可能性があるとした。これは北欧型社会主義とソ連の独裁型社会主義を示している。
・今の社会主義の現実を見れば彼の真意が理解できる。またこれに彼の第二次世界大戦後に大蔵大臣に就いた経験が関係していると思われる。学生時代の友人が権謀術数の使い手に変容した事に衝撃を受け、閣僚を辞任した。彼はこれで社会主義の現実を知ったのだろう。後に彼が都留重人に述べている。
 人には誤信がある。私は社会主義者は高い人格・教養を持ち、政治・文化に洗練されていると思っていた。しかし現実は違った。

<政治家と官僚のバランス>
・この様な経験から、彼は社会主義をバラ色と考えなかった。『資本主義・・・』の第4部は「社会主義と民主主義」で、民主主義が成功するための条件を詳しく述べている。その前提となる問題意識が幾つかある。第1の条件は、政治家に高い資質が必要とした。『資本主義・・・』から引用する(※簡略化)。
 高い資質の政治家を確保する方法は、政治を天職とする階層が必要である。そして彼らは多くの新要素を吸収し、伝統やしきたりなどを基礎にし、適合性を高める必要がある。※政治家階層/世襲制などで欧州的だな。
・彼は例としてドイツでワイマール共和国(1919~33年)がナチスにより倒された事と英国を比較し、英国を評価している。彼は企業家と政治家の資質は異なるとし、前者が後者を後援する事を期待していた。

・第2の条件は、政治の範囲が余りに広い事である。例えば「刑法が必要か」は民主主義的な方法で解決できる。しかし犯罪は複雑な現象のため、懲罰的感情・感傷的気分で処理できず、専門家に委ねるべきとした(※三権分立で問題ないのでは)。これについては、少し距離を置いて述べている。『資本主義・・・』から引用する(※簡略化)。
 首相によって統制された議会は、その決定に法的限界を持っていない。米国植民地に対する英国政府・議会の行動から分かるように、議会と言えども制限が必要である。政府・議会の決定は形式的なもので、監督的な性質の法案を通す。そうでないと民主主義的方法は立法的な酔狂になる。※植民地支配は話が別の気がするが。

・第3の条件は、公共目的に献身する官僚である。彼は官僚に「身分と伝統」「強い義務感」「強い団体精神」を求め、優れた官僚組織がないと「素人政治」になるとした。彼は官僚がどの様な社会階層から輩出されるかを中世の歴史から述べている。政治家と官僚が切磋琢磨し、一方が強力にならない事で、民主主義は成功するとした。『資本主義・・・』から引用する(※簡略化)。
 官僚は批判を浴びたにも拘らず、私の言いたい事を例証している。中世においては諸侯の代理であったが、今は強力な機構に成長した。この成長は、将来においても保証される。

<民主主義的自制が働くには>
・第4の条件は、民主主義的自制である。政治家も選挙民も甘言・誘惑に乗らない高い知性と道徳が必要である。これを彼は「立法的改革・行政的行動の提案は秩序正しく行われるべきで、これはパンの配給を受ける列の様である必要がある」と述べている。彼はボン大学の教授を務め、ナチスの台頭を体験した。そのため政治家が政府の転覆を図るなどを「民主主義の終末」と述べている。そして民主主義の成功には政治的な駆け引きに反対し、市民が自制する事が必要と述べている。

・第5の条件は、異なった意見に対する寛容性である。これはJ・S・ミルの『自由論』(1859年)以来、おなじみである。自由には寛容性が必要だが、民主主義にも必要である。シュンペーターは「一定の国民的品性と国民的習性が必要」としている(※これが寛容性を指すかな)。『資本主義・・・』から引用する(※簡略化)。
 民主主義は騒然たる時期には上手く行かなくなる。民主主義は競争的な主導力を破棄し、独占的な主導力を採用する事態が起こる。古代ローマでは非常事態が発生すると、選挙によらない執行長官に独占的な主導力が与えられた。米国大統領にも同様の権限が与えられている。この独占的な主導力の期間が限定されるなら問題ないが、期間が限定されないと、他の事柄も無制限となり、民主主義の原理は廃棄され、独裁制度となる。

・彼は社会主義と民主主義が結び付く事を否定していない。しかし以上の5つの根拠から独裁制度になる可能性を検討した。彼の民主主義論は古典的民主主義論の欠陥を突く事から始まっている。次章でミーゼス/ハイエクと比較する。

<シュンペーターの影>
・シュンペーターは「資本主義は成功によって滅ぶ」とした。サッチャー首相の政策はサッチャリズムと呼ばれるが、森嶋通夫はこれを「反シュンペーター革命」と名付けた。彼はシュンペーターの資本主義衰退論をマルクス的な革命でなく、「体制の形態転換」と理解した。彼はサッチャリズムを「反シュンペーター革命」とした。歴史はAからBに進む(シュンペーター変換)を、彼女はAに巻き戻しているため「反革命」とした。

・サッチャー政権が誕生する前は主な産業/電信電話/社会保障/医療は国有化されていたが、彼女は「英国病」に罹る前の「ビクトリア時代に帰れ」とし、「小企業時代」を復活させ、非効率の大学/国民保健機構/美術館/博物館などを冷遇した。彼の『サッチャー時代のイギリス』から引用する(※簡略化)。
 彼女の私立学校の新興、公営住宅の売却、医療サービスの企業化、国有企業の私有化などは「反シュンペーター革命」の一環である。彼女は肥大化した福祉国家を解体し、競争社会を復活させようとした。それだけでなく彼女は、ビクトリア時代の上中階層の家庭的躾を礼賛し、質実で禁欲的な家庭を基礎とする自由私企業経済(競争的な資本主義)を復活させようとした。

・彼は英国の福祉国家を「シュンペーター変換」と捉え、サッチャリズムに「反シュンペーター革命」の言葉を与えた。シュンペーターの資本主義衰退論は予言であったが、サッチャリズムによって彼の真意が現実になった。※反シュンペーター革命が真意?

