『憲法を生きる人びと』田中伸尚を読書。
10人の様々な思想・行動を紹介している。様々な社会問題を再認識できる。
書名は仰々しいが、それ程抵抗なく読める。
また反戦・人権・行動・継承などが根底のテーマである。
お勧め度:☆☆
内容:☆☆☆(多様な人物を詳しく紹介している)
キーワード:<沖縄>琉球絣、辺野古基地、靖国神社、沖縄戦、<海の破壊と漁村の女性>合成洗剤、渚の五十五年、田尻賞、<戦争孤児>疎開、空襲、就職、結婚、孤児調査、戦争責任、<無国籍の在日サラム>日の丸・君が代/教科書、無国籍/自然人、本名、祖国訪問、平和の条、<南京に通う接班人>南京事件、東史郎、教員、教学研究所、女性差別、接班人、大逆事件、<不当な命令への不服従>日の丸・君が代、不起立、被爆2世、条例、教育、<大地に平和の種を>三愛塾、水俣病、有機栽培・無農薬、戦争体験、<五分の虫、一寸の魂>司法書士、憲法委員会、手数料訴訟、父、政治連盟、<侵略責任への自責と贖罪>教科書、パネル、植民地支配、墨塗り、自責・贖罪、<主権者革命>戦争責任、長崎市長、歴史の証言、皇国少年、反戦運動/血のメーデー、径書房、自己決定権
第1章 沖縄を再び戦場にしてはならない・・松井裕子
・沖縄・南風原は琉球絣の里である。これは高機(たかはた)で織られる(※詳細省略)。かつては幾何学的な文様が多かったが、今は現代的な文様も増えた。※琉球絣は琉球貴族の着物で、明治になり廃れたが、復活したと聞いた。また色鮮やかに染める方法を聞いた気がするが、琉球絣だったかな。
・松井裕子(※以下彼女)は越後・高田に生まれる。30歳頃、琉球絣に魅せられるが、その20年後(2000年8月)南風原を訪れる。沖縄戦で琉球絣の何もかも失うが復活する。彼女はここの工房で週5日、織子をしている。手織なので、1反(12m)織るのに1週間以上掛かる。
・琉球絣は18工程あり、織子の工程は後ろから2番目である。彼女の工房の琉球絣は主に京都に売られる。着物以外に、シャツ/ネクタイ/ハンカチ/財布になる。かつては木綿糸だったが、1955年頃から絹に変わった。製品になるとシャツで4万円を超える。2007年前の工房が潰れ、今の工房は2つ目になる。
・彼女は辺野古基地移転反対運動に参加している。2015年からは「島ぐるみ会議・南風原」の事務局長を務めている。1969年彼女は静岡女子大学に入学する。当初は沖縄に関心はなかったが、静岡大学に沖縄からの留学生がいて、その交流から沖縄を知る様になる(※返還前なので留学生)。
・初めて沖縄に行ったのは1982年の家族旅行である。しかし観光コースではなく、金武湾の石油備蓄基地や復帰10周年の糾弾抗議集会などを訪れる。その時商店で琉球絣の製品を見て、織物の仕事をしたいと思う。
・1995年9月4日沖縄北部で小学6年生の少女が米兵に暴行される大事件が起きる。丁度長女が同い年でショックを受ける。かつてメモした「一反反戦地主会関東ブロック」に電話を入れる。9月25日米国大使館前で座り込みが始まる。彼女は一反反戦地主にもなる。
・この年は阪神淡路大震災/地下鉄サリン事件などの大事件も起きている。97年1月には沖縄を訪れた。普天間基地の移転が形になる前だが、辺野古を訪れている。この年は8月・12月にも訪れる。翌98年には新基地候補の勝連半島を訪れる。99年には防衛庁が土地を買い上げている北谷を訪れる。彼女は現場主義を自称し、沖縄に行かないと現実を理解できないと感じていた。
・北谷の帰り、南風原の「琉球かすり会館」に見学に行った。そこで琉球絣の後継者を募集していた。同年の募集が終わっていたが、翌年も募集していた。2000年5月南風原にアパートを借り、応募するが、もれてしまう。ところがアパートの大家さんに大きな工房を紹介され、そこで織手になる。これを18歳の長女に話すと泣かれてしまったが、49歳からの単独での再出発が始まる。今は2人の娘は結婚し、孫もいる。彼女は基地問題と琉球絣を二本立てと考えている。琉球絣は出会った時から生涯の仕事と感じていた。
・2002年小泉首相の靖国神社参拝に対し違憲訴訟が起こされる。これに山口洋子に頼まれ原告として加わる。彼女は学生運動に加わり、日米安保/帝国主義に反対していたが、憲法・司法には無頓着でいた。信教の自由/政教分離原則が憲法に規定されている事も知らなかった。そのため憲法第20条の第1~3項を紙に書き、部屋に掲げた。
・彼女は靖国問題が沖縄戦や叔父の戦死に繋がる事に気づく。戦死者を国家が英霊として顕彰し、首相などが参拝する事は、戦争責任の回避であり、戦争を再度導く事になる(※国を守った兵士を祀るのは納得できるが、他国を侵略した兵士を祀るのは変かな)。この裁判は最高裁で敗訴する。2008年沖縄戦の遺族が、靖国神社への合祀取消を求めて訴訟を起こす。この訴訟も彼女が事務局を務める。この裁判も13年最高裁で敗訴する。
・彼女は憲法第20条が人々を戦争に動員させるのを阻止する規定であると知る。さらに集会・結社・表現の自由などを規定した第21条も、思想良心の自由を保障した第19条も防波堤であると知る。2つの敗訴で虚しさを感じたが、ある人に「裁判記録として残される」と言われ、気が晴れる。また違和の声を上げるのも大切と考える様になる。彼女は『沖縄タイムス』に合祀取消のニュースを書き続けた。これは責任感もあるが、叔父の戦死と靖国合祀に直接関係しており、基地問題以前に戦争があった。※戦争と戦後を分けて考えないといけないかな。
・高田は豪雪地帯、そのため離れたくて静岡の大学に進んだ。彼女は少女時代から戦争に関心を持った。米櫃は弾薬箱で、「南京入城祈念」と印が押されていた。父も軍隊経験があり、戦地の写真を持っていた。中には兵士がしゃれこうべを掲げている写真もあった。父は3人兄弟で、皆招集されている。長兄が戦死しており、墓に「勇戦奮闘遂ニ玉砕ス」と刻まれていた。読売新聞が『アドミラルティ諸島』を出版しており、それから75人が生還した事を知る。「靖國偕行文庫」にも当たったが、叔父の行方は分からなかった。
・南風原の兼城十字路は「死の十字路」と呼ばれる。首里から南部に逃れる将兵・住民が「鉄の暴風」と呼ばれる砲弾を受け、死体が石垣の様に積まれたからだ。南風原小学校・中学校はかつては南風原国民学校だった。1944年10月10日の空襲で南風原陸軍病院になる。翌年3月の空襲でこれも焼け、南の黄金森に長さ70mの壕が掘られ、病院が移される。ひめゆり学徒隊が傷病兵を看護し、凄惨な出来事になったのはこの場所である。※南風原は沖縄戦を象徴する場所だな。
・2007年彼女は南風原平和ガイドの2期生になり、ここで平和ガイドをしている。彼女のアパートから黄金森が見え、平和ガイドになろうと決めた。沖縄戦を調べていると、その底なしの深さに驚かされる。沖縄戦で23万人が亡くなり、23万通りの死があった。決して南部だけでなく、あらゆる場所が戦場になった。※沖縄戦を今のガザに被せて考えてしまうが、23万人は桁違いだ。
・彼女は南風原での平和ガイドに留まらず、南部の戦跡ガイドも始める。南部の7㎢に13万人の将兵・住民が逃げた。そのため夜中でも住民が右往左往した。ガマで何があったかも分かっていない。ガイドの大半は修学旅行が対象である。若い人にこの史実を知って欲しい。安保法制/国民保護法などの戦争準備がされている。いざとなるとこれらが動き出す。若い人にこれを認識して欲しい。
・彼女が辺野古新基地に反対するのは、これが戦争に繋がるからだ。2004年4月からボーリング調査阻止のための抗議行動を始め、土砂搬入の抗議行動も行った。ダンプカーの横で「ジュゴンを殺すな」「美ら海を壊すな」(※美ら海=美しい海)などのプラカードを掲げる。
・彼女は基地反対と琉球絣を続ける事について「何になりたいかではなく、どう生きたいかです。琉球絣には、これで生活しているとの矜持があります」と話している。また手紙には「憲法・靖国・軍事基地、全てが繋がっています。日本を侵略する国にしてはいけません。また沖縄を再び戦場にしてはいけません。住民と軍隊は共生できないとの教訓を国の専管事項より優先しなければいけません」とあった。さらに「辺野古埋立てに南部の土砂が使用されるそうです。南部で亡くなった人の骨の上に、基地が作られるのです」とあった。
第2章 海の破壊と漁村の女性・・川口祐二
・川口祐二(※以下彼)は記録作家で全国の漁村の女を綴り、単著は30冊を超える。人数は800人を超え、海女200人が含まれる。彼女らは戦争に翻弄され、戦後は生活スタイルを変えた。彼は三重県南伊勢町の五ヶ所浦に住む。五ヶ所湾は入り江になっており、養殖に適する。2011年3月11日東日本大震災でも2時間遅れて津波を受けた。彼はこれを見て、1944年12月7日の東南海地震を思い出した。その時国民学校6年生だった彼は高台から、津波が3度押し寄せるのを見た。
・1973年真珠養殖や豆腐屋などを営む漁師の幸田から「白い泡が消えんな。洗剤の泡と違うんか」と言われる。当時南勢町の企画課長だった彼は頷いた(※今は合併し南伊勢町)。彼は産業課にいた69年からアワビの稚貝の人工採卵に取り組んでいた。当初は6.5万個採卵できていたが、2年後には6400個に激減した。五ヶ所湾では60年代半ばから赤潮に見舞われた。彼は企画課で公害を担当していたが、その原因は不明だった。排水路が20本あり、そこから家庭排水が海に流れ出ていた。別の漁師は「最近は海藻が取れなくなった。磯も焼けてしまった。合成洗剤の所為では」と言っていた。彼は赤潮の原因を合成洗剤とするのを躊躇ったのは、産業課にいた時、ミカンの栽培を推奨し、大量の農薬を使っていたからだ。
・幸田の指摘の2ヶ月後、彼は2時間掛けて名古屋に本を買いに出掛けた。帰る途中、科学博物館で「科学技術映画コンクール入賞作品上映会」をやっていた。そこで三重大学が制作した『中性洗剤を追求する』が上映されていた。それは合成洗剤の催奇性を論証した10分程の映画だった(※催奇性とは、親の摂取により胎児が奇形になる作用。合成洗剤に関しても勉強が必要だ)。翌日彼は映画の購入を助役に訴え、12万円で購入する。漁協などと協力し、合成洗剤を止め、石鹸に切り替える運動を始める。73年アワビの採卵個数はゼロになる。
・彼は日常業務後、毎晩町内を回った。町には19の集落があり、600戸の集落もあれば、19戸の集落もある。集会所がない集落では寺の本堂を借り、白い布をスクリーンにした(※苦労話が色々書かれているが省略)。映像の訴求力は強大だった。漁師だけでなく農家もそれを理解してくれた。漁協の店先には粉石鹼の袋が積まれた。
・オイルショックになると合成洗剤も粉石鹼も市場から消えた。しかし彼は運動を続け、県外にも出掛ける様になる。しかし粉石鹼の使用は伸びず、町内でも40%に留まった。79年滋賀県で琵琶湖の富栄養化を防ぐため、リンを含む合成洗剤の使用が禁止された(※リンは植物の3大栄養かな)。これにより無リン合成洗剤が開発され、彼の運動も勢いを失う。
・彼は廃食油から石鹸を作る方法を教え続けた。しかし海の破壊は止められず、魚介類は激減した。彼には「海への愛」があり、命に必要なタンパク質を提供する海を「命の根源」と考える。そのため海を崩壊から救うのは、憲法前文の平和的生存権であり、健康で文化的な生活を営む権利である第25条そのもものと考える。※急に憲法が出てきた。
・1954年彼は早稲田大学商学部を卒業する。文学青年で出版の世界に進みたかったが、果たせなかった。仕方なく東京でアルバイト生活を始める。翌年義兄の資金援助で洋品店を始める。最初は大学時代のアルバイト先からハンカチ/靴下などを回してもらった。店では『世界』や岩波文庫を読みふけった。その内、裁縫の先生をしていた姉からのブラウスを売った。これが手作りで、大当たりした。しかし大量生産の時代になり、それも売れなくなる。
・1959年転機が訪れる。この年、安保改定/三井争議/水俣病/立川基地での砂川事件などの問題が頻出する。しかし彼の転機は伊勢湾台風の到来で、死者は5千人を超えた。彼は帰郷し、翌年南勢町の職員になる。彼が担当部署(※企画課?)を離れ、80年代に入ると、合成洗剤追放・石鹸使用運動は廃れる。町長が公害問題に消極的な人に替わった事も影響した。彼は目標を失い、居心地が悪くなった。
・1988年2度目の転機が訪れる。岩波書店が「私の昭和史」を募集していた。彼は故郷の戦争と貧困と海の破壊について、一気に書き上げた。翌年加藤周一編の『私の昭和史』が出版され、その15作品の1つとなる。この「渚の五十五年」に自信を持ち、定年2年前に退職する。
・「渚の五十五年」の原風景を見てみよう。五ヶ所浦は宿浦と田曽浦からなる。小さな漁村で10~30トンの小船でカツオの一本釣りを営んでいた。そのため貧しかった。彼は7人兄弟の末っ子に生まれる。小学校に入学し、自分より1学年上が半分しかいない事に気付く。これを母に訊ねると、「南米行があってね」「酷い貧乏で、生まれた子を油紙に包んで流したんよ」「これが渚に戻され、大事件になった」と答えた。これは1931年生まれの子で、関東軍が満州事件を起こした年である(※世界大恐慌の頃だな)。33年に発覚して、30数名の女性が警察に検挙された。
・戦争が始まると漁村の若者も兵隊になった。また渚は兵隊の訓練場になった。戦争が終わると渚は350トンの漁船が入れる漁港になった。「渚の五十五年」には、間引き/戦争/戦後の大変貌/赤潮/合成洗剤追放運動が記され、漁村の近現代史を表した。
・彼は戦場には行かなかったが、宇治山田中学校に通うために下宿していた山田で空襲に合う(※詳細省略)。祖父から敗戦を聞き、空襲がなくなるので嬉しかった。1946年11月2日(憲法公布の前日)先生から「これから本当の平和になる」と聞いて、皆が目を輝かした。
・「渚の五十五年」が切っ掛けになり、漁民の暮らし、特に女性の生活や問題を書き始める。彼は、漁村の女性が合成洗剤追放運動を支えてくれた事に感謝している。それで漁村の歴史を書こうと決める。彼は土地の言葉で綴る方が説得力があると感じ、聞き書きのスタイルを取った。カメラとテープ・レコーダーを持ち、北海道小樽市から宮崎県日向市まで出掛ける。1990年30人の女性の体験を『女たちの海-昭和の証言』に纏める。
・戦争で夫や兄を失った女性が多く、戦争の辛さを訴えた。同所の末尾に戦争で兄を失った女性の語りを書いている(※詳細省略)。彼は海女の語りも数冊綴っている。海女が海中の四季を語り、彼は感動した。また海女は「昭和50年頃から、アラメの林の中にいたアワビが採れなくなった」と嘆いた。さらに「1995年長良川に河口堰ができ、磯が変わった」と語る。かつては海女が全国で5千人いたが、今は2千人に減った。若い者もおらず、高齢化している。彼はこれを老齢化と言っている(※近年若い女性が海女になった記事を見た気がする)。
・2010年彼は三重大学の特任教授になり、海女の講義を始める。これが10年続いた。資源の枯渇はアワビだけでなく、アジ/サバ/イカもへ減っている。赤潮は見なくなったが、海の環境は一段と悪化している(※海岸の埋立なども影響しているかな)。01年彼は「田尻賞」を受ける。これは合成洗剤追放運動や漁村の女性の記録などによる。「田尻賞」は四日市海上保安部や東京都公害研究所で公害問題などに取り組んだ田尻宗昭にちなむ賞である。彼は環境破壊との闘いを「結のない起承転結」と書いている。これを明かす様に、20年36冊目の『島へ、浦へ、磯辺へ-終わりなき旅』を書いている。
第3章 隠された戦争孤児を追った戦争孤児・・金田菜莉
・戦後間もない頃、ラジオの連続ドラマ『鐘の鳴る丘』が大ヒットする。これは1947年から始まり、戦争孤児が主役のハッピーエンドのドラマである。しかし戦争孤児となった金田菜莉(※以下彼女)は、親戚の家での家事が忙しく聞いていない。彼女は35年生まれで、疎開していた時、東京大空襲で母・姉・妹を失い、戦争孤児になる。
・彼女が48歳の時、胆石になり大手術をする。これが切っ掛けで身辺整理し、娘時代の日記・手紙を読み直す。そしてその経験を子供達に伝えなければと思う。さらに母を鎮魂する体験記を書く。また戦争孤児の実態を35年に亘り調査し、書き、語り、訴訟を起こす。
・父は浅草で野球用具の卸商をしていたが、彼女が4歳の時に脳溢血で急逝し、記憶にない。1944年国は学童の縁故疎開・地方疎開を始める。8月彼女は国民学校の集団疎開で宮城県の鎌先温泉に向かう(※詳細省略)。集団疎開は学校と生活が一緒なので、息が詰まった。先生は「お国のため」「欲しがりません・・」などと諭した。母・姉妹から手紙が届いたが、読むと逆に寂しくなった。9月母が面会に来たが、これが会えた最後になる。
・母らと一緒に大阪の実家に疎開する事になり、1945年3月9日卒業する6年生と一緒に夜行列車に乗る。上野駅に着くが、そこは異様の風景だった。ボロボロな服を着た真っ黒の人が線路を歩いていた。まさしく3月10日東京大空襲の朝だった。出迎えの家族は全くいなかった。先生に引率されて町に出るが、瓦礫の焼け野原だった。母校は灰になり、浅草国民学校だけが残っており、そこに向かった。焼け出された親が迎えに来る人もいた。しかし彼女には母も姉も来なかった。そこに母達を探していた西新井の叔父が来て、彼女を連れて帰った。
・空襲は続いており、叔母と一緒に奈良の親戚に2度目の疎開をする。しかし直ぐに姫路の叔母のところに3度目の疎開をする。7月隅田川で姉の遺体が見つかったと知らされる。この時彼女は尋常でなく取り乱した。ほぼ同時に母の遺体も見つかっていたが、直ぐに知らされなかった。小学校1年だった妹は不明のままである(※この辺りは泣かされる)。8月15日敗戦になる。彼女は敗戦より母の死が衝撃だった。国は長く侵略戦争を続け、内外で多大な被害者を出したのに、孤児への対応を置き去りにしている。
・1945年11月さらに姫路の伯父に引き取られ、4度目の転居になる(※同じ姫路?)。伯父は皮革工場を営み、子供が7人いた。食糧難の時代で彼女は厄介者・邪魔者として扱われた。「親と一緒に死んでくれていたら」のひそひそ話が聞こえた。彼女は「母のいる天国に行きたい」と何度か思った。彼女は朝6時に起き、家族10人の食事を支度し、布団を片付け、洗濯・掃除をして学校に行った。学校から帰ると、風呂の用意、夕食の準備などを行った。
・1947年頃、東京では孤児になった子供が浮浪していた。餓死・凍死する者もいた。物乞いしたり、盗みをして生き延びた。46年衆議院で布俊秋が国の戦争孤児対応を追求する。厚生省の政務次官は「戦争孤児は約3千人で、半数は親戚に保護され、半数は私設の収容所が世話をしている」と説明する。さらに「戦争孤児の保護育成は、国の責任と痛感している」と答弁する。しかしこれらは実態を述べていない。
・1947年GHQは戦争孤児の実態に驚き、神父エドワード・フラナガンを招く。彼は収容施設「少年の町」を創設し、「赤い羽根共同募金」を提案する。GHQはNHKに浮浪児救済のドラマを作る様に依頼し、作られたのが『鐘の鳴る丘』である。しかしこれは美談となった。
・彼女は中学1年生の時、蓄膿症で臭覚を失う。中学2年生の時、倦怠感や発熱する様になる。それでも医者に行かず、家事をし、学校に通った。高校に入学して、閉鎖性肺結核と分かる。高校は進学校の姫路西高校に入学する。しかし月額500円の授業料をなかなかもらえなかった。ノートなどの学用品も買えなかった。19歳の夏、家出同然で姫路を発ち、東京に向かう。ボストンバッグには、衣類/洗面道具/日記帳/手紙/写真しかなかった。今でも7歳の時、母・姉妹で撮った写真が1枚だけある。
・東京では江戸川区にいた祖母を頼った。大学に進みたかったが、「女の子は大学に行かなくて良い」と言われ、家事をした。しかし小遣いはもらえなかった。仕事に就こうと職業安定所で探すが、孤児が理由で断られた。これ以降、孤児である事を伏せる様になる。お茶屋に採用されたが、夜具が準備できず、あきらめた。小学校の担任の先生の女中になるが、夜具どころか下着さえ買えなかった。※今は最低賃金とかあるが、こんな時代もあったのか。
・おでん屋の店員になり、女将に気に入られる。3ヶ月後に「養女にならないか」と誘われ断ると、その日に追い出された。浅草でしゃがんでいると、男が「何してんだ、姉ちゃん」と声を掛けてきた。必死に逃げて、教会に辿り着いた。翌朝教会を出る。
・阿佐ヶ谷のスナックに飛び込む。店のママは不倫をしており、正妻が乗り込んで来た。ママは逃げたので彼女が対応する。正妻は彼女に包丁を突き付けた。19歳の彼女は「刺すなら、刺せ」と迫った。正妻は包丁を捨て、去った。未だ布団が買えなかった。
・1956年世は不景気になる(※朝鮮特需後の神武景気かな)。彼女は甘納豆屋の派遣店員になる。やっと貯めた4千円でせんべい布団を買い、入寮できた。6畳に5人が寝泊りするため、同僚とアパートを借りた。ある時会社から戸籍抄本などを要求される。孤児である事を隠していたため渋っていたが、何度も催促されるので提出した。しかし何事もなかった。一緒に暮らしていた同僚が結婚する事になり、甘納豆屋の仕事も辞める。
・1957年法律事務所に勤める。裁判所に調書を取りに行ったり、事務所が編集する『経済法律時報』を手伝った。ある日彼女は不幸に襲われる。左目が見えなくなった。眼科に行くと、成長期にタンパク質を取らなかったためらしい。右目も見えなくなったらと不安になった(※臭覚を失い、さらに視覚も)。事務所の仕事は目を使うので退職し、生命保険の外交員になる。
・1959年(24歳)転機が訪れる。保険の外交で知り合った男性と結婚する。結婚しても社会問題に目を向ける事はなかった。孤児も自分1人と思っていた。しかし2人の子供ができると、「この子達を孤児にしてはいけない」と思う様になる。この思いを強めたのが、86年(51歳)の大病である。母に「私はこの様に生きてきました」と伝えたく、『母にささげる鎮魂記』を自費出版する。さらに疎開を研究する「不忘会」に入会し、「全国疎開学童連絡協議会」(疎開協)にも入会する。
・疎開協に入り、孤児は自分だけでないと知る。そしてこの実態を知らなければと思い始める。疎開協には研究者もいたが、独自に調査を始める。彼女は孤児である事を積極的に公表し、「知っている孤児がいれば連絡先を教えて下さい」と伝えた。連絡先が分かると『母にささげる鎮魂記』を送った。
・1990年彼女は疎開中の東京大空襲で孤児になった体験を児童向けに書き、『夜空のお星さま』として出版する。この頃には孤児のリストが40名になっていた。本を送った孤児から、「私も同じ体験をした」「私は学校に行かせてもらえなかった」などの手紙が返ってきた。
・彼女は「世の中から孤児の存在が忘れ去られてはいけない」と思い、孤児向けの27項目のアンケートを作成し、孤児に送った。それは「戦争で誰を亡くしたか」「その時の年齢」「あなたはどうして助かったか」「家族の遺体は見つかったか」「終戦後あなたはどうなったか」「子供の頃に欲しかった物は」「世話になった親戚・施設をどう思うか」「生きてきて良かったと思うか」などの質問である。
・22人から回答が返ってきた。18人が集団疎開中、2人が縁故疎開中、2人が空襲に遭い家族を失っていた。失った家族は95人で、遺体が見つかったのは20人だった。その後は親戚を転々としたのが9人、施設から親戚に引き取られたのが10人などだった。親戚に引き取られても、耐えて生きるしかなかった。欲しかったものは「家族」や「愛情」だった。中には3度自殺を試みた人もいた。回答を返さなかった人からは「触れたくない」「質問が厳しい」「こんな本は読みたくない」などが返ってきた。※アンケート結果は大幅に省略。