第4章 政治過程の経済分析

<古典的民主主義の批判的検討>
・ミーゼス/ハイエク/シュンペーターの中では、ハイエクの「民主主義への懐疑」が一般的に知られている。しかし本章ではシュンペーターの古典的民主主義論批判を主に取り上げる。それは彼の問題提起から「公共選択論」の分野が開拓されたからである。

・シュンペーターは経済学者として認識されいる。しかし政治学者としての評価も高い。彼は古典的民主主義を批判し、現実的な民主主義論を掲示した。彼は『資本主義・・・』で古典的民主主義を「民主主義的方法とは政治的決定をするための制度で、人民の意志の代表する者を選出し、公益を実現するもの」(※簡略化)と定義している。さらに古典的民主主義の学説を説明している。『資本主義・・・』から引用する(※簡略化)。
 政策の指標である「公益」は簡単に定義できる。そしてこれを認めない事はできない。そしてこれはあらゆる問題に明確な解答を与えるため、政策は紛れもなく良いもの/悪いものに分類される(※政策を簡単に評価できるかな)。従って原理上は人民の意見は一致し、「共通の意志」を持つ。反対が成されるのは到達する速さに対する相違位である(※昔は政策対立は少なかったかもしれないが、今は常にあると思う)。かくして構成員(※代表者?人民?)は目標を自覚し、何が善で何が悪かを識別し、前者の促進に加担する。

<公益とは>
・これらが古典的民主主義とすると、公益は良いもの/悪いものに二分され、前者を実現するのが「良い政治」になる。これに対しシュンペーターは「公益を定義するのは容易でなく、具体的な方法も明確でない」と反論する(※こちらが普通かな)。
・第1に、公益が一義的とされたのは、18世紀以降の功利主義者が狭い見方をしたからだ。そこで彼は「実際は公益は個人・集団で異なる」と否定した。第2に、功利主義者は「公益は経済的満足の極大」とするが、これに対する明確な解答はない。彼は「全ての人民が功利主義者になっても、問題は解決しない」とした。

・これらから彼は「人民の意志」「一般意志」の基礎は崩れているとした。公益がないので「私益」しかない事になる。これは「経済人モデル」の基本である。その意味で彼はミクロ経済の合理化行動を通じて政治にアプローチする道を開いた。これが後に「公共選択論」になる。これにより彼は政治学者に高く評価される。政治学者・河野勝が述べている(※簡略化)。
 彼のこの選択は、経験実証主義的研究に繋がる。この研究は政治現象を起こすアクター(個人・集団)に着目し、ミクロ的分析視角を持つ。現代政治学では「個人・集団は選好/効用関数に従って行動する」が前提である。そしてこの選好/効用関数は外生変数としてあらかじめ決められる(※この辺りは省略)。これらから彼の議論が現代政治学を先取りしてしていた事が分かる。

<権力闘争に対する慧眼>
・シュンペーターは民主主義をどう定義するのか。彼は公益を否定し、アクターに注目した。そしてアクターの目的は「人民の票」の獲得が前提である(※アクターは政治家個人あるいは集団だな)。『資本主義・・・』から引用する(※簡略化)。
 古典的学説の難点は、命題「人民は問題に対し明確な意見を持ち、それを実現する代表を選ぶ」に集約される。よって第1義的な目的は人民に政治問題の決定権を与える事であり、第2義的な目的は代表を選ぶ事である。しかし我々はこれを逆にし、政府あるいは政府を作る中間体を作る事が第1義的な目的になる。すなわち民主主義は政治決定のために個人(※政治家かな)が人民から票を獲得するために競争し、決定力を得る制度である。

・彼は古典的民主主義の学説より自分の定義の方が政治過程を理解できるとした。私は経済学がバックボーンだが、彼の定義は「リアルポリティクス」に思える。公益を強調するより、権力闘争の方が理解できる。企業家も「建て前」と「本音」が異なる。彼は政治家として失敗し、銀行の頭取になるが、他人に利用され莫大な借金を負う。この経験が効いたのだろう。『資本主義・・・』から引用する(※簡略化)。
 社会の目的を明確化する事に困難はない。この目的は、個々の活動の根拠・意味を提供する。けれどもその目的が個々の活動の動力であるとは結論できない(※難解な説明を簡略化)。例えば経済活動の目的は人々の衣食住だが、これは経済活動の非現実的な出発点である(※なぜ非現実的?)。経済活動は、むしろ利潤を出発点とする方が理解できる。同様に議会活動も法律の制定や行政的施策の設定が目的だが、民主主義的政治においては権力・官職の獲得のための闘争が出発点である。※要するに目的と動機(インセンティブ)は異なるだな。

・民主主義に政党は不可欠である。各政党は選挙前にマニフェストを公表するが、多数党になってもマニフェスト通りに行動しない。これは権力闘争に過ぎないからだ。そしてシュンペーターはその多数党が次の闘争に向け、手練手管の限りを尽くす事を示唆している。『資本主義・・・』から引用する(※簡略化)。
 政党は、ある時点においては主義・綱領を用意する。これは百貨店のブランドと同様である(※詳細省略)。しかしこれによって政党は規定(?)されない。政党は政治的権力闘争のための集団である。そのため同じプログラムを掲げる政党は存在しない。政治家の本質は同業組合と同じで、政治的競争を規制(※規律?統制?)する試みである。スローガンや行進曲は二次的なものでない。政治的ボスも然りで、政治に不可避である。

<ミーゼス、ハイエクの場合>
・シュンペーターは民主主義をこの様に解釈していた。一方ミーゼスはファシズム論との関係で民主主義について述べている。『ヒューマン・アクション』から引用する(※簡略化)。
 全ての苦悩・悲惨の原因である集団主義思想が復興した(※ナチズムかな)。そのため自由主義社会哲学の思想が忘れ去られた。自由と民主主義を正当化する議論は、集団主義的誤謬に染まり、自由主義を歪曲している。多数者は反対者を押し潰せるが、これは独裁の原則であり、政務を自制する義務はない。ある派閥が過半数を得ると、これまでに用いてきた民主主義的権利を過半数の市民から奪う事ができる。※反対者だけでなく、支持者の権利も奪うのか。

・だからと言って、彼は民主主義を否定しなかった。続けて述べている。
 この疑似的自由主義は、自由主義の教説と対立する。自由主義者は多数者が神とは信じない。ある政策が多数者に支持されても社会福祉に役立つとは主張しない。彼らは独裁も少数者への暴力も推奨しない。彼らは社会的協業の円滑化と相互的社会関係の強化を目指す。また政治的集団が野蛮な暴力的闘争に進展する事を回避する。分業には平和が必要なため、そのための制度、すなわち民主主義の確立を目指す。
・ミーゼスはファシズムから逃れ、米国に移住する。彼は自由主義こそが民主主義の根底と信じていた。次にハイエクの民主主義論を解説するが、ミーゼスほど楽観的でない。

<多数派の暴走>
・ハイエクは人気者だが、『隷属への道』以外は余り読まれていない。彼の民主主義論で注意すべきは、「民主主義」と「自由主義」を全く別の主義としている点である。彼は「自由主義は、政府の権力の制限に関心がある」とし、「民主主義は、誰が政府を指導するかに関心がある」とした。すなわち選挙で多数派になれば権力の正当性を要求できるのが民主主義で、その権力を制限するのが自由主義とした。そのため自由主義の反対は全体主義であり、民主主義の反対は「権威主義的政府」とした。従って自由主義が民主主義と結び付く事もあれば、権威主義的政府と結び付く事もある。※自由主義は精神的な思想であり、民主主義は制度的な思想かな。