・彼女はこれで終わりにしなかった。戦後50年の1995年、集会「戦争孤児の集い」を開いた。その頃には60人の連絡先を知っており、15人が参加し、自分達の体験を語った。彼女がこの体験を本にする提案をし、1997年『焼け跡の子どもたち』を出版する。当書には14人の戦争孤児が生の体験を寄せた。彼女は「はじめに」に、ある事件を記す。46年12歳の少女が子守として引き取られたが、満足な食事も与えられず、それを知った実兄がその家の人を殺し、妹も殺した事件である。
・彼女は戦争孤児の調査を終わらせなかった。彼女が疑問に思ったのが、1946年の厚生省の「孤児は3千人」の答弁である。『全国戦災史実調査報告書』(1983年)に「全国孤児一斉調査」(1948年)が収められていた。47年12月神父フラナガンが「孤児調査をしなければ、対策は取れない」と訴え、GHQの指示で厚生省が調査を始め、翌年2月に纏められた。この報告書では戦争孤児は12万人余りになっている(※国会での答弁は46年8月で少し前だが、差は大きい)。
・厚生省は孤児を「戦災孤児」(空襲などによる)、「引揚孤児」(満州からの引揚など)、「棄迷児」(空襲による。※戦災孤児と同じ?)、「一般孤児」(上記以外)に分類している。しかし彼女は、これらに含まれない孤児がいるとした。住所不明の浮浪児、身売りされた孤児、餓死・凍死した孤児、養子になった孤児、沖縄戦による孤児、満州で置き去りになった孤児などである。これらを含めると15~20万人いたと考えられる。そして国は孤児に対し、何の対策も取らなかった。
・厚生省の調査では東京の「戦災孤児」は2010人だが、『東京都教育史稿 戦後学校教育編』では1169人となっている。東京都は孤児のために8ヵ所の孤児学寮を新設し、345人を養育したとある。しかし調べてみると、入寮したのは80人程度だった。孤児学寮だった大泉寺を訪れると、住職・犬飼国定は「30人が入寮する予定だったが、16人しか来なかった」と答えた。やくざ風の人が来て、学校長(?)の指示で貰われ、16人になった。さらに4人が貰われ、12人になった。犬飼は社会福祉活動家で、『大泉寺住職と社会福祉活動』を彼女に送っている。
・彼女は集団疎開して孤児になり、引き取り手がなく疎開地に置き去りになった孤児も調べた。東京から東北・北陸に24万人が集団疎開しており、その内1万数千人が置き去りになっていた。浅草の新堀国民学校では4人が旅館に置き去りになっている。その引率教員は、その4人の面倒を最後までみた。子供は農家での重労働に耐えられないため、3人は親戚に預け、1人は孤児学寮に入れた。国・東京都からの援助はなく、子供達は旅館の好意で生きられた。
・東京大空襲の死者は10万人とされている。しかし横綱町公園にある震災遺骨堂には、10.5万人の身元不明の遺骨納められている(※正確には関東大震災5.8万人、東京大空襲10.5万人)。他に川に流され不明となった人や彼女の家族の様に身元が判明した死者を含めると、死者は20万人はいると考えられる。彼女は「空襲の被害者に国は何の補償もしていない。後世に伝える資料館/追悼碑もない」と訴える(※日露戦争などの慰霊碑は各地にあるが、第二次世界大戦のは聞いた事がない)。軍人・軍属の戦死者・戦傷者には「戦没者戦傷病者遺族等援護法」により、年金/一時金/弔慰金を支給している。しかし民間人には何もしていない。戦争の国家責任は75年経っても未決である。
・彼女らは空襲被害者を援護する法案を14回提出した。ところがことごとく断られ、中には「法案を通したければ献金しろ」と言う者もいた。2007年彼女らは空襲被害者の補償・救済を怠っているのは憲法違反とし、謝罪と賠償を求める国家賠償請求訴訟を起こす。しかし東京地裁では「軍人・軍属との差は、憲法違反ではない」「救済方法は政治的判断に委ねる」として棄却される。13年には最高裁でも棄却される。
・彼女が戦争孤児について調査し始めて35年になる。彼女の行動力に圧倒される。彼女は空襲/集団疎開/孤児を1つと考え、調査し、語り、書き、訴え続けている。2019年彼女は「吉川英治文化賞」を受賞する。20年集大成として『隠された戦争孤児』を出版する。彼女は戦争を知らない人に、二度と孤児を作ってはいけないと訴える。
※これは戦争孤児になった事による悲しい話だった。ガザ地区とも重なる。
第4章 「平和の条」に託す無国籍の在日サラム・・丁章
・丁章(※以下彼)は在日サラム(人の意味)で詩人である。2011年橋下徹が率いる「維新政権」による「日の丸・君が代」強制条例により、教職員の起立が義務付けられる。彼は親として不起立を決め、以下の詩を詠む(※一部変更。以下同様)。
大阪が危機に見舞われている
民意の乱用が始まった
戦後民主主義が、戦後教育が殺されてゆく
日本が戦前に退行し始める
私は不起立する事にした
日の丸・君が代は支配の道具であってはならない
しかし権力が乱用する
不当な支配で強制する
個人の心に踏み入っている
こんな狂った儀式の強制から、民意は目覚めなければ
だから私は不起立する事にした
不寛容な権力者と従属者に抗って
・この後、彼が予想しなかった事態に直面する。
教科書爆弾が私の街に降ってきた
余りに突然で、しばらく呆然と立ち尽くした
教職員組合が狙い撃ちされたと聞き、駆け付けた
傷だらけの先生達が、力なくしゃがみこんでいた
余りの衝撃で、誰も声が出せない
・「日の丸・君が代」強制条例の1ヵ月後、東大阪市の教育委員会の教科書採択会議で、公民の教科書に育鵬社の『新しいみんなの公民』が採択される。同市は革新的で、人権教育・平和教育・解放教育が進んでいた。外国人・在日コリアンには暮らし易く、この地で育った彼に予想外だった。子供の未来が粉々にされる「爆弾」だった。
美しい日本を取り戻すと言う美しくないスローガンの下に作り出された新兵器「教科書爆弾」
これに戦後教育の独立、平和・人権・多文化共生が滅茶苦茶に破壊される
アメリカに刃向かえない彼らが、敗戦の仇討ちをする様に
市民一人ひとりが声爆弾を上げよう!もっとリアルに声爆弾を!
・彼は市民が反対するしかないと考えたが、どう動いたら良いのか分からなかった。彼は詩人だが、生業はアート・カフェ「喫茶美術館」のマスターである。2012年年明け、常連客で立命館大学の元教授・鈴木さんが「育鵬社の公民教科書を読む会を作りませんか」と声を掛けてきた。彼はこの提案に乗り、この店で「東大阪の公民教科書を読む会」を始める。学習会を隔月で開き、自由社などの他社の教科書も読んだ。市民活動家・組合活動家なども参加する様になり、政治的立場/イデオロギー/民族・国籍などの境界を超えた学習会になる。
・学習会で当教科書が憲法の平和主義を否定し、人権軽視/国益優先/排外主義で溢れ、皇民化教育を目指している事が確認された。当教科書は植民地支配により私達が生まれた事に全く触れていない。また普通は外国人に社会保障制度を提供しないが、日本は提供しているとあり、日本人に優越感を持たせる様になっている。これは他民族・多文化共生に相応しくない。※教科書の影響は莫大だからな。
・彼と鈴木は、次の採択(2015年)に向け、共同アピールを出し、署名運動し、ビラ巻き/街宣活動などをする。しかし2015年の採択で、同教科書が引き続き採択される。しかしこの市民運動は拡大し、オール東大阪運動に発展する。情報公開制度を使った開示請求・陳情を行い、市内外から支援や韓国遺留民団の協力を得られる様になる。2002年の採択で育鵬社から帝国書院の公民教科書に替わる。
・不起立によって抗議・不服従を示す「日の丸・君が代問題」と教科書問題は大きく異なる。「公民教科書を読む会」から新しい市民運動の会を作る話があったが、鈴木さんが急逝される。彼が表に出る事も考えられたが、「在日」のため憚れた。そこで劇作家で医者の胡桃沢伸に代表を依頼する(※作家の胡桃沢耕史とは別人だな-)。彼は日本国民ではなく選挙権も持たなかったため、最初は政治的な運動への参加を躊躇していた。しかし民主主義は個人一人ひとりの権利を保障するもので、自分が発言し、行動する方が正しいと考える様になった。
・彼はオール東大阪の教科書運動の事務局長となる。彼の思想は「無国籍の在日サラム」の生き方と繋がる。彼は在日3世で日本の特別永住権を持つ。大韓民国や朝鮮民主主義人民共和国の国民になった事はない。彼が持つ特別永住者証明書の国籍は「朝鮮」である。これは北朝鮮でも韓国でもなく、ただの記号である(※これは知らなかった)。彼はこの「無国籍」に拘っている。それは南北の統一を望んでいるからだ。彼は無国籍についても詠んでいる。
外国人登録証の国籍に「朝鮮籍」と刻まれている
私は無国籍のまま、半島の統一を望んでいる
私は日本国籍を取らず、朝鮮民主主義人民共和国籍を取らず、大韓民国籍を取らず、在日するサラムである。
・彼は国を選択したくないだけでなく、自然人である事を意識している。自然人は国家に縛られず、社会や世界を自由に平等に見る事ができる。国は戦争を起こし、国民を苦しめる。南北が統一されても、それがどんな国になるかが問題だ。
・彼は16歳の時、外国人登録をした。指紋を採られ屈辱を感じた。また国籍に「朝鮮」とあり、これを疑問に思う様になった。大学に入り、在日文学を読み漁った。そこで国籍朝鮮が無国籍であると知り、納得する。歴史を簡単に解説すると、朝鮮が日本の植民地になり、朝鮮人に日本国籍があてがわれる。1947年外国人登録令により在日朝鮮人の国籍はそのままだが、「朝鮮」の記号が与えられる。52年サンフランシスコ講和条約で在日朝鮮人は日本国籍を喪失する。65年日韓基本条約で韓国との国交が樹立され、「韓国籍」は認められる。しかし共和国(※北朝鮮だな)とは国交がなく、「朝鮮籍」は無国籍のままである。国籍法は父系血統主義のため、彼は父の「朝鮮籍」を引き継いだ。因みに母は「韓国籍」である。※20歳までなら日本国籍を取れたかな。
・「喫茶美術館」は近くに住んでいた司馬遼太郎の命名である(※これは仰天)。島岡達三の陶芸作品/池田剋太の書画と松本民芸家具が調和し、落ち着いた雰囲気である。彼はこのマスターであり、ここで詩を作り、時には市民運動の会議・講演も開かれる。
・彼は1968年母の生地の京都で生まれ、6歳まで東京で暮らす。その後東大阪に住む。ここは祖父が住んでいた土地で、父はここで生まれている。父は色々仕事を変わったが、78年より地元でお好み焼き屋「伊古奈」を開く。店は繁盛し、彼は小学生の時から手伝い、キャベツ切りで腱鞘炎になった。父は小中学校では本名を名乗ったが、以降は通名(日本名)で通す。当時日本社会で本名を名乗るのは難しかった。そのため彼も朝鮮人と意識する事はなかった。
・小学校3年生の頃、先生が「あなた達は皆、日本人です」と言った。これを両親に伝えると「お前は朝鮮人や」と言われる。これで自分は特別と思い、クラスで「オレは朝鮮人や」と自慢した。これを家で話すと、こっぴどく叱られた。以降、本当の事を言えない抑圧感に苛まれる。この気持ちを数十年後に詠んでいる。
教室の見通しの良い席でうつむき、苦悩に耐えていた
僕は朝鮮人だとはしゃいだ歓喜を取り戻すまで
手を差し伸べるのはあなた、顔を上げるのはわたし
・6年生の時、彼にちょっかいを出すやんちゃがいた。ある時そいつが「お前の秘密をばらすぞ」とささやく。彼は親に言われた通り、隠し続けた。彼は担任の先生に告白するが、「少し待って下さい」と言われ、何も解決しなかった。そこで彼は毎月数度張り出していた壁新聞で自分の本名をクイズにした。これにより本名が知られ、嫌がらせも止まった。彼は勁い(※=強い)意志で乗り切り、この解放感を忘れていない。クラスには他に在日がいたが、皆通名でいた。
・3年生の時(※中学?)、熱心な教員が「民族学級」を立ち上げる。在日は70人はいたと思うが、参加したのは7人だけだった。彼はカミングアウトできると思ったが、できなかった(※民族学級は放課後のクラブかな。カミングアウトできなかったのは何故)。卒業証書を本名で受け取らないかと言われるが、親に「絶対あかん!商売にも差し支える」と強く言われ、諦める。
・高校ではこの抑圧感が一層強まる。これをお好み焼き屋の手伝いで胡麻化した。店が零時に閉まり、後片付けを手伝い、それから夜食を食べた。進学校だったが、『笑っていいとも』を観てから学校に行った(※学業は大丈夫か)。
・1988年大阪外国語大学Ⅱ部中国語学科に入学する。そこで日本人女性と恋愛関係になる。彼は結婚を望むが、親に反対される。特に母から「日本人は絶対差別する。お前は日本人を知らん」と強く反対される。彼は「好きになる自由、結婚する自由」があると考え、朝鮮の歴史や在日文学を読み漁った。この翌年「天安門事件」が起きる。内容は異なるが、共に自由を求める行動だった。
・彼は独学でハングルが読める様になり、本名がウリマルであると分かる(※全く日本人として育てられたみたいだな)。これは在日文学から「朝鮮」が無国籍であると分かった時期と重なる。1993年に中国に行くなど、この頃から海外に行く様になる。彼は無国籍でパスポートを持たないため、それに準じる「再入国許可証」を持つ。ところが2015年問題が起こる。台北の淡江大学でのシンポジウム「移動の中の日本-空間・言語・記憶」に招聘され、講演する予定だった。台北経済文化弁事処のサイトでビザを申請するが国籍を選ばなかった。当局は「朝鮮」なので共和国を選択しなさいと説明する。しかし彼は「無国籍」を志操とするため、共和国を選択できず、諦める。
・彼のルーツは韓国の4ヵ所にある。そこを訪れるため、ビザを申請したが、5回共発給してもらえなかった。最初は1995年で、大阪領事館で「それはあなたの信条で、発給できない」と言われた。2度目は2000年で、旅行証明書なら発給できると言われる。しかしこれは「在外同胞」などで申請する必要があり、彼の志操に反した。3度目・4度目も同様だった。5度目の時、彼は「朝鮮籍の者がいる事を韓国政府は認識しているのか」との質問状を添付した。これに領事館は「無国籍者が再入国許可証でのビザ発給を望んでいる旨を本国に伝える」と答えた。
・彼は日本帝国によって獄死した尹東柱(※1917~45年)に誓う詩を書いている。
あなたは日本で獄死し、空になり、風になり、星になった
あなたと同じ歳になり、あなたが眠る延辺(※中国東北部にある朝鮮人の自治州)を訪れ、あなたである空・風・星・詩に、これからの恥なき人生を誓う
あなたが求めていたものを、私も死ぬまで求め続ける
・2018年彼は韓国政府に「朝鮮籍」でも旅行証明書を使用できる様に在外同胞法を改正する請願書を提出する。これに祖先の地を自由に旅したい強い気持ちを添えた。韓国法務部から丁寧な回答が返ってきたが、改正には時間を要する様だった。
・南北が統一されると、彼はその国籍を取得するのか。彼は「国が人を幸せにするなら、そのメンバーになりたい。しかし国は戦争をする。それを止める装置が必要だ(※平和憲法かな)。南北統一国家がそれを持たないなら、私は無国籍を続ける」と言う。
・彼は『平和の条』というエッセイを書いている。「国籍取得の根拠は日本国憲法の第9条にあり、眩しいほど輝いている」。しかし彼は共和主義のため、第1~8条に天皇条項があり、その選択はない。安倍政権が立憲主義を壊し、安保法制を作った。これにより彼の危機感は高まった。彼は同名の詩で、統一国家への帰属について詠んでいる。
天子様の軍隊がなければ南北の戦争はなく、あの半島に生まれただろう
この列島には平和の条が輝いている
戦争を放棄したのに、戦争になったら、無国籍者はどうなるのか
兵士にならないかもしれないが、収容所に送られるのか
配偶者がこの国の籍を持つと、家族と引き裂かれるのか
友人・財産も国に奪われるのか
平和の条が輝いている
南北統一されても、国民が兵士になる国には居たくない
平和の条を掲げる国は輝いている
それなのにこの国には象徴がいて、籍を取る敷居が高い
殺したくないし、殺されたくもない
そう思う者には、平和の条が輝いて見える
全ての国が平和の条で輝くのは何時なのか
第5章 南京に通う接班人・・山内小夜子
・1988年8月15日、山内小夜子(※以下彼女)は中国・南京の「侵華日軍南京大屠殺遇難同朋記念館」(※以下記念館)で、レイプされ殺害された女性の写真を見て衝撃を受ける。彼女の祖父は南京に出征していたので、「祖父も写っているのでは」と胸がざわついた。ここから教科書でしか知らなかった南京事件との関係が始まる。
・彼女は真宗大谷派教学研究所の研究員になったばかりで、『資料集 真宗と国家』の編纂をしていた(真宗大谷派は東本願寺が本山)。大谷派は明治期から中国・朝鮮・台湾などに布教所・寺・別院を作り、海外開教していた(※知らなかった。大航海時代のカトリック教と同じだ)。海外開教の研究は始まったばかりで、また教科書問題/靖国参拝問題などで日中関係は良好でなかった。
・彼女は訪中調査団に参加した。訪中の前に2日間の事前学習を受けた。大谷派は『中曽根靖国公式参拝違憲訴訟』に反靖国連合として参加していた(※これも知らなかった。意図もよく分からないな。仏教VS神道かな)。上海に東本願寺の上海別院が作られたのは1879年である(※日清戦争より前だな)。調査団が訪れた時は解体中だったが、内部の写真を撮らせてもらった。その後南京に移動し、記念館で衝撃を受ける。
・さらに紫金山に移動し、数千数万の中国人が虐殺された事を知る(※長江の河岸でも虐殺があったらしいが)。紫金山の麓に「東郊叢葬地記念碑」があり、記念館の副館長・段月萍から説明を受ける。そこで南京事件50年の前年(※2年前だな)、元兵士の東史郎が南京を訪れ、謝罪した話を聞く。
・これ以降、彼女は毎年8月15日に南京を訪れ、幸在者(運よく生き残った人)や遺族などと交流している。通訳の常嫦/戴國偉、記念館の館長・朱成山/副館長・段月萍、南京事件の研究者・高興祖らは恩人となる。彼女は南京を訪れる度に感動を受ける(※事件時、中華民国の首都は南京だからな)。彼女は「日常生活で歴史認識が薄まるが、南京の人々と接すると、感動・感銘を受け、昂揚して帰国する」と言う。
・1990年衆院議員・石原慎太郎が『PLAY BOY』のインタビューで、「南京事件は中国の作り話」と発言する。これは被害者や研究者を侮辱する発言で、彼女は激怒する。同年12月「アジア太平洋地域の戦争犠牲者に思いを馳せ、心に刻む会」などが主催し、抗議集会を開く。これに東さんを呼ぶ。
・東さんは第16師団福知山聯隊に所属し、南京戦に参加していた。1987年従軍日記を「平和のための戦争展」で公開し、大ニュースになっていた(※B級などで処刑された元兵士もいる)。また彼は同年、『わが南京プラトーン』を出版していた(※プラトーンは小隊)。彼女は抗議集会当日に初めて彼に会う。この日から対話・衝突・絶交となる交流が始まる。抗議集会での彼の発言に彼女は「この人、本当に謝罪したのかな。中国人への侮辱を感じた」と言う。
・1993年彼と部隊を共にした元兵士3人が、『わが南京プラトーン』の記述は嘘として名誉棄損で訴える。当書は仮名なので無罪と思われたが、彼は敗訴する。彼女は半世紀前の戦争の罪を語らせない強い圧力に戦慄する。80年代は教科書で侵略戦争を歪曲した問題、中曽根首相の「戦後政治の総決算」発言、靖国神社公式参拝、昭和天皇の病気に対する総自粛、日の丸・君が代の強制などがあり、この裁判もその文脈の1つである。
・彼女は控訴審に向け、「東史郎さんの南京裁判を支える会」などの事務局のスタッフになる。1998年東京高裁で控訴は棄却され、2000年最高裁で上告も棄却される。これは戦争責任を司法が不問にする問題だが、彼女は「司法は彼にしゃべらせない選択をしたが、彼は様々な証言活動をしている」と負けたとは思っていない。
・彼女は彼に差別意識を感じていたが、それはどうなったのか。彼は中国を「支那」と言い、武勲を響かせる様に話した。しかし徐々に自分の体験を客観的に話せる様になる。これは控訴審から加わってもらった解放同盟朝香支部の書記長・山本幹夫さんの影響だろう。
・1988年彼女は南京訪問で衝撃を受けるが、祖父は寝たきりで話ができなかった。夜中に「ヤーヤー」と暴れる時があったが、父によればそれは竹槍の訓練らしい。93年祖父は亡くなり、「日支事」とある懐中手帳を残した。そこには「昭和13年1月南京入城」とあった。これは南京事件の少し後である。結局祖父と戦争について話し合う事はなかった。
・一方東さんとは喧嘩もした。彼は南京の記念館から支援を受けていた。それなのに南京戦後の「徐州戦」の日記を北京の「抗日戦争記念館」に寄贈し、支援を受けようとした。この件で仲違いする。彼は町議会議員を務め、胡散臭いが地元の名士だ。彼をはじめ、多くの日本人は戦争を相対化できなかった。しかしこの裁判で戦前・戦中世代と戦後世代が語り合い、戦争を客観的に捉えられた事は喜ばしい。
・1959年彼女は愛知県新居浜市に生まれる。彼女の家は檀家で、幼い頃から仏教に接した。彼女は2人姉妹の長女だった。歴史・漢文・漢詩が好きで、老荘思想に魅かれていた。78年大谷大学文学部中国文学に進学する。フェミニズムの潮流が始まっており、彼女はサークル「女性史を学ぶ会」に参加する。彼女の2年先輩に服部道子がいた。服部は北海道の寺に生まれるが、祖父は新潟生まれで北海道開教に関わっており、服部はこの事を詳細に調べていた(※北海道にも開教の歴史があるのか)。彼女(山内)はこれが強く印象に残り、後に教学研究所に入り海外開教をテーマにする(※詳細省略)。
・彼女は卒論のテーマに唐代の詩人・李賀を選ぶ。李賀は華麗で幻想的な詩を書き、魯迅/毛沢東/泉鏡花/芥川龍之介などが愛読している。本当は5世紀の女性文学者・蘇小小を選びたかったが、資料が乏しかった。大学は親鸞や『歎異抄』は必修で、卒業後も仏教の道に進むと思われたが、高槻市の小学校教員になる。それは女性差別や戦争のない世界を生きたいと思ったからだ。※世界を生きたい?世界にしたい?仏教には戦争がある?
・3年経ち、国鉄民営化により近所の国鉄の官舎から人が減っている事に気付く。ルームメイト(?)と相談し、民営化に反対する社会党に入党する。間もなく在日コリアンが指紋押捺に反対し、子供が差別される事件が起こる。彼女らは彼に社会党入党を提案するが、彼から「社会党には国籍条項がある」と聞き、「そんな党なら」と離党する。
・教員生活は楽しかったが、4年で辞める。当時高槻市は解放教育が盛んだったが、障碍児教育を納得できなかった(※詳細省略。解放教育も障碍児教育も勉強不足)。また組合関係も大変だった。
・そんな時、教学研究所の友人から研究員を勧められる。1986年試験を受け、初めての女性研究員になる。しかし教団には根深い女性差別があった。ある坊守(住職の妻)から苦情を聞かされる。2人の子供が親鸞の道を歩みたいと言ったが、息子は得度を受けれるが、娘は20最にならないと受けれない。彼女は『真宗と国家』を調べ、1941年まで女性は得度が許されなかったと知る。許された原因は、召集による僧侶の不足だった。彼女が研究員になる直前、宗務局は女性が住職になる事に「女性が安心(不動の境地)を語れるか」と発言していた。86年「真宗大谷派における女性差別を考える女たちの会」が結成され、彼女はスタッフになる。同会は女性住職の実現、宗門内での待遇の平等、得度年齢の是正などを求める。91年女性の得度年齢も9歳になり、96年女性住職も認められる。彼女は「おかしい事は、おかしいと声を上げるのが重要」と言う。
・彼女は南京にも「1人称」として関わっている。それは1人の命に代わりがなく、全ての命が公性(?)・普遍性を持つからだ。記念館館長・朱成山からの依頼で、2003年から毎年「南京国際平和法要」を行っている。これには真宗者だけでなく、妙心寺派の僧侶(※臨済宗かな)、カトリックの神父、韓国の宗教者も参加している。※中国人は何教を信仰しているのか?道教かな?なぜ多宗教で行っているのか?韓国人も犠牲になったのか?