・自由主義と民主主義が結び付くのが最良とすれば、これには多数派の「自制」が必要になる。しかし彼はこれを難しいとした。それは多数派が、特定の団体の利益に誘因されるからだ。『自由主義』から引用する(※簡略化)。
 多数派は多種多様な集団に利益を与える差別的政策に賛成し、自由主義を放棄する。余りに複雑な課題に多数決で処理できない場合、政府は民主主義的統制から官僚的装置に継承される(※難解)。この様に民主主義での自由主義の放棄は、民主主義を消滅させる恐れがある。統制経済のためには権威主義的政府が必要なのも事実である。
・多数派が自制を忘れると、全体主義と権威主義的政府の組み合わせになるとした。

<問題の根源>
・1970年代ハイエクはこれらの問題を論じる様になり、『自由の条件』に代わる、大著『法と立法と自由』を著す。諸章(※緒章)で民主主義的権力の分割を述べているが、これが最も重要と考える。『法と立法と自由』は政治的パンフレットと呼ばれた『隷属への道』より成熟している。彼は「代議員議会は一般的行動ルールを明確化・定式化する仕事と、特定の問題に対する行政的措置の命令が仕事になっている」と懸念した。前者は立法だが、後者は行政である。彼は立法の多くの仕事は、本来は行政の担当であるとした(※傾向は逆と思った)。『ハイエク全集10 法と立法と自由 自由人の政治的秩序』(※以下、『ハイエク全集10』)から引用する(※簡略化)。
 代議員議会の主要任務は立法から行政になった。行動計画のために多数派が必要になり、民主主義的行政のための制度になった、行動計画のためには、執行権が継続的に維持されなければいけない。行政は利益要求を絶えず決定し、様々な集団の要求を選択しなければいけない。
 民主主義的行政では行政行動に責任を持つ集団が必要であり、人々がそれに不満を表明するなら、その行政を監視・批判・申し出る集団が存在しなければいけない。行政を管理する集団は、立法任務、すなわち日常の任務を推進するための法の支配の恒久的な枠組みを決定するのは正しくない。※難解。議会の多数派は立法でも優位と思うが。

・ハイエクは「法」と「命令」を区別していた。彼は19世紀の法学者と同様に自由主義的法概念を持ち、「個人的自由の保護」「政府権力の制限」を重視していた。ここでの法は、「私法・刑法を構成する正しい行為の規則」であり、全ての人に適用される一般性を持つとした。『自由主義』から引用する(※簡略化)。
 ロック/ヒューム/スミス/カント/ウィッグ派などが法における自由の不可欠を語る時、それは私法・刑法を構成する正しい規則であり、立法による全ての命令が対象でない。政府が強制する規則を自由の条件を満たす法と見なすには、コモンローには備わっているが、成文法は必要でない属性を持つ必要がある(※難解)。つまりそれは将来において万人に適用可能な一般的規則である必要がある。従ってそれは禁止の性質を持ち、私有財産制度と不可分である。この私有財産制度は、個人が適当と思われる仕方で目的を追求でき、持てる知識・技能・自由を正しい規則に従って用いる事ができる。

<1970年代中頃の政治状況>
・ハイエクが「法」と「命令」の区別に拘るのは、多数派の暴走を懸念しているからだ。この1970年代中頃は、福祉国家の衰退/ケインズ主義の退潮/保守主義の復活などがあった。19世紀的法哲学への固執/私有財産制度への尊重から、彼は後ろ向きと捉えられた。彼がこれに固執したのは、多数派の暴走により立法・行政の自由主義・民主主義が機能不全になる事を恐れたからだ。『ハイエク全集10』から引用する(※簡略化)。
 民主主義的理想が勝利し、法を制定する権力と命令を発する行政権力を同じ集会(※団体?)が握る様になった。これにより最高の統治権は、どんな法でも自由に手にできる。これは「法の下の政府」の最期である。両方の権力を同じ集会に委ねるのは、無制限の政府の復帰である。「民主主義は多数派に従うので、一般利益になる」を無意味にした。自己の決定の正義に対する論証の責任がない団体は、様々な集団に特別な便益を与える必要に迫られる。※多くの国が議院内閣制なのでは。

・余談だが、ハイエクは自由市場経済の下では「全能の政府」(ナチス)は生まれないと考えた。一方ミーゼスはナチスの手に掛かる前にスイスに逃れたが、『全能の政府』(1944年)を読んでも民主主義論を詳細に論じていない。『全能の政府』から引用する(※簡略化)。
 空想に耽るのは無駄である。政府によるビジネスの統制は、解決しえない紛争を起こす。人・商品が国境を超えるのは簡単だが、軍隊は容易でない。社会主義者や国家社会主義者は、経済学者を沈黙させた。「全能の政府」が永久平和をもたらす事はない。自由市場経済のみが平和をもたらす。政府による統制は経済的ナショナリズムを呼び起こし、紛争を生じさせる(※なんか今の米中対立だな)。
・自由経済市場(※自由市場経済?)であれば、経済的ナショナリズム/ナチズムを生じさせなかったとした。これは甘い見方であり、シュンペーター/ハイエクの方が政治過程に洞察が深い。
<独占権への抵抗姿勢>
・ハイエクは多数派が立法・行政を牛耳ると、民主主義・自由主義は自滅するとした。しかし立法が行政の権力を制限する事で、それを除去できると考えた。『ハイエク全集10』から引用する(※簡略化)。
 最近、中央政府の権力が増大している。それは地方・地域レベルの計画が失敗すると、「より大規模レベルで適用すべき」と主張するからだ。これにより野心的な構想が試みられる。しかし中央政府が絶大な権力を持つ根拠は、立法が無制限の権力を持つからだ。しかしこれは、あってはならない。それは経済過程を望み通りに統制する自由裁量的・差別的な手段を行政に与えるからだ。よって行政に差別的な権力を与える立法権を国の立法部から奪う事で、それを回避できる。

・中央政府の命令が地方政府に行き渡らなかった事は、共産国でも資本主義国でも見られる。彼は中央政府の計画通りに地方政府が動かない失敗から、中央政府が統制を増大させ挽回しようとする例を挙げた。しかし立法で制定された一般ルールを遵守するなら、地方政府が公的サービスを提供する事は許されるとした(※日本では中央と地方の衝突は少ないかな。沖縄を除いて)。地方政府への公的サービスの委任は彼が言い始めた事でない。また彼は政府による公的サービスの独占の廃止を提案している。そして地方政府が準営利法人になる事を示唆している。そして彼は中央集権主義が人々が自分の利害を口にするのを封じた事を問題視している(※また別の問題が出てきた。言論の自由かな)。『ハイエク全集10』から引用する(※簡略化)。
 政府のサービスを小さな単位に委任する事は、共同体精神の復活になる。現代社会の不人情は、経済過程での非人格的な結果でなく、中央集権化により言いたい事が言えなくなった事である。大きな社会は抽象的である。この経済秩序で個人はあらゆる手段を用いて利益を得られ、匿名の貢献をする。しかしこれは情緒的・人間的要求を満たさない。この業務の指導は重要だが、彼らから取り上げられ、関係の薄い官僚の手に委ねられた(※業務とは公的サービスの提供かな)。