・2014年『南京日報』が、記念館の発展に貢献した11人に特別貢献賞を授与する。彼女は88年以来南京で幸在者・遺族と交流を重ね、選ばれる。彼女は歴史学者・高興祖の言葉「接班人」が心に残っている。これは先人の仕事を受け継ぐ人を指す。誰も話さなかったが、東さんが声を上げた。それに共鳴・共感し、人々が動いた。彼女もその「接班人」の1人である。
・彼女は南京事件だけに関わっているのではない。1910年「大逆事件」があり、僧侶・高木顕明が天皇暗殺を企てたとして獄死する(※この頃はこんな事件が多発したが、こんな事件だったかな)。彼を永久追放した教団は誤りを謝罪し、96年より住職だった浄泉寺で追悼会「遠松忌」を開いている。2004年彼女は解放運動推進本部の職員になり、「遠松忌」を担当している。「遠松忌」では彼の『余が社会主義』が朗読される。彼はここで、教団が戦争を支持するため、親鸞の言葉を利用した事を真宗者に問うている。彼女は「遠松忌」を彼の声を聞く場と考えている。彼女はここでも「接班人」になっている。
・彼女は靖国参拝違憲訴訟/靖国合祀取消訴訟などの事務局のメンバーであり、原告でもある。他にも琉球人遺骨返還請求訴訟/「主基田抜穂の儀」違憲住民訴訟の事務局も務めている。ここでも「接班人」である。※これらと仕事を両立させているのか。
第6章 不当な命令への不服従・・増田俊道
・増田俊道(※以下彼)は大阪府立高校の教員である。2022年3月で教員生活を終えるが、最後に卒業式が残っている。彼はその卒業式で起立するか悩んでいる。「君が代」は1分間もない。その間、不起立でいれば良い。しかしそうすると「免職」になるだろう。不当な命令に従うのは、これまで生きてきた道を否定する事になる。
・2011年大阪府は「国旗国歌条例」「府職員基本条例」を制定した。これは全国で大阪府だけで、教職員を脅迫し、耐えがたい苦しみを与えている。彼は2013年・2018年の卒業式で、自己の歴史認識/人権意識/思想良心の自由から起立しなかった。彼は「教え子を戦場に送らない責任が教員にもある」と考えるからだ。しかしこの2回共、大阪府教育委員会から戒告処分を受ける。彼は他の処分者と共に、条例や職務命令は憲法違反として大阪地裁に提訴する。大阪地裁/大阪高裁は棄却し、最高裁も上告を棄却する。
・2度目の戒告処分には「警告書」が添付され、「今後同一の行為をした場合、免職になると警告します」とあった。これにより彼に「免職」がチラつき始める。彼は大阪府人事委員会に処分の撤回や警告書の取消を求めたが、取り合ってもらえなかった。
・2012年3月から条例に従い「日の丸・君が代」が実施される様になった。この時多くの教員が処分されている。しかし彼はクラスを担任しておらず、式に出席していない。2013年の卒業式に出席する事になり、起立しないと決断する。しかしこれを生徒に事前にどう伝えるかが課題になる。そこで「学級通信」にその理由を書き、2月28日のホームルームで生徒に配り、それを説明する。
・以下の事を説明する。彼は広島出身で父が被爆し、被爆2世である。高校時代はノンポリで、どちらかと言うと右翼的だった。それが変わったのが大学時代で、被爆2世である事を自覚し、米国の原爆投下の責任や日本の加害性に気付き、歴史認識を深める。彼は社会科を担当するが、人権教育推進も担当した。そのため人工呼吸器が必要な生徒の医療ケアも行った。また福島での原発事故や政府・電力会社の対応から、自分を守るためには、自分から行動しないといけないと伝えた。また法や制度が不当の場合、それに従うのではなく、それを変える努力が大事と伝えた。そして「日の丸・君が代」の強制は異様で、江戸時代のキリスト教弾圧やファシズム到来に匹敵すると伝えた。学級通信にも同様の事を書いた。そして末尾に灰谷健次郎の『兎の眼』の足立先生の言葉「罰も怖いし、首も怖い。私も生徒を裏切るかもしれない。ただ歴史が歴史を作り、歴史が歴史を確かめる」を書いた。※生徒はこの印象を一生持ち続けるだろうな。
・卒業式で不起立の生徒はいなかった。教員で不起立なのは彼だけだった。彼を支えたのは、不起立で処分された先輩がいたからだ(※詳細省略)。服従した事による自責や罪悪感で辞めた教員もいる(※詳細省略)。
・2013年3月12日彼は戒告処分を受ける。これで彼の腹も決まる。実は彼は3年目に教員を辞めたいと思った事がある。その時の高校は、学力や家庭の状況から中途退学する生徒が多く、卒業時に1クラス分減っていた。そのためオルタナティブ・スクールを作る運動に深く関わっていた。しかし教員は辞めなかった。そこで13年の戒告処分を受け、教育委員会が辞めさせたいなら、逆に居続けようと腹を決める。
・2018年3月彼は卒業式で2度目の不起立する。5年振りの式への出席である。かつては卒業式・入学式に全教職員が出席していたが、「日の丸・君が代」を強制する様になり、担任だけが出席する様になった。これは教育委員会の思惑である。戦争の時代、権力に従わない者は「非国民」とされ、差別された。これが今の時代でも行われる様になった。少数者の受け入れや、思想良心の自由が認められなくなった。
・2018年卒業式前、彼は何度か校長に呼ばれ、決意の程を問われる。しかし彼は明確に答えなかった。不起立者が出ると不名誉になるため、不起立と答えると、式場外勤務にされるからだ。
・彼は「警告書」付きの戒告処分を受け、抵抗が最終段階に入る。2014年安倍首相の靖国参拝に対する違憲裁判の原告になる。当時彼は靖国問題は遠い感じだった。ところが実際に靖國神社・遊就館を訪れ、靖国問題と「日の丸・君が代」問題が密接だと知る。遊就館は兵士を英霊化し、次の世代もこれに続くべきとしていた。そして見学者の感想も戦争を肯定するものだった。またアジアの戦争被害者への思いも見られなかった。彼は遊就館は戦争責任・戦後責任を見えなくする装置と理解した。これは「2度と侵略戦争をしない」と子供達に教えてきた事と反した。
・彼は安倍靖国参拝違憲訴訟の陳述書に「遊就館で戦争を遂行した天皇・軍部の反省は見られない。そこにあるのは家族のために命を捧げた兵士の美化だけである。かつて教員は子供達に英霊となる事を強制した。私はそんな教員にはならない」と書いている。この訴訟も最高裁で敗訴する。
・2017年彼は広島地裁/長崎地裁で被爆2世に対する援護措置を求め、原告として国家賠償請求訴訟を起こす。彼も被爆2世で、子供の頃は夏風邪をよく引き、疲れると鼻血を出した。現在も高脂血症/高血圧症などで薬が欠かせない。国は被爆2世に対する健診をなかなか実施しなかった。1979年から実施されるが、がん健診は含まれていない。89年・92年に被爆2世を援護する法案が参議院では可決するが、衆議院で否決される。94年被爆者援護法が成立するが、被爆2世は対象になっていない。原爆投下は国の戦争責任と関係している。それにも拘らず立法措置がなされていない。しかし2016年「全国被爆2世団体連絡協議会」の運動により、健診に多発性骨髄腫検査が追加された。
・彼は大阪大学に入学し、180度転換した。1961年彼は広島市に生まれる。小学5年生の時ボーイスカウトに入団する。ボーイスカウトは階級制/制服着用などで軍隊予備隊の様だった(※そんな組織なんだ)。初級の段階で「日の丸・君が代」を教わる。母方の祖父は日露戦争に参加し、「生長の家」の信者で、彼は講演会に連れて行かれた事もある。母も「生長の家」の信者だった。そのため広島大学付属高校の時、「日の丸・君が代」について「日本人の民族心が高められ、オリンピックなどで日の丸が揚げられ、君が代が流れると民族の心が1つになる」と書いている。彼は右翼と自覚していなかったが、日本人としての正義感を持ち、日本に貢献したいと思っていた。一方で体罰や校則には反発していた。※ボーイスカウトでの話は省略。
・父は被爆者だった。高校3年生の時、突然父が胃潰瘍・十二指腸潰瘍で吐血する。胃の2/3と十二指腸を切除する大手術をする。これを機に父は被爆手帳を取得する。父の病気で収入が減り、進学を一旦断念するが、1浪し大阪大学人間科学部に入学する。入学金や授業料が払えないため、朝日奨学生になる。
・間もなく「大阪被爆2世の会」に入会する。当会は差別・健康・平和を課題にしていた。当会での活動により、被爆2世の自覚が生まれる。「国際学生軍縮連盟」にも所属し、米国の大学生を広島・長崎に案内するプロジェクトを担当する。その時父に被爆体験を語ってもらう。父は江田島の中学校に通っていたが、当日は広島市内で建物疎開をしていた。投下時は建物内に居て、爆風で壁が倒れた。父は当日に江田島に帰れたが、同級生を見捨てて帰った事を悔いていた。
・彼は「被爆2世」の活動により、ナショナリストから「平和の徒」に変貌する。大学2年の冬、香港大学での「アジア学生会議」に参加し、衝撃を受ける。当時教科書検定で「侵略」が「進出」と書き換えられ、日本への批判が高まっていた。新聞には日の丸が焼かれる写真が載り、エレベーターには「Don't use Jap」と落書きされていた。彼は戦争や植民地支配について学んでいない事に衝撃を受ける。また会議のテーマは人権問題だったが、「日本政府だけが南アフリカのアパルトヘイトを容認している」と厳しく追及された(※この点は知識不足だな)。彼は日本人の人権意識の低さを実感する。彼は大阪に来て、180度転換した。教師は嫌いだったのに、「若い人に正しい歴史認識を持って欲しい」と思う様になり、教師になると決める。
・1985年彼は大阪府の教員に採用される。この年は戦後40年でドイツ大統領は過去を反省する歴史認識を語った。一方日本では中曾根首相が戦後総決算を掲げ、8月15日には靖國神社を公式参拝する。また文部省は入学・卒業式での「日の丸・君が代」の徹底を通知し、「日の丸・君が代」強制元年となる。
・1989年昭和天皇が崩御され、文部省は弔旗掲揚を指示する。99年には広島の県立高校の校長が「日の丸・君が代」の強制で教育委員会と組合の板挟みになり、自殺する事件が起きる。この年「日の丸・君が代」が国旗・国歌として法制化される。侵略戦争・植民地支配の反省もなく、天皇賛歌のシンボルとして「日の丸・君が代」が再登場する。
・大阪でも管理者側と教職員側で攻防があったが、職務命令などはなかった。大阪は人権・解放教育が根付いており、それが防波堤になっていた。各学校に人権担当の教員がいたが、彼は採用された時から、社会科と人権を担当した。※超基本的な疑問だけど、科目として人権があるのかな。
・彼は法制化で恐怖を感じるが、国会審議で「強制しない」と明言していたので安心していた。ところが2008年橋下徹が大阪府知事になると一変する。国旗国歌条例/職員基本条例が制定され、処分を伴う職務命令として強制できる様になる。条例の威力は強力で、管理職と教職員の攻防はなくなる。
・彼が2022年3月の卒業式に参加するかは、彼がクラスを担当するかに掛かっている。彼は校長に、退職までクラスを担当したいと要望している。彼は人権教育推進委員長を務め、「思想良心の自由を守りたい。不当な状況には、異議申し立てをしていく」と言う。
・彼は大阪教育合同労組の執行委員長を務める(※少し調べると、公立・私立学校から塾・予備校までを対象する組合)。その事務所の壁にカメジロー(瀬長亀次郎)が不起立の写真がある。これは1952年琉球大学で行われた琉球政府創立式典の写真である。カメジローは県民の意思として、米国帝国主義に抗議するため、1人だけ起立しなかった。
・2019年彼は「世界各地の民主教育を見るツアー」に参加し、スウェーデンの学校教育の目的に驚く。当国は「民主主義を学び、実践する事」としていた。そのため環境保全を訴えるグレタ・トゥンベルさんなどが生まれたのだろう。これに対し自分達はと思わざるを得なかった。※日本の教育は従属型・記憶型かな。
・2018年2度目の不起立をした後、彼はホームルームでギターを弾き歌っている。何時もは「イマジン」などを歌うが、この時はMr.Childrenの「終わりなき旅」を歌う。この歌は「嫌な事ばかりでは無いさ、さあ次の扉をノックしよう。もっと大きなはずの自分を探す、終わりなき旅」で終わる。彼は免職を突き付けられているが、彼の人生は定年で終わらない。
第7章 大地に「平和の種」を蒔く・・森山幸代
・著者は空港から旭川に車で向かった。同乗する森山幸代(※以下彼女)から「玉ねぎ列車」の説明を受ける(※詳細省略。玉ねぎは保存が効くので、貨物列車なのかな)。彼女は旭川で有機栽培農産物を扱う「北海道大地」を40年近く営業している。店は企業でも、グループ共同体でも、NPO法人でもない。彼女は「食は人間の基本。食は人権」と考える。店には農産物が入れられた段ボール箱が置かれ、無添加の加工食品も売られている。6割には有機JASマークが付き、残りの大半も無農薬である。
・彼女の家は農家で、もち米を食べた。しかし食べると湿疹が出た。怪我をしている時に食べると化膿した。それ以来、食べさせてもらえなかった(※もち米はアレルギー物質なんだ)。農家では女の子も戦力で、田植えや刈り取りを手伝った。
・戦後、農家は農薬を使った。ホリドールが使用され、畦道には「そばに寄るな」と書かれた赤い旗が掲げられた。当時の農家は「農薬を使わないと、野菜も米もできない」と考えていたが、彼女は恐怖を感じていた。
・そんな彼女だが、体調に問題があって、30代半ばまで農業に関わらなかった。姉から「三愛塾に行ってみたら」と誘われる。「三愛塾」は農民のための塾で、夏と冬にクリスチャンセンターで講義を開いていた。彼女は種苗店で働いていたが、これが食に関わる切っ掛けになる。キリスト教系の北海道酪農学園大学の初代学長・樋浦誠が「神を愛し、人を愛し、土を愛し」を掲げていた。三愛塾は、これに基づいて60年代初めに始まった。三愛はデンマーク生まれで、「国を愛し」だったが、日本は敗戦し「土を愛し」に変えた。
・彼女は名寄クリスチャンセンターでの講義に通った(※名寄と旭川は、70Km位離れている)。また旭川六条教会に通い始めたのも、その頃である。講師は牧師/酪農学園の先生/大農家などが務めた。講師は土を重視し、有機・無農薬を力説した。一方で農業指導者は農薬の使用を指導していた。
※クリスチャンセンターは全国にあるみたいだ。布教活動が主目的かな。プロテスタントは基本、教会を持たないためかな。宗教に疎いので困る。
・3年程した頃、クリスチャンセンターの主事から「水俣病の患者・家族が栽培する温州ミカンの販路拡大を手伝って欲しい」と言われる。水俣病患者家庭果樹同志会がミカンを栽培していた。これは有機肥料を使うが、農薬は年4回しか使わなかった(※詳細省略)。1979年彼女は共同購入者になる。「他に安全な農産物はないか」と聞かれる程、評判が良かった。
・1984年三愛塾で大学の先生と農家の青年がやり取りしていた。青年は「有機栽培・無農薬は良いが、市場で通らない」と主張するが、先生は「有機栽培・無農薬が良い」としか言わなかった(※詳細省略)。彼女は青年に「もし有機栽培・無農薬の農産物を売る店ができたら、あんた作るか」と訊くと、青年は「作るさ」と答えた。彼女は決心し、旭川四条駅に「産直の店・大地」(後の「北海道大地」)を開店する。
・キャッチフレーズは「安全で美味しく、誰にでも買える農産物を提供する」とした。「大地」を選んだのは、「大地」は最も低い位置にあり、全てを受け入れ、全てを育むからだ。北海道の農場は広く、有機栽培・無農薬は本州より10年遅れていた。開店間もなく、彼女は手書きの通信「大地」を生産者・消費者に出した。そこには「農薬や化学肥料を使うと田畑が傷付きます。農家の人も身体の調子が悪くなります。そんな野菜・果物を皆が食べています。そこで有機栽培・無農薬の農家を応援する店を作りました」と書く(※大幅に省略)。
・「大地」の目的は、安全な食べ物を食べてもらうために、生産者と消費者の中継点になる事です。この根底には「食は人間の生命」があります。しかし80年代になると、お金があれば何でも手に入る時代になり、農業も合理主義になり、有機栽培農法は少なくなります。そのため彼女は有機栽培・無農薬の農家の開拓に走り回ります。生産者から「途中で枯れてしまった」と相談があると、一緒に考えました。彼女は農家出身なので、生産者の大変さを分かっていた(※詳細省略)。
・一方消費者は身勝手だ。「葉菜に穴が開いていた」「虫が付いていた」などと言ってくる。農産物に旬があるのも知らない。「これ本当に無農薬か」と言う人もいる。購入が続かない人もいる。この運動は生産者に協力する消費者が必要なのだ。そのため生産者と消費者を繋げる意見交換の場を設けた。
・彼女が一番心を痛めたのが食物アレルギーに苦しむ親子だ。「大地」では米は「ゆきひかり」しか扱っていない。それは肥料が少い/病害虫に強い/成長が早い/倒木しない/収穫が多い/美味しいなどの特徴があるからだ。農林水産省は粘りのある米を推奨するが、「ゆきひかり」はさっぱりした米だ。後を継いだ青年に「ゆきひかり」を勧め、今は耕作地が5倍になっている。また「ゆきひかり」はアトピー性皮膚炎の子供を改善させた。※「ゆきひかり」は1984年北海道の試験場で作られた。
・小中学校からの友人は、「彼女は人助けが好きだった。何でも相談に乗り、頼りになる。店は彼女にピッタリ」と言う。彼女は通信に「病気の母のために続けて欲しい、店があるので安心できる、アトピーの子供が元気になったなどを聞くと、元気をもらい、続けてき良かったと思う」と書いている。ただ「難しいのが生産と購入のバランス」と言う。
・1946年彼女は9人兄弟の6女に生まれる。旭川農業高校園芸科を卒業するが、横浜の相模鉄道に就職する。しかし入社直後にとんでもない事故に遭う。寮の玄関の戸棚の扉に頭を激しくぶつける。病院に行ったが、特に異常はないと言われ、仕事を続ける。ある日帰宅中に首から下が動かなくなった。病院に行くと脳内で出血していた。旭川に帰り、自宅療養する。半年後復社するため病院に行くが、「とても働けない」となり、入院する。結局65年に退職する。
・その後も食べ物を吐いたり、頭痛などの症状が出た。歯はガタガタになり、痩せてしまった。姉の子供の世話をして過した。姉ががんで亡くなる。もう少し看病できていたらと悔やんだ。そればかり考えていると精神が不安定になった。そのため1975年種苗店に就職する。体調も良くなり、前に向いて生きる様になる。通信教育で造園施工管理技士(2級)を取る。三愛塾にも通い始める。
・彼女は「人間の基本は食。食は命の根源。だから安全な農産物」と言い続ける。これに父の戦争体験も関係している。1944年父は35歳で招集され、馬の産地・浦河で馬の徴用を行う。馬は前にしか進まない様に訓練した。父は農家の大切な馬を奪った事に、心が痛んだ。その馬を貨車に乗せ、鹿児島の川内に向かう。その野営地に食料がなく、夜中に畑に生き、キャベツを盗んで食べた。また野営地は知覧の飛行場に近く、離陸に失敗した特攻機が墜落した。父はバラバラになった飛行士の顔を見て、自分の子供位で驚く。バラバラの死体を集め、土饅頭に埋めた。
・父は沖縄に向かう予定だったが、敗戦になる。復員する際、東京に寄る。皆で皇居に向かうが、父は少年の無残な顔を思い浮かべ、「きちんと弔えないのに何だ」との怒りから平伏できなかった。父はキャベツを盗んだ事が気になり、50歳の頃、川内に謝りに行っている。
・戦争は農家の馬を奪い、食糧を奪い、少年の命を奪った。父は「人を大切にする憲法ができた。戦争をしないのが一番」と言っていた。彼女もこの戦争体験と憲法観を受け継いだ。「平和と食は繋がっている」と話す。彼女は通信で毎回、食糧自給率を取り上げている。「戦後の飢えを忘れたのか。満州開拓の悲劇を忘れたのか」と言う。彼女の視線は過去から未来に伸びている。
・彼女は詩が好きだった。中学生の頃は、漂泊の俳人・山頭火や放浪の画家・山下清に惹かれた。詩は書き続けており、2014年には詩集『風は止まっていない』を出版している。『詩めーる旭川』(2017年)から彼女の詩「平和の種」を転記する(※一部編集)。
平和の種は、弱々しい種だから、芽吹かせるのが難しい
平和の種は、世界に少ししかないから、そっと大地に降ろして芽吹きを待ちます
平和の種は、地球に生きる人々が、芽吹きから見守り育てます
平和の種を、実らせ次の世代に渡すため、種の更新を続けます
平和の種が、実って溢れる時、永世の平和が世界を覆います
・彼女は「75歳になったら、大地は次の世代に渡したい」と言う。しかし他者を思いやる彼女を、人々は離さないだろう。
第8章 五分の虫、一寸の魂・・岩場達夫
・富山県入善町で岩場達夫(※以下彼)は司法書士を務める。「富山県司法書士会」には「憲法委員会」があり、2009年より常設委員会になる。この設置を進めたのが彼だ。司法書士は不動産登記/商業登記/法人登記や訴訟の書類作成が仕事だ(※近い内に基本を押えておきたい)。弁護士・検事・裁判官に比べ、憲法意識は弱い。1979年国家試験になり、憲法が試験科目になるが、意識は低いままだ。しかし彼は「司法書士は法律家であり、憲法意識を高める必要がある」「司法書士をやっていて相談を受けるが、政治や世の中の変化と絡み合っている。特に人権に関係している事が多く、憲法を考えざるを得ない」と言う。
・1987年蚊は魚津支部の会員に呼び掛け、「司法書士懇話会」を結成した。毎月1回、奥平康弘『憲法』の勉強会を開いた。彼がそこで取り上げた事件が、阪神淡路大震災で起きた「群馬県司法書士会事件」である。群馬県司法書士会が兵庫県司法書士会を支援するため、3千万円の寄付と登記申請1件につき50円の負担金の徴収を決議する。1995年この決議に対し一部会員から「支援は会員の思想良心の自由によるべき」(憲法第19条)とし、違憲訴訟が起こされる。一審は決議を違憲とするが、高裁/最高裁は合憲とした(※政党への寄付金みたいだな)。勉強会の結論は、違憲となった。勉強会により憲法の理解を深められ、同様の問題が起きた時、おかしいと思う根拠ができた。
・彼は『司法書士と憲法』(森正、2003年)を入手し、擦り切れるほど読む。当書のはしがきで森は「司法書士の簡易裁判所の代理権取得の特別研修は100時間あるが、憲法は90分しかない」(※大幅に簡略)と嘆いている。彼は当書を読み、森のエールに応えなければと決意する。
・2005年宇奈月温泉で司法書士会中部ブロック支部・北陸地区会員研修会が開かれる。彼は森を招き、「司法書士と憲法-期待される司法書士像との関わりで」をテーマに講演してもらう。これを研修で終わらせないため、会長に要望し、富山県司法書士会に憲法委員会(※以下委員会)が設置される。
・委員会活動の1つ目は、メンバーがテーマを決め、自宅で研究レポートを作成し、委員会で議論する。2つ目は、テーマを決め、肯定/否定に分かれて会員が討論する。3つ目は、外部から講師を招き、講演会を開く。研究レポートの表題は、「アイヌ共有財産訴訟」「韓国の憲法裁判所」「特高警察」「『大飯原発訴訟判決』と憲法」「司法書士と憲法」「『日の丸・君が代』について」「合祀拒否」「岩手靖国違憲訴訟」「ハンセン病 日本型隔離収容政策が生み出したもの」「TPPについて」などである。少数者の権利・自由・環境・思想・良心の自由・信教の自由などを問うている。会員討論会のテーマは具体的で「生活保護費は貯金できるか」「国旗・国歌通達違憲訴訟」「裁判員制度と憲法上の問題」「群馬司法書士会訴訟と会員の思想・信条の自由(※思想・良心の自由と同意)」「公道上の監視カメラに文句が言えるか」「定住外国人に地方参政権が認められるか」「児童扶養手当の婚外子差別訴訟を通しての法の下の平等」「『立川反戦ビラ訴訟』について」「大津いじめ自殺事件」「ヘイトスピーチと表現の自由」「特定秘密保護法と知る権利」などである。
・彼は憲法を勉強するだけでなく、実践家である。1993年1月法務省は不動産登記簿謄本交付手数料を600円から800円に値上げした。これは不動産登記法に基づく政令の登記手数料令改正による。手数料は申請者が負担するが、司法書士が申請を代理する事が多い。法務省はコンピュータ化が値上げ理由としているが、これは一般財源で賄うべきだ(※戸籍関係の手数料が高いのは、そのためか)。そこで彼は実際に謄本の交付を申請し、確認する(※詳細省略)。3月彼は手数料値上げを憲法違反とする行政訴訟を起こす。
・これは憲法第31条・第41条・第84条に依拠する。登記手数料は実費「その他一切」で、紙代・インク代・コピー代・電気料金などである。コンピュータ化は実費ではないのに、政令で値上げを決めた。これは法律で決めるべきで、憲法第41条に違反する。また国民の声を聞く公聴会なども同様で、適正な法手続きがされていない(※公聴会が法律に基づいて行われていな?公聴会に手数料?)。これは憲法第31条に違反する。彼が強く主張したのは、手数料に実費でないコンピュータ化の経費が含まれている点で、これは租税に該当し、法律で定める必要がある。これは憲法第84条に違反する。
・裁判は地裁・高裁・最高裁、何れも全面敗訴する。「200円の内、コンピュータ化の費用を明確にできない。値上げ分が租税に転化されたと判断できない」とされた。ただし重要な判例を詳報する『判例タイムズ』に「この様な主張がされるのは珍しい」として掲載される。
・登記手数料訴訟は司法書士界に波風を起こす。敗訴した直後富山県司法書士会綱紀委員会から事情聴取された。彼は「法律家として異議申し立てをした。不満を持つだけでは、何も変わらない。裁判すれば法務省も応答しなければいけない」と持論を言う。処分はなく、逆に陳謝の文書が届いた。この様な対応を受けたのは、法務省も司法書士界も「司法書士は法務省の支配下にある」と考えているからです。一方不動産業者などから激励され、カンパは100万円を超えた。
・1998年法務省は手数料をさらに1千円に値上げする。この時も訴訟を起こす。この時は財政法なども動員する。彼が勝訴すれば画期的な違憲判決になるのだが、今回も地裁・高裁・最高裁で敗訴する。彼は「人権侵害に対し、力がない人は裁判に頼るしかない。憲法はこれらの全ての問題に関係する。そのため憲法委員会は大事だ」と言う。
・1952年彼は生まれ、大人しい子だった。車に酔うため遠足は半分しか行っていない。東京への修学旅行では旅館で寝たままで、父が迎えに来た。貧乏だったので、小遣いは高校卒業までもらえなかった(※詳細省略)。畳がない部屋があり、むしろの上に布団を敷いて寝た。水道を引けず、中学校の水道を無断で使った(※テレビの話は省略)。
・父が司法書士をしていたため、専修大学法学部に進む。様々なバイトをしたが、政治・社会への関心はなかった。ただ松本清張はよく読み、歴史や社会を見る眼を養った。1974年3月卒業式の日父が倒れ、3日後に亡くなる。兄と姉は独立していたが、妹は小学校を卒業したばかりだった。司法書士の仕事を継ぐつもりだったので、猛勉強し、11月に富山法務局に認可され開業する。しかし実務経験がないため、登記法務局や母に教えてもらった。
・父はエスペラント語を勉強していた。公刊されてない本まで持っていた。父は反戦や植民地独立を支持する「プロレタリアエスペラント日本同盟」のメンバーだった。記録には「1934年書記長だった父が検挙され同会が壊滅した」とある。この年は満洲国が建国され、ファシズムが社会を覆い、日本共産党が壊滅に向かっていた。