・政府の独占権は公的サービスの廃止で打破できるが、当時は福祉国家路線が定着しており、抵抗が強かった。フリードマンが『資本主義と自由』(1962年)で同様な事を訴えている。しかしハイエクは教育/輸送/郵便/電信・電話/放送だけでなく、公共事業/社会保障/通貨発行の独占権まで奪へと主張した。

<自由社会そのものが問われている>
・政府サービスの是非をケースバイケースで考えるプラグマティックな判断もあるが、ハイエクは原理主義で、効率性でなく自由社会が問われる問題とした。『ハイエク全集10』から引用する(※簡略化)。
 しかしこれらを政府が独占するかは重要である。ここにおいて政府の独占に対する批判の方が優勢でなければいけない。例えば放送の独占は、自由に対する脅威になる。また郵便制度も政府独占の例である(※検閲になるかな)。

・フリードマンとハイエクは政治的自由の見解を共有していたが、通貨制度に関しては異なる。フリードマンはインフレ抑制策として、通貨供給(マネーサプライ)のコントロールを提案している。一方ハイエクは政府の通貨発行の独占を認めず、『貨幣発行自由化論』(1976年)を書いている。『ハイエク全集10』から引用する(※簡略化)。
 私は執筆過程において、「政府の通貨発行の独占権を取り上げないと自由経済システムは機能しない」と確信した。私は政府の圧政や権力の乱用から保護するため、政府の再構成を提案したが、それは通貨発行の統制権を奪わないと実現できない。通貨発行を私企業による競争通貨にしない限り、これを実現できない。

・ハイエクの最晩年に共通通貨ユーロが動き出す。これは彼にとって自由の危機だった。彼はベルリンの壁の崩壊を見届けるが、ハッピーエンドでなかっただろう。そして世界に席捲するのは、彼の思想と異なる市場原理主義になる。『ハイエク全集10』から引用する(※簡略化)。
 完全に統一された国家(※説明が欲しい)の解体と、至上権は消極的な任務に限定されなければならないとする原理は国際組織に適用されなければいけない(※EUなどかな)。平和を目的に国際政府を創出しようとする試みは、間違った目的で行われている。つまり国民政府の権力を制限し、互いの損害を減らす国際法であるべきが、特定の規制をする専門化した権威を創出する目的がそうである(※具体例が欲しい。ECBなどかな)。最高の共通価値が消極的なものなら、最高の共通ルール・権威も禁止令に制限されるべきだ。

<ハイエクという座標軸>
・戦後日本の論壇では、疑われる事のない自由主義・民主主義を再考すべきとの主張が一部で始まった。彼らはハイエク同様に「多数派の暴政」を警戒し、自由に至上の価値を求めた。佐伯啓思の『自由と民主主義をもうやめる』から引用する(※簡略化)。
 自由を無条件に認めると、とんでもない事になる。大事なのは自由によって何をするかだ。市場競争も同様で、これによってどんな生活をするか、どんな国土を作るかが大事で、市場競争そのものでない。民主主義も同じで、民主主義そのものが大事なのでなく、民主政治で国民が持つ文化・価値が政治で表現される事が大事だ。日本ではそれにも拘らず、物事が上手く行かないと行政の管理や規制が厳しい、自由がないと批判する。日本の問題は、自由/民主主義/市場競争がないからでなく、ビジョン/プラン/想像力がないからだ。それは日本が切実な問題に直面していないからだ。

・これにハイエクの名前は出てこないが、彼を座標軸にすると理解し易い。私は「真正保守」に詳しくないが、偉大な思想家の影響を深い所で受けている。さてシュンペーターの民主主義論を論じてきた。ある時、彼の民主主義論が不人気なのは新古典派の「経済人モデル」を応用しているからだと考えた(※経済人モデルはミクロ経済の発端になった考え方かな)。彼の発展理論は「創造的破壊」と言われ人気があるが、民主主義論は「経済人モデル」を応用している。彼は「公益はない」と言い切り、マルクス主義者・社会主義者から不評を買った。彼は第一次世界大戦前のハプスブルク帝国を愛する保守派だが、マルクスの動態的な資本主義のビジョンを持っていた。しかし民主主義論は新古典派の「経済人モデル」に近かったため、顕著な貢献として認められなかった。

第5章 資本主義はどこへ向かう

<資本主義をどう評価するか>
・ミーゼス/シュンペーター/ハイエクはウィーン大学で学び、資本主義のバイタリティを高く評価するが、それには微妙に違いがある。インテリに「反資本主義メンタリティ」が広まる中、ミーゼスはこれに強く憤慨した。彼は米国に移っても、資本主義を擁護した。米国には「レッセ・フェール」(自由放任主義)が残っており、ニューヨーク大学をネオ・オーストリアンの拠点に育てた。ただしケイジアン(新古典派総合)が多数であった1973年になくなり、ベルリンの壁の崩壊を見ていない。
・一方ハイエクは壁の崩壊を見ているが、欧州が統合/共通通貨に向かうのを見て、不安だったろう。彼の資本主義擁護論は反社会主義から来ているが、その根底に18世紀英国の「真の個人主義」(ヒューム、スミスなど)がある。
・シュンペーターはミーゼス/ハイエクに比べ、イノベーションを賛美した様に資本主義をロマンティックに賛美した。「トラスト化された資本主義」が進行するが、直ちに資本主義の死を宣言しなかった。資本主義の衰退を論じながらも、それを望んでいなかった。

<反資本主義メンタリティへの反論>
・ミーゼスのライフワークは『ヒューマン・アクション』だが、この章では『反資本主義メンタリティ』(1956年)を取り上げる。彼はここで「反資本主義メンタリティ」を平易な言葉で反論している。彼は資本主義の特徴を「消費者主義」としている。『反資本主義メンタリティ』から引用する(※簡略化)。
 現代の資本主義は消費が前提で大量の財が生産される。その結果、生活水準が向上し、人々を豊かにした。資本主義は普通の人をプロレタリアからブルジョアの地位に引き上げた(※プロレタリアはプロレタリアのままだけど)。資本主義では普通の人が購入するかによるため、彼らが主権を持つ。彼らにより商品の質や生産量が決定される。