・父は1912年生まれで、魚津中学校を卒業し上京した。その後については詳らかでない。父の履歴書を見ると、30年に日本簡易火災保険(※今のAIG損害保険)に入社し、34年に退職している。これは検挙された時期と一致する。その後帰郷し富山県職業紹介所の書記になっている。その後勤労動員署などに勤めている。戦後は魚津勤労署(今の労働基準監督署)などで勤務するが、49年レッド・パージで追放される。
・その後一家の暮らしはどん底になる。父は黒部川でモッコ担ぎや祭りの夜店で糊口を凌ぐ。肉体労働の経験がない父は肺結核に罹る。1952年司法書士と行政書士の資格を取り、開業する。しかし食べていける収入はなく、畳がなかったのはこの頃である。57年父は入善町議選に共産党から立候補し当選する。その後1回落選するが、73年まで町議を務める。父は不屈と抵抗の精神を持ち続けた。
・彼はいきなり法律実務に携わる事になるが、1975年原点となる出会いをする。司法書士の中部ブロック青年会で愛知県の大崎晴由に会う。大崎は13歳年上だが、司法書士としては5年先輩である。大崎は「司法書士は一生の仕事」と言い、憲法の視点で見る眼を教わる。彼は積極的になり、1985年地元の司法書士の青年会の代表になる。
・実は彼は富山県司法書士会の政治連盟の会長を2期4年務めている。政治連盟は政治献金を通じ政権政党と密着している。政治連盟の目的は、政治家を啓蒙し、司法書士制度を良くする事だ。彼はこの4年間の経験で、「政治連盟は自民党ベッタリではない」「正論だけで政治は変えられない」と実感する。毎年政治連盟の総会が開かれ、国会議員も出席するが、彼はそこで共謀罪を批判する。この様に会長が政治に触れるのは珍しい。
・2020年『入善公民館だより』に27の登録団体(活動サークル)が載り、彼が会長の「九条の会・入善」も紹介される。活動内容に「日本国憲法を学び、広める。会員の親睦」とある。これを掲載すると際、「九条の会は公民館活動になじまんでしょう」と指摘されたが、彼は「日本国憲法は国民の知る権利と義務を規定している。これは公民館活動に合うでしょう」と反論する。この時彼は、さいたま市三橋公民館の『公民館だより』を思い出した。
・入善町では商工会の主催で毎年「入善ラーメンまつり」が開かれる。2016年自衛隊が参加し、車両展示/コスプレ体験が企画される。彼はこれを聞き、次回から自衛隊を不参加とする「お願い」を提出する。翌年も開催3ヶ月前に「お願い」を出し、以降自衛隊は参加しなかった。
・これらの様に、彼は小さい事でも行動を起こした。彼は15年続いた憲法委員会を今後も継続させるのが大事と考えている。講演会のテーマや人選で執行部と緊張関係にある。また司法書士の憲法意識がどれだけ高められたか見えてこない。一方で福岡・東京などの司法書士会にも第9条や安保法制を考える会があり、連携が進み始めている。彼はこれらの結果が全国規模の司法書士会や日本司法書士連合会へのメッセージになればと考えている。
・彼は松下竜一(1937~2004年)が好きで、ミニコミ『草の根通信』を愛読していた。松下はおかしいと思ったら、一人でも行動する人だった。松下は多くの作品を書き、反公害・反原発・反基地運動に積極的に関わった。彼は松下の『五分の虫、一寸の魂』の精神を受け継いでいる。2003年彼は結婚20周年の記念旅行で、中津市に居た松下を訪ねている。
第9章 父の侵略責任への自責と贖罪・・吉岡数子
・大阪府堺市に「教科書総合研究所」(※以下研究所)がある。ここに国定教科書600冊、アジア各国の教科書300冊、明治期などの教科書600冊、復刻された教科書600冊、「家永教科書裁判」(※詳細不明)で寄贈された教科書400冊、戦後の教科書500冊などが所蔵されている(※重複がありそう)。この研究所の主宰者が元教員の吉岡数子(※以下彼女)である。
・教育において教科書と教師の役割は大変大きい。研究所には韓国・フィリピン・台湾・タイ・ベトナム・中国などの教科書もある。これは彼女が積極的に集めたもので、日本の侵略・植民地支配を各国がどう捉えているか分かる。彼女の父は満州国と深く関わっている。彼女はその自責・贖罪の思いから、退職金を投じ、1997年「平和人権子どもセンター」(※以下センター)を設立した。これが研究所の始まりだ。
・彼女は共鳴した市民に支えられ、10年間この活動を続けてきた。毎年テーマを決め、最低でも24枚のパネルを作り、要望された会場でパネル展示と講演を行ってきた。講演は10年で600回を超える。企画展のテーマは「毒ガス大阪展・中国侵略歴史パネル展・沖縄歴史パネル展」「伝えよう沖縄の心展」「アジアの教科書展」「近代日本の歩みをみる教科書展」「アジアの平和・博物館パネル展」「教科書が語る20世紀巡回展」「東アジアの平和人権資料展」「堺歴史発見ウォッチング展」「ヒロシマ・ナガサキ・オオサカウォッチングパネル展」「韓国ソウル・済州島ウォッチングパネル展」「満州・香港・マカオ・シンガポール・堺戦争展」などである。彼女には、日本がアジアの人々の人権を踏みにじった事を36年間の学校教育で教えられなかった反省がある。それ以外でも、「沖縄戦跡パネル」「台湾戦跡パネル」「満州と内地の教科書の比較検証ファイル」「日の丸・君が代の歴史パネル」「靖国の記述の検証パネル」「教科書における女性差別の記述パネル」「教科書での運動会の記述パネル」などがあり、総数は2千枚ある。他にファイル化された資料が100冊以上ある。
・センターは来館者を待つのではなく、依頼されると彼女が出掛け、パネルを使って語る方式を取る。また話す内容は彼女が調べた事であり、パネルは彼女が撮った写真しか使わない。そのため彼女はテープレコーダーを持って、国内外を巡っている。
・公的ミュージアムは右派の自虐史観攻撃により、日本の侵略・植民地支配から目を背けている。しかし彼女のセンターは「行動する平和ミュージアム」として際立つ。2007年センターは研究所に移行するが、パネルや資料は引き継がれる。また出前展示・出前講演も引き続き行われている。
・彼女の活動のテーマは「侵略・植民地支配・戦争に果たした教科書の役割を明らかにする」である。そのため毎月『教科書が語る戦争』を発信し、今は197号まで達した。84号までと、次女で教育学者の北島順子の論文『近代教科書にみる身体文化の思想』を書籍『教科書が語る戦争』として出版した。
・2019年大連外国語大学が主催する「日本殖民教育研究国際学術シンポジウム」に次女と共に招かれる。これは東アジアでの50回目のフィールドワークになる。中国で調査した28冊の資料を大学に寄贈する。彼女は89歳になるが、今でも調査研究を続けている。この情熱は父母も含めた自分史が関係している。
・1951年春、彼女は京都学芸大学に入学する。その頃日本は占領下で、日教組が「教え子を再び戦場に送るな」と運動をしていた。一方朝鮮戦争は真っ只中で、警察予備隊が発足し、公職追放も解除されていた。9月には対日平和条約/日米安保条約が調印され、現在に繋がる右傾化が進む。しかし彼女は政治・社会への関心は薄く、家庭教師のアルバイトをし、テニスなどの趣味に打ち込んでいた。そんな頃、寮の相談役で地学の教員から満州の話を聞く。そこで「日本は武力で朝鮮を手に入れ、満州を支配し、他国の民衆を踏み付けた」と聞かされる。そこから彼女は図書館で調べる様になる。※自分の子供の頃の出来事を知らないなんて、本当に閉鎖的な社会だな。
・彼女が4歳頃に住んでいた家は朝鮮総督府の高級官僚の官舎だった。彼女は使用人の子供でアイという12歳位の少女から「ここは私の家だった」と何度も聞かされた。他に歳が同じ位の少年ハイもいて、彼女と親しかった(※兄弟かな)。
・彼女の父は愛媛県土居町(松山市)の出身で、東京帝国大学農学部を出て香川県農事試験場長を経て、1927年朝鮮総督府の平安南道(※北朝鮮西部)の農務課長、32年威鏡南道(※北朝鮮東部)の農務課長になる。彼女はこの年に生まれる。さらに35年(※韓国南西部)に転勤する。ここで5歳まで過ごすが、池が3つあった事を覚えている。アイとの話はこの官舎である。後に訪韓し、官舎は両班の家で、アイはその娘と知る。アイとハイは彼女が分からない言葉で会話したが、彼女が近付くと話を止めた。これも後に禁止されていた朝鮮語と知る。彼女は朝鮮で育ったのに、朝鮮語を知らない。
・1937年(満州建国5年後)一家は満州の新京特別市(長春市)に引っ越す。これにアイ/ハイも伴う。父は国策会社の満州拓殖公社(満拓)の新京支社長兼参事になる。広田弘毅内閣は「満州百万戸移住計画」を発表し、満州開拓熱が高まっていた。満拓は中国人の土地を奪うか買い叩いた。この時の官舎は日本風で、サンルームがあった。高いレンガ塀には有刺鉄線が張られていた。彼女はその官舎から幼稚園や小学校に通った。しかし中国人の料理人の子供は学校に行っていなかった。彼女は自分史が植民地支配と結び付いている事に自責を感じている。
・1943年5月父は釣りに行き、そこで雷に打たれ亡くなる。同時にハイもいなくなる。それを母に訪ねると、「馬も猟犬もいらないから」と答えた。これも自責の念になる。父は土地の収奪に関わっていた。しかし「こんな生活をしていてはいけない。辞表を出したい」とメモを残している。父が植民地支配に加担した事も彼女を苛ます。8月日本に帰国する。と言っても初めての日本だ。弟の面倒を見たアイはハルビン駅で分かれた。アイは「私も日本に行きたい」と訴えたが、母はアイから弟を引き離した。彼女はセンターでアイ/ハイの話を頻繁に語り、書き続けている。
・彼女は松山の国民学校に転入する。満州から帰国した事で、非国民と言われる。しかしこの帰国は後に個人レベルの問題ではなく、中国残留孤児・女性の深刻な問題となる。もし父が急死しなければ、アルバムなどの身の回りの物は持ち帰れなかった。さらに彼女は残留孤児となった可能性がある。この幸運の帰国も彼女を苛ます。1944年末、彼女達は縁故疎開し、母方の祖母の香川県小豆島に移る。国民学校の6年生に編入するが、この年4校目の学校となる。翌年女学校に入学するが、授業はなく、農作業に明け暮れた。敗戦を祖父宅で聞く(※祖母宅と祖父宅は別?)。
・2学期が始まり、衝撃的な事件が起こる。担任の先生から「明日は国民学校6年生の修身・国史・地理・国語の教科書を持ってこい」と言われる。そして翌日、教科書に墨を塗らされる。修身・国語は一部、国史・地理は全文に墨を塗る。「神国日本」「聖戦」「八紘一宇」などを墨で隠す。彼女は先生に対し怒りの感情を抱いた。「墨塗り」をしたのは彼女のクラスだけだったらしい。
・これに関する研究がある。墨塗りはGHQから戦争責任を追及されるのを逃れるため、8月28日文部省が教科書の扱いに注意する様指示している。さらに9月15日「国体護持」のため教科書の訂正削除する部分を後日指示すると伝えている。そして9月20日その具体的な箇所が指定されている(※詳細省略)。また墨塗りと指定されておらず、現場では切り取り/紙貼りなどが行われた(※全削除なら焼却が早いかな)。
・彼女は墨塗りを許せなかった。先生は理由を一切説明しなかった。丸暗記させていた教科書を全否定する説明が欲しかった。13歳の彼女は「教科書を墨塗りさせない先生になる」と決意する。満州での尋常小学校1年生の時の担任が山下先生だった。先生は総合学習の実践者で、その自由な発想に魅せられ、彼女は先生になろうと思っていた。
・その2学期の終わり、通知表「修学の栞」を受け取った。それには「校訓 翼賛報国」(※多数挙げられているが省略)などが記されていた。彼女は担任に「墨塗りをしたのに、修学の栞はそのままですか」と訊くが、「級長が何を言う」と叱られる。結局3年間、修学の栞はそのままだった。
・1955年彼女は小学校の教員になる。60年山下先生を彷彿させる吉岡康登と結婚する。高校・学芸大学時代に日本の侵略・植民地支配について学ぶ事はなく、教員になっても同様だった。70年代、同和教育研究集会で「日本は朝鮮を植民地にし、農地を略奪し、朝鮮の農民を食べられない状況にした」と聞く。これが契機になり、父の仕事やアイ/ハイの事を考える様になる。※教師なのに遅過ぎないか。しかも父が関わっていたのに。
・1985年より中国・韓国への侵略・植民地支配を調査するフィールドワークを始める。父は総督府の高級農務官僚で、朝鮮では農地を見極める仕事をし、満州では土地を収奪する満拓にいた。父が侵略・植民地支配に加担したのは明白だ。では自分に責任はないのか。朝鮮で両班の豪邸を奪い、アイを使用人にした。満州でも豪邸に住み、日本人だけの学校に通い、成長した。父の死でハイを解雇したが、母は平然としていた。1年早く帰国したため、生きて帰れた。これら全てが自責の念になる。
・彼女はこの自責を贖罪に変えなければと思い、「平和人権子どもセンター」を創設する。そこで史実を調査し、伝え、語る活動を始める(※残留孤児・女性を支援する計画もあったが断念している。これについては省略)。彼女は定年1年前に退職し、退職金でセンターを創設する。彼女はここで目覚ましい活動をする。調べ、作り、語り、書いた。しかし彼女は満足していない。これを生涯の仕事と思っている。訪韓・訪中し、アイ/ハイの消息を尋ねるが、依然何も分かっていない。