・ミーゼス夫人マルギットは彼の原稿に感想を言わなかったが、一度言った事がある。「自由市場で最も重要な事実は、貧しい人に役立つ事と思う。これを強調した方が良いのでは」。彼は単純明快な言い方をするので、彼女の言葉は彼に影響したと思う。

<消費者主権とシュンペーター>
・「消費者主権」は経済学の初学者でも知っているが、3人ではミーゼスが一番重視している。ハイエクは資本主義の特徴として「知識の分散」を重視している(※2つとも集合知かな)。シュンペーターは、「動態」による企業家の指導機能が消費者主権を支配するとした(※企業家と消費者は表裏の関係で、どちらが経済・市場を主導するかかな)。シュンペーターの『経済発展の理論』から引用する(※簡略化)。
 経済は欲求充足が根本である。「革新は消費者の間に自発的に現れ、これにより生産活動が変えられる」との主張があるが、「欲望は生産者の側から消費者に教え込まれる」のが常である。

・これに対しミーゼスは、経済が貧しい人に豊かさを与えた事を強調している。マルクス/シュンペーターは資本主義の良い面だけでなく、悪い面も見ていた。一方ミーゼスは「大衆のための資本主義」を強調したかったのだろう。『反資本主義メンタリティ』から引用する(※簡略化)。
 資本主義により普通の人でも富裕な生活を送れる様になった。しかし自動車・テレビ・冷蔵庫などを得ても、幸福の一部に過ぎず、新たな願望が湧く。それが人間性である。米国人は最も高い生活水準を享受している。非資本主義の大多数の人は、それを手にできない事を知りながら、それを欲求する。それが経済発展の推進力になる。この向上を望まないのは美徳でなく、動物的行動である(※逆では)。人間の第1の特徴は、自分の福利向上への努力である。

<新古典派総合の考え方>
・米国は1930年代の大恐慌から自由放任主義には欠陥があり、政府による経済管理が必要な事を学んだ。これが「修正された資本主義」であり、サムエルソンの『経済学-入門的分析』(1948年)に「混合経済」として出てくる。これは市場メカニズムを信頼する「新古典派経済学」と「有効需要の原理」から総需要管理を必要とするケインズ経済学を総合し、「新古典派総合」として体系化される。

・混合経済は死語に近くなったが、彼の教科書は読まれた。その第3章は「混合経済における価格の機能の仕方」で、重要な解説がある。『経済学』から引用する(※簡略化)。
 1.価格機構は競争市場での需要・供給を通じ、経済組織に3つの問題(※何を/いかに/誰のためにかな)の答えを与える。この機構は完全でないが、「何を」「いかに」「誰のために」を解決する。
 2.人々のドルの投票が価格を決める。その価格は生産の指針になり、事業家は生産を拡大し利潤を上げられる。事業家は労働・土地などを相対的に安いものにしなければ損失を招く。何を/いかに/誰のためにの問題も解決される。所得の分配も要素価格(?)の競争で決定される。要素価格は労働賃金/地代/著作権料/資本に対する収益などである(※所得かな)。肥えた土地を持つ人/流行歌手などはドルを余計に受け取れる。一方財産・教育を持たない人、皮膚の色や性が不利な人は所得が低い。
 3.経済は二重の意味で混合的である。「政府が民間の創意を限定する」「独占的要素が完全競争を制約する」の2点である。

・これらから価格メカニズムを理解している事が分かる。独占的要素により完全競争が機能しなくなるケースがあり、その場合、民間の創意を制限する必要があるとした。続いてマクロ経済における政府干渉を示唆している。
 4.資本財(機械、住宅、在庫など)は国の産出高に寄与する。時間を要する生産方式で資本財を増やすには、消費を一時的に犠牲にする必要がある。その際、利子率が割当・誘導の役割をする。
 5.混合経済では資本財は私有財産として所有される。これによる所得は所有者のものになるか、税金として徴収される。共産主義では、国が私有財産を所有する。
 6.特化/分業が近代経済の特徴である。これにより生産性は高まったが、相互依存/疎外も強まった(※疎外は何だ)。
 7.物々交換は貨幣を通して行われる。その貨幣が物神化している。マクロ経済学における財政・金融政策を怠ると、「豊饒の中の貧困」「駆け足インフレーション」などに見舞われる。
・ミーゼスがニューヨーク大学に在籍していた頃、このサムエルソンの新古典派総合が主流だった。そのためミーゼスは傍流で、「自由市場」一辺倒の経済学者だった。

<ケインズ主義に対する見解>
・サムエルソンは反資本主義でなかったが、自由放任主義の欠陥を政府による経済管理で除去し、価格メカニズムを有効に活用させる考えである。これはケインズの『一般理論』を受け継ぐ。しかしこれはミーゼスには社会主義と同様に反資本主義メンタリティであった。『反資本主義メンタリティ』から引用する(※簡略化)。
 私達の大部分が間違っているのは、豊富な供給を望んでいる事でなく、目標のために間違った手段を選択した事である。この選択は重大な利害に反している。これは長期的な帰結を見届ける事ができず、短期的な喜びを味わっている。この選択は社会的協力の崩壊、野蛮状態への復帰をもたらす(※具体例が欲しい)。

・これは次の様に解釈できる。自由経済の下では、経済問題は価格メカニズムに委ねられるべきだが、機能するには長期間が必要になる。一時的に労働市場の賃金率(※分配率?)が低下するとケインズ政策に飛び付き易い。これにより一時的に失業が減っても、長期的には価格メカニズムのツケを払わされる。ミーゼスはこれを古風な表現で説明している。『反資本主義メンタリティ』から引用する(※簡略化)。
 物質的状況を改善するためには、人口増加に対抗し資本蓄積を加速させる事である。労働者1人当たりの資本量が大きいほど、多くの質の良い商品が生産され、消費される(※資本蓄積?生産性も重要かな)。これが悪用された利潤システム(※ケインズ政策?)により、日々もたらされている。それなのに政府・政党は破壊しようとしている。

・ミーゼスの考え方は、今の市場原理主義を内包している。「市場」を捨て、「計画」を取った社会主義、「計画」の一部を採り入れた新古典派総合との違いが明白である。ベルリンの壁の崩壊後、市場原理主義が席捲するが、そんな中、資本主義は1つでないとする「比較制度分析」が育ちつつあった。

<市場対計画の単純化>
・比較制度分析は、ナッシュ均衡の概念を駆使し、複数均衡が成立する可能性を論証した。例えば日米の企業システムを文化・習慣からでなくゲームの理論を使って、「J-企業システム」「A-企業システム」の均衡が成立する事を論証した。
・その後この比較制度分析は著しく発展し、この方法論を歴史に適用する「比較歴史分析」も生まれた(※「比較・・」は他にもありそうだが、「比較・・分析」はあるかな)。私は比較制度分析を「価格メカニズム」一辺倒で理解していた通念の反省として紹介している。ミーゼス/フリードマンらは「資本主義対社会主義」「市場対計画」に単純化したが、資本主義は「制度の束」として理解する必要がある。

・それでもベルリンの壁の崩壊は、壮大な実験の失敗を表す大事件である。1980年フリードマン夫妻が『選択の自由』を著し、明治維新で自由市場を選んだ日本と第二次世界大戦後に計画経済を選んだインドを比較している。それを振り返る(※簡略化)。
 1868年日本の指導者が国力の強化を図る。彼らは個人的自由・政治的自由に価値を感じなかった。それなのに自由な経済政策を採用し、さらに個人的自由の実現にも導く。一方インドの指導者は個人的自由・政治的自由を支持していたが、集団主義的な経済政策を採用する。そして個人的自由・政治的自由を切り崩していった。これは2つの異なる時代の風潮を反映している。19世紀半ばは自由貿易/民間企業が当然視されていた。ところが20世紀半ばになると、中央集権的な5ヵ年計画が当然視される。日本はアダム・スミス、インドはハロルド・ラスキ(?)の政策を採用した。

<正義の使われ方>
・ミーゼスはベルリンの壁の崩壊を見れなかったが、ハイエクは見届けた。しかし欧州統合は望ましくない方向だった。ハイエクの社会主義批判には『隷属への道』を読むのが良い。彼が最も批判したかったのは、社会主義者の「社会的正義」の多用である。彼は「正義」は、人間の正しい行動や一般的規則に用いられるべきと考えていた。これはデイヴィッド・ヒュームの自由主義的法/政治哲学を受け継ぐ。『市場・知識・自由』(1963年)から引用する(※簡略化)。
 ヒュームは「一般的秩序の樹立を保証するのは、正義の一般的な不変の規則の適用だけ」と考え、「規則の適用は個々の目的・結果からでなく、普遍的一般的な適用でなければいけない」と考えた。個々の目的に対する関心、各個人の真価に対する考慮(?)は一般的秩序の確立を損なう。これは人間が近視眼的で、将来の利益より目先の利益を選好するからだ。※基本、法・規則は普遍的なものになっていると思うが。
 さらにヒュームは「真の個人主義者」で、人間理性の限界を理解していた。彼は政治組織に期待しなかった。政治的善(平和、自由、正義)には消極的で、侵害に対する保護と認識していた。

・社会主義者は所得分配の不平等を「社会的正義に反する」とする。これに対しハイエクは「期待を満たさなければ我々は不平を言い、補償を要求する。新しい神になったに過ぎない」と述べている。

<真の個人主義者の条件>
・ハイエクは自由な社会に「社会的正義」はなく、正しい行動についての一般規則としての「正義」のみとした。「真の個人主義者」は社会的正義だけでなく、「社会にとっての価値」も拒否すべきとした。『ハイエク全集9 法と立法と自由Ⅱ 社会的正義の幻想』(※以下、『ハイエク全集9』)から引用する(※簡略化)。
 「正義に適う/反するにより市場が報酬を決定する」との概念の源泉は「社会にとっての価値」だが、その様なものはない。これは社会的正義と同様に、神人同形同性論や擬人化を意味する。しかしサービスは構成員毎に価値が異なる。これに反する見方は、個人の自由を欠く全体主義の見方である。

・現代で「社会にとっての価値」の言葉を奪われると、言葉を失う。しかし「真の個人主義者」である彼は、個人の評価を他人に押し付ける事を認めなかった(※普遍的価値は一応あるかな)。『ハイエク全集9』から引用する(※簡略化)。
 「ある人の価値」を「社会にとっての価値」と言いたくなる。しかし何百万人にマッチを供給し、年間20万ドル稼ぐ人に「社会にとっての価値」があるとするのは間違いである。ベートーヴェンのソナタもレオナルドの絵画も、それを鑑賞する人にだけ価値がある。また何百万人に提供するサービスもあれば、少数にしか提供しないサービスもある。サービスの価値は標準で測れない。

<進歩的思想というより先祖返り>
・ハイエクが「社会的正義」に過剰に反応するのは反社会主義による。これを『ハイエク全集9』から見てみる。人間は1千年もの間、部族社会だった。この様な小集団であれば、目的の設定は容易である。しかし市場の出現により、人々は「共通の可視的意図」(※具体例が欲しい)から「抽象的ルール」に従って行動する様になった。これにより文明は発展し、「大きな社会」になった。この様に、彼は「社会的正義」を進歩的な合言葉として用いる社会主義者を、部族社会の「共通の可視的意図」への「先祖返り」と批判した。彼らが「社会的正義」を掲げると、市場の「抽象的ルール」をトップの命令・指令に代えていると批判した。『ハイエク全集9』から引用する(※簡略化)。
 魅力的である「社会的正義」は新しい道徳を掲示しているのでなく、前時代の本能に訴えているだけである。これは「開かれた社会」の道徳を部族社会のものに戻す試みで、「偉大になった社会」を崩壊させ、300年余りで人類を成長させた市場秩序への脅威である。
 市場秩序から遠ざけられた人々は新しい道徳の使者でなく、「開かれた社会」の行動ルールを学習・習得していない非文明人である。彼らは部族社会の本能的・自然的な概念を社会に課そうとしている。特に新左翼の人は、全ての人の平等が形式的ルールだけの体系でのみ可能な事を見ようとしない。※市場競争と利潤の再分配は、次元が異なると思うが。

<ハイエクの遺言>
・ハイエクが「社会的正義」を幾ら批判しても、その言葉は消えなかった。リベラル派・急進派は、彼こそ古典的自由主義を理想として現状を批判する「守旧派」とした。しかし「計画」の統制は様々で、厳しいものから緩いものまであり、両者をバランスさせたサムエルソンの「混合経済」が経済を安定化させると思う。

・彼は晩年(1988年)に『致命的な思いあがり』を書いている。これに「文化的進化」の深化が見られるが、代表作とは言えない。しかし社会主義の実験を「致命的な思いあがり」とした点は不変である。同書は社会主義崩壊の1年前の著作で、彼と社会主義の因縁を感じる。『ハイエク全集Ⅱ-1 致命的な思いあがり』(※以下、『ハイエク全集Ⅱ-1』)から引用する(※簡略化)。
 人々は資本家の道徳的慣行に「自身の命そのもの」を負っている。プロレタリアの存在を搾取とする社会主義的説明は虚構である。彼らは他者から生計の手段を提供するまで存在しえなかった。彼らは搾取と感じるかもしれない。政治家は権力を得るため、その感情を煽るかもしれない。しかし彼らは先進諸国がもたらした機会に負っている。ロシアなどの共産主義国は西側が保たなければ飢えてしまう。世界の人口が保てるのは、私的所有を成功裏に維持し、改善するからだ。
 資本主義は生産から所得を得る新しい形態を与え、人々が家族グループ・部族から独立し、解放する形態を与えた。労働組合が妨害し、自分達の希少性を創作するグループ(※同業?)の独占により、与える限りを提供できなくなっても、これ(※独立・解放の享受?)は事実である。

<苦悩の始まり>
・シュンペーターは『資本主義・・・』などで「資本主義は長いスパンで衰退する」とした。資本主義が好況・不況を繰り返し、社会主義を葬り去った事実から、「彼は間違っていた」とする人がいる。しかし彼は、これを「予言」と誤解されないように説明していた。何度も説明したが、彼はこの「資本主義衰退論」を願っていた訳でない。彼の「理論と実践の峻別」は初期の小作『理論経済学の本質と主要内容』(1908年)から一貫しており、苦悩が始まっている。彼は「競争的資本主義」を賛美したが、時代は「トラスト化された資本主義」を到来させた。これが長く続くと経済体制は社会主義に移行するとした。しかし彼は大恐慌時にニューディール政策を採ったルーズベルト大統領を嫌った。彼は「ヒットラーが大統領、スターリンが副大統領に立候補したら、ルーズベルトに投票する気分になる」とまで言っている。この様に彼は意表を突く表現を好み、相手の反応を楽しんだ。

<シュンペーターの目>
・1930年代の大恐慌から第二次世界大戦までは激動の時代になる。経済管理・統制により経済は窒息状態になるが、彼はどう考えていたのか。『戦後の世界における資本主義』(1943年)から引用する(※簡略化)。
 理論家はこの様な政策を抽象的に扱う。けれどもその本質と帰結は補足的な諸政策に左右される。これらの諸政策は、その後の大企業の自立・独立を阻害するほど税率が高い。賃金/労働時間/工場規律の問題を政治化する労働立法であり、即時訴追の威嚇の下で実施されている(※永遠にその政策が続けられるとは思わないが)。この公共的所得創出は恒久的となる。資本主義の貯蓄・投資過程の原因の必要性のために作られた理論によって強調される諸要因(※資本蓄積の要因?)とは無関係に行われている。これでさえ資本主義と呼ばれる。何故こんな資本主義が生き残されるのか。一時的な税率軽減などは見られるかもしれない。けれども本質的な変更は望めない。

・彼は、選ばれた拠点の政府所有・管理/労働市場・資本市場の政府統制/内外企業の政府イニシアティブによる「国家資本主義」が現れると確信した。彼はこれを資本主義でなく社会主義とした。引用を続ける。
 経済的エンジンが社会主義と呼ばれるかは、趣味の問題である。市営ガス事業や累進所得税が始まった時、それに不満のブルジョアは社会主義と批判した。一方社会主義者は、マルクス主義によって聖別されないものを社会主義とは認めない。人々は言葉に敏感であり、社会主義の用語の受け入れは、戦術的配慮(?)で決まる。米国は激烈な断絶がない限り、それは不利に働く。

・サッチャリズム以前の英国は国家資本主義に近かったが、シュンペーターはそれを「資本主義の死」とは言わなかった。現実的に様々な要因があり、米国が社会主義に転じるとも言わなかった。ハーバード大学で彼を見ていたハーバラーは述べている。『「資本主義・社会主義・民主主義」の40年』から引用する(※簡略化)。
 シュンペーターは「経済の奇跡」(西ドイツ、日本、フランス、イタリア)を見届けられなかった。もし見ていたら、資本主義的方法に驚き、愉快に思っただろうか。いや驚かなかっただろう。それは彼がしばしば資本主義的方法が戦後を迅速に復興させる事を論じていたからだ。

<資本主義の将来>
・この問題で思い出すのは、戦後直後にハーバード大学であったシュンペーターとポール・M・スウィージー(1910~2004年)の論争である。スウィージーはマルクス主義に傾斜しており、後に大学を追われ、左翼系雑誌『マンスリー・レビュー』を創刊する。この時ワンリー・W・レオンチェフが司会をしており、シュンペーターの説を「資本主義はノイローゼにより衰退する」と表現している。『シュンペーターのビジョン』から引用する(※簡略化)。
 「資本主義は病人になっている」で両者は一致する。しかし診断の根拠は異なる。スウィージーは悪性のガンになり、死んでゆくと論じる。一方シュンペーターは古い恋人(資本主義)は1914年に既に死んでいる。この病人は精神身体症(?)で自己嫌悪となり、生きる意思を失うと論じる。この見方では資本主義は好ましくなく、存続し得ない。スウィージーはこの制度の運命は例の疎外(※説明が欲しい)で決まると論じる。

・現代ではノイローゼより「鬱」の方が理解しやすいかもしれない。シュンペーターは「資本主義が滅ぶ」とも「社会主義に移行する」とも明言していない。彼は長いスパンで考え、「1世紀でさえ短期」と述べている。初期の『経済発展の理論』では理路整然と発展理論を論じているが、晩年の資本主義衰退論は曖昧さが見られる。『戦後の世界における資本主義』から引用する(※簡略化)。
 経済統制の拡大/課税による上層階級からの収奪などの社会主義への接近は、農場主/中小企業の抵抗にあうだろう。法人の国有化に生死を賭して戦う事はないが、より急進的な対応には戦うだろう。将来は両棲的な状態が最もあり得るが、これは悲しむべき状態である。いずれの体制も起動力(?)を持たない。両棲状態は他の状態では消滅する(※どちらか一方になる?)。ある状態に恐れを持つ事はないが、他の状態に希望を持つ事もない。

・シュンペーターはマルクスに近い評価を受ける事を願い、同じ結論(資本主義は崩壊する)を持っていた。米国では個人の意思を離れ客観的論理が働く思想(マルクス主義など)は理解されない。しかし彼は欧州で教育を受け、マルクス主義を熟知していた。そのため彼の論理展開はマルクス的だった。『資本主義・・・』を精読した人であれば誤解しないが、一般の人は「資本主義は成功ゆえに失敗する」に飛び付き、誤解し続けている。彼が弟子にでさえ誤解されたのは、この辺りが理由だろう。

終章 落日の帝国が生んだ経済学者 ※本章はまとめに近い。

<シュンペーターが求めたもの>
・落日のハプスブルク帝国は3人の経済学者を生んだ。この内シュンペーターは『理論経済学の本質と主要内容』で、いち早く学界にデビューした。彼は日本でもファンが多く、反射的に「イノベーション」を連想させる。しかし経済思想は単純でない。
・彼は「資本主義の本質」の答えを求め、学生時代にあらゆる文献を渉猟した。最初に研究したのはワルラスの「一般均衡理論」だ。ローザンヌ学派の「純粋経済学」(一般均衡理論の別名)に夢中になった。これが静学に過ぎないとの限界を超えようとしたが、「定常状態」「静態」に留まった。彼はこれを「動態」に広げようとし、そこでヒントになったのがマルクスの「動態的ビジョン」だった。彼はマルクス主義の文献を渉猟するが、マルクス主義にならなかった。マルクスの労働価値説も絶対的困窮化論も否定した。しかし動態的ビジョンは終生保持した。

・問題は一般均衡理論(ワルラス理論)から動態的ビジョンへの展開だった。彼はワルラス理論に「企業家」が登場するのを知っていた。ところがそれは「業主」「経営管理者」で損得は生じなかった。彼は仏国の文献も渉猟しており、カンティヨン/セイなどが資本家と企業家を区別している事を知っていた。そこで世界には本源的生産要素(労働、土地)の所有者しか存在しないとした。これにより企業家が「何か特別な事」を導入し、静態が破壊されるとした。この「何か特別な事」が「新結合」であり、後に「イノベーション」になる。また静態には貯蓄/資本蓄積がないため、資金面で企業家を支援する「銀行家」を登場させた(信用創造機能)。これらが『経済発展の理論』で特徴付けられている。

<資本主義の本質>
・シュンペーターが「資本主義の本質」を企業家のイノベーションとしていた点を再確認する。彼は資本主義を二元論(静態、動態)で論じ、その本質を企業家のイノベーションとしている。彼の1作目『経済危機の性質について』(1910年。※書名はドイツ語から和訳)から引用する(※簡略化)。
 経済発展の本質は、静態的用途に充てられていた生産手段がそこから引き抜かれ、新しい目的に転用される事にある。これを「新結合」と呼ぶ。これには少数の経済主体の知力・精力が必要で、これこそ企業家の真の機能である。

・この企業家のイノベーションが、彼の仕事の軸になる。『経済発展の理論』では、企業家のイノベーションにより静態が破壊され、好況・不況を経て、新たな静態に戻るモデルを掲示した。晩年の『資本主義・・・』では、資本主義の成功による企業家機能の不都合から、資本主義は長いスパンで衰退するとした。「成功が衰退をもたらす」とは彼らしいレトリックである。多くの研究者は同書を、彼の「気晴らし」と考えた。私は彼の傑作は『経済発展の理論』と考えている。『資本主義・・・』は経済理論から離れ、経済社会学の優れた成果とし、その民主主義論が政治学や政治過程の経済分野に大きな影響を与えたとする見解もある。しかし彼は経済学者であり、経済社会学者でなかったと思う。

<ミーゼス独自の人間行為学>
・ミーゼスはシュンペーターより2歳年上で、シュンペーターの名著と同じ頃に『貨幣および流通手段の理論』(1912年)を書いている。しかし彼の評価は遅れた。社会主義計算論争の口火となった論文『社会主義社会における経済計算』(1920年)で脚光を浴びるが、後塵を拝する。日本で彼は景気理論家として幾らか名前が通っていたが、彼の名著『ヒューマン・アクション』が米国で出版されたのは1949年と遅い。彼は3人の中で最も資本主義の光を評価した人で、マルクス経済学が注目される中でハイエクと共に「保守反動」と烙印された(※当時は社会主義が最先端かな)。そのため彼を研究する人は少なかった。彼が研究され始めたのは、弟子筋のハイエクが1974年にノーベル経済学賞を受賞してからだ。

・私はシュンペーターと同様に彼の著作にも親しんだ。それは『ヒューマン・アクション』でオーストリア学派の方法論的個人主義に倣って、「人間行為は目的的行動である」とする「人間行為学」を掲示していたからだ。この「行為は選択であり、不確実な未来に対処する事」に魅力を感じた(※これが個人主義の基本かな)。彼は人間行為学こそが資本主義の核心と考え、終生これを確信し、シュンペーターの様に資本主義が社会主義に移行するとは考えなかった。

<ハイエク思想の核心>
・ハイエクは「社会主義は思い上がり」と批判し続け、ミーゼスと似ている。彼は自由主義の社会哲学に詳しいが、体制比較する際は「権力の制限」「知識の分散」を重視した。彼は民主主義でも権力が制限されていないと、自由が否定され、暴政になると認識していた。これがベストセラー『隷属への道』のテーマである。彼は同書が「政治パンフレット」と見なされるのを恐れた。しかし多数派による暴政・市場を「自生的秩序」とする思想を萌芽させた。

・彼は心理学などの本も書いたが、経済思想史からすると『法と立法と自由』が社会哲学の頂点である。『自由の条件』も名著だが、前者は社会主義者が頻繁に使う社会正義を「幻想」とした。日本での彼のブームは1980年代に訪れる(※ノーベル賞受賞は1974年)。私が勤務していた京大でも、学生が彼をテーマにする様になった。彼は長い歴史を経て成立した「自生的秩序」を絶対視し、それを計画する社会主義/ケインズ主義を「知的傲慢」と批判した。

<3人の教えは活かされたか>
・3人はウィーン大学を卒業したが、何れもその教授に就いていない。オーストリアは1930年代にナチズムが席捲したため、結果的には学問に専念できた。ミーゼスはユダヤ人なので特にそうだ。シュンペーターは1930年代にハーバード大学に移った。ハイエクも英国のLSEで教鞭を執り、その後シカゴ大学などに移っている。

・彼ら3人は温度差があるが、戦後に主流になる「混合経済」に反対する。ミーゼスやその支持者は、壁の崩壊や市場原理主義を喝采した。シュンペーターは資本主義のバイタリティ(市場原理主義)に驚くが、条件を付けただろう。それは彼は「資本主義は経済的要因と非経済的要因から進化する」と考え、前者だけで問題解決しないと考えていたからだ。ハイエクも社会主義の敗北を喜んだかもしれない。しかし長い年月を経て形成される資本主義の習慣・伝統(自生的秩序)がない旧社会主義国にショック・セラピー「価格自由化」を押し付けたのは間違いと思う。

<循環する経済思想>
・経済思想は進化するのでなく循環すると考える。社会主義に勝利したのは資本主義でなく、修正された資本主義の「混合経済」である。「効率」と「公平」のバランスを取れるのは、これしかない。市場原理主義の行き過ぎによる経済格差/環境破壊を解決できるのは、この政府だけである。市場原理主義を信奉する「リバタリアン」(自由至上主義者)がいるが、現実的でない。

・第一次世界大戦前の「古き良き時代の資本主義」に戻る事はない。シュンペーターはこれを敏感に感じ「トラスト化された資本主義」での変化を分析した。ミーゼス/ハイエクは社会主義に強く反発した。ベルリンの壁の崩壊後、彼らの支持者の一部が市場原理主義者になった。

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