・2020年彼女は『遺書ファイル』(※以下ファイル)を書いた。そこに自分史やフィールドワークの記録を記し、資料480点/写真323点を含めている。彼女の自責と贖罪が詰め込まれている。彼女は写真と記憶から、朝鮮・満州で暮らした4つの住居の見取り図を書き、それを言葉で表し、ファイルに収めた。台所は3つ/写真部屋(※暗室?)/茶室/応接間/プレイルーム/父の書斎/母の部屋/客用寝室/アイの部屋/ハイの部屋などがあり、外には馬小屋/猟犬小屋/山羊小屋などがあった。
・彼女は「まだやらねばならない事がある」と言う。大学生の時に聞いた立命館大学総長・末川博の言葉「憲法第9条の戦争放棄は、過去の戦争を明らかにする事」を思い出す。彼女の活動は、これに準じる。ファイルには、研究所の共同主宰者である次女が、彼女の活動を継承する決意を記している。「母が集めた記録・資料、そして体験を学術的にまとめ、後世に残したいと思っています」。しかし彼女はまだ現役として精力的に活動している。
第10章 元戦争ロボットの主権者革命・・原田奈翁雄
・近現代史に残る事件は、1本の電話から始まる。1988年暮れ、径書房(こみち書房)の社長・原田奈翁雄(※以下彼)に長崎放送の記者から電話が入る。「長崎市長・本島さんの発言ご存じですか。天皇に戦争責任があると発言したんです。それで市長の下に様々な手紙が届いているんです。市長はこれは歴史の証言なので記録に留めたいと言っています。原田さんの所で本にできますか」。これに彼は「出します。やります」と応えた。
・この年の9月19日、昭和天皇が吐血し、重体になっていた。自粛ムードになり、天皇の平癒祈願は300万人に達した。彼は天皇の病気で、戦争責任問題がかき消されるのに耐えられなかった。
・12月7日長崎市定例議会で議員が市長に、天皇の戦争責任についての意見を求める。市長は「戦争の反省は十分できたと思います(※主語は国民かな)。私は軍の教育関係にいましたが、この面からも、天皇の戦争責任はあると思います。しかし日本人の多数と連合国により、憲法で象徴になった。それに従ってやっていかなければと考えています」と答える、マスメディアはこの問題から逃げていたが、各社はこれを伝えた。自粛ムードは一気に吹き飛び、市長に異論・反論・賛成・激励などの電話・電報・手紙・はがき(※以下資料)が殺到し、右翼団体の街宣車も押し寄せた。
・彼は沈黙していた人々が一斉に天皇の戦争責任について言い始めた事を、近現代史の大事件と捉えた。彼は市長に資料を提供してもらえるかを確認し、長崎に飛ぶ。彼は依頼を受けた時点で、一方に肩入れしたり、貶めたりせず、ありのままを掲載しようと決めていた。市長にこれを伝え、径書房と市長の共著とする事で決まる。
・1週間で資料は900件に達する。これは市長を支持するものが多かった。一方自民党県連は市長を顧問から解任し、在任中は協力しないと決める、また全国から街宣車が85台集結する。市長の講演会は心配し、市長に出版の中止を求める。彼は再び長崎に飛び、市長・後援会と話し合う。後援会が心配する中、市長は「これはこの時代の生きた証言なので、本にしたい」と言い、変わらず出版する事になる。
・12月30日径書房の忘年会が開かれる。径書房の忘年会は3人の社員と読者が一緒にやる(※社員は3人か)。彼はここで、本を出版すると伝え、3人の社員では無理なので、読者に製作協力を要請する。読者3人が資料を読み、2人が○にすると彼が最終判断し、採否を決めた。この判断基準は市長発言への賛否ではなく、文章に書き手の人生・生き方が見えるかであった。
・しかし年が明けても資料が送られて来ない。1月7日天皇が亡くなる。(※1月18日、市長銃撃事件が起きる)。2月15日段ボール3箱の資料が届き、以降どんどん送られてくる。手紙は7323通あった。掲載が決まったものは、本人に了承を取った。了承を得たものから掲載し、3月末に出版可能な状態になる。彼は「編集を終えて」を書き、協力者/市長/後援会などにファックスした。彼は市長に電話するが、「出版は延長して下さい」と求められる。市長の下に実弾が送られ、警備が強化されていた。彼は三度長崎に向かう。家人が心配し、市政が滞っているため、しばらく中断する事にする。彼は「出版の自由が暴力に屈した」と感じる。
・4月5日朝日新聞が刊行中断を報じる。市長が共編者から降りた事で、歯車が回り始める。260人の掲載者に再度了承を得る。5月15日『長崎市長への7300通の手紙 天皇の戦争責任をめぐって』を出版する。奥付きの印刷・製本の社名は外された。
・同書は1ヶ月で6刷り/3万6千部となる。しかしそこで部落解放同盟から「被差別部落に対する偏見を助長する」と抗議が入り、絶版となる。彼は部落解放同盟と話し合い、抗議内容と顛末を記した増補版を出す事で決着する。同書は7千人を超える人々が昭和や天皇をそれぞれの生と共に語る証言記録だ。様々な困難があったが、市民が参加し、言論・表現・出版の自由を獲得するため闘った。1月18日この本をめぐり市長は庁舎前で狙撃され大けがし、近現代史に残る事件となった。しかし効果は持続せず、主権者はまた黙ってしまった。
・1927年彼は池袋で7人兄弟の四男に生まれる。両親は共に長野県伊那谷で酪農をしていたが、23年に上京する。彼は全くの皇国少年・軍国少年で、南京陥落では提灯行列にも参加している。1941年12月には「鬼畜米英と戦える」と叫んだ。家には神棚があり、天皇を神と敬い、「天皇の赤子」として忠誠を誓った。しかし5歳上の次兄は大正デモクラシーで育ち、映画を観、ギターを弾いていた。彼は予科練を受けたかったが、視力が弱くダメだった。戦争で死ぬ事しか考えておらず、当時の自分を「戦争ロボット」と振り返る。
・8月15日敗戦の報を聞く。彼は「天皇は側近にたぶらかされた」と思い、自分1人でも戦うと決める。マッカーサーと天皇が並んだ写真を見て、「何たる侮辱」と思う。彼は明治大学予科に通うが、「マッカーサーを殺せば戦争に勝てる」と考える。
・11月毎日新聞の「憂国 熱血青年よ来たれ 宮城前広場へ 勤皇青年同盟」(※簡略化)に目が止まる。彼は宮城前に向かう。親友の龍野もいた。しかし勤皇青年同盟の人は現れなかった。彼らは龍野の家に集まり、「殉皇菊水党」を結成する。マッカーサーと共産党の徳田球一を殺すと決める。同志を集める事になり、彼は両親の里・飯田に向かう。新聞に広告を出したり、チラシを電柱に貼るが、MPに捕まる。彼は尋問で「天皇は神」と言い続け、直ぐに釈放される。「殉皇菊水党」は1回会っただけで終わる。1946年2月「人間天皇」「国民の天皇」が出されるが、彼の記憶にない。
・彼と龍野との往復書簡集『死ぬことしか知らなかったボクたち』に2枚の写真が掲載されている。1枚は彼らが天皇の前で首を垂れている写真で、もう1枚は宮内省の職員と一緒に写った写真だ。これは「殉皇菊水党」が行った唯一の行動で、皇居の清掃奉仕である(※詳細省略)。しかしこの頃から彼の天皇観・戦争観が変わる。ラジオでは、中国での非道な行動やミッドウェーでの大敗北が流され、神国日本が崩れていった。彼は死ぬ事しか考えていなかったが、その拠り所を失う。抜け殻の様になり、死に場所を求める様になる(※三島由紀夫を思い出す)。
・1946年11月、国民主権/戦争放棄/基本的人権/象徴天皇制の憲法が公布される。彼は自分の事で一杯で、社会に関心はなく、この憲法公布も気付かなかった。47年春、彼は明治大学本科の政経学部に進む。彼は北海道網走中・高等学校の講師募集の貼り紙を見る。死に場所を求め、これに応募する。9月網走で社会科の教師になる。他の教師とは全く話さなかったが、寮に遊びに来る生徒はいた。翌年2月ある生徒と流氷を見に行く。彼はそこで足を滑らせ、氷の穴に嵌まる。死ぬ事しか考えなかったのに、必死に生きようとした。彼は突然生に目覚めるが、基盤を得た訳ではなかった。
・1948年4月彼は政経学部から文学部に転部する。翻訳本を読み漁り、生きる基盤を見付けようとする。彼は大衆雑誌『大衆クラブ』に載っていた小説「蕗のとう」に仰天する。この題名は刑務所に収監されていた女性が歌っていた子守歌「蕗のとうはとうになる」に由来する(※フキとトウは別の植物みたい)。この小説は、著者・山代巴が戦争反対の運動を続け、42年に刑務所に収監された事が書かれている。彼は戦争で死ぬ事しか考えていなかったのに、山代は戦争反対を生と決めていたのだ。主体的に生きる彼女に比べ、自分が恥ずかしくなった。彼は彼女の作品を追い続ける。彼女の反戦運動への自己批判、農村で押し潰されて生きる女性への愛情に引き込まれる(※重要ポイントだが詳細説明はない)。これは彷徨う彼への光になる。
・もう1つ出会いがあった。芸術には興味がなかったが、上野の美術館で開かれていた「泰西美術展」(※泰西=西洋)を観に行く。そこで女性の裸像に吸い込まれる。その表情に、生きる事への羞恥や苦悩を感じる。これはロダンのイブだ。
・1952年春明治大学を卒業し、筑摩書房(※以下当社)に就職する。4月28日対日平和条約/日米安保条約が発効している。5月1日彼は社用で芝に向かう。その帰りメーデーのデモに遭遇する。警官がデモ隊に凄まじい暴力を振るっていた。それを助ける医者も暴力を振るわれた。彼は都電を降り、デモ隊を追い駆けた。大手町方向から警官が駆け付け、警棒を振り回した(※詳細省略)。これは「血のメーデー」と云われる事件だ。彼は帰宅すると、この惨状を原稿用紙10枚に一気に書いた。これを総合雑誌『世界』に投稿し、題名「黙ってはいられない」で7月号に掲載される。彼は主権者・権力・人民などの観念を実体を持って理解し、憲法も意識できる様になる。
・彼は読者カードを読むのが仕事だった。これを読んでいて、自分と同様の悩み・苦しみ・考えを持っている人の存在を知る。読者の一字一句に感動し、この人達と生きていけると感じる(※網走時代の無言と対照的だな)。これが読者と共に本を作る原点になる(※集合知だな)。彼は労働組合に入り、執行委員になり、編集局次長になり、役員になる。組合経験から、自らの生は自らが決める思想を手にする。
・1978年当社が経営破綻する。彼は本作りが辛くなっており、この世界から足を洗う。彼は上野英信の『追われゆく鉱夫たち』に惹かれ、筑豊でカレー店を開業したいと思っていた。そんな時、山代から「私の本、やってくれない」と連絡が入る。彼女の自伝『囚われの女たち』(全10巻)を当社が出版する予定だった。彼は「蕗のとう」に感動し、入社後に彼女と文通が始まっていた。彼女の出世作『荷車の歌』は彼が企画し、当社が出版していた。
・1980年彼は『囚われの女たち』を出版するため、径書房を創業する。10巻で完結するが、さらに8巻を刊行し、16年の大仕事になる。彼が筑豊に行っていたら、『長崎市長への7300通の手紙』も出版されなかった。
・1995年彼は径書房の代表を退く。余生を楽しんでいたが、3年経った頃、弁護士の金住典子から「雑誌を作らない」と持ち掛けられる。天皇も国民も戦争責任に知らん振り。憲法第9条があるのに世界有数の軍事国家になった。社会を変えるには、一人ひとりが変わるしかない。71歳の彼は雑誌『ひとりから』を創刊する。
・金住は1943年広島生まれの被曝者だ。彼女は「人権の核心は自己決定権」と考えている。70年に弁護士になり「女の人権と性」などで活動している。この自己決定権は彼が苦悩して得た「自分の生き死には国家ではなく、自分が決める」に重なる。そのため自己決定権は各読者にあるとし、雑誌名を『ひとりから』にした。彼は「平等は権利だが、対等は人としての生き方。民主主義にはこれが重要」と言う(※相互尊重かな)。
・1999年『ひとりから』は1千部でスタートするが、3年後に3刷りとなる。読者から人権・平和・戦争責任・戦後責任・経済成長・環境・沖縄・原発などを憂う手紙が届いた。これに『長崎市長への7300通の手紙』以上の手ごたえを感じる(※論点の拡大だな)。「私達は主権者なのに、大事な問題で主権を行使できない。例えば自衛隊の増強です。主権者が自己決定する主権者革命が必要です」と訴える。
・2006年『ひとりから』(第30号)から、改憲反対の自主国民投票を呼び掛ける。具体的には、安倍政権で改憲のため国民投票法が成立した事への異議と改憲反対の意思をを示す事だ。「黙っていてはいけない。意思表示し、奪われた主権を取り戻す必要がある」と言う。12年自民党が改憲草案を発表する。これを「壊憲草案」とし、読者に自主国民投票を呼び掛ける。この2つの投票結果が、15年第58号に掲載される。
・『ひとりから』は16年間刊行され、この第58号で終刊になる。彼は86歳になった。この雑誌には、「自分の生き死には自分が決める」を共有し、これにより世界を変えていく思いがあった。しかし未完となった。
・2020年彼は自伝『生涯編集者』を出版する。サブタイトルは「戦争と人間を見すえて」で、次世代へのメッセージだ。彼は当書を理系の学生にプレゼントした。学生は「安倍政権は戦争を再び起こす国にしようとしている。原田さんの実体験を読み、戦争の本当の恐ろしさを知った」「『戦争ロボット』にされた原田さんの訴えを理解できた。その思いが遺る事を確証した」(※簡略化)と感想を寄せている。
あとがき
・本書に登場した人物の年齢は、50~90代で幅広い。実体験も様々だが、その根底に植民地支配や戦争がある。戦場で実際に戦った人はいないが、戦争が背景にある。生活の場を移し新基地に反対する人、海の汚染に立ち向かう人、戦争孤児になり国に抗う人、母国の分断で無国籍を貫く人、南京に通い続け戦争責任を受け継ぐ人、日の丸・君が代に職を賭して抗う人、食の安全を求める人、法曹として憲法を実践する人、親の戦争責任の贖罪を続ける人、天皇のための死から主権者になった人などで、彼らは希望の表象である。彼らは憲法を背骨として生き、鮮やかに生きている。そのため書名を『憲法を生きる』とした。憲法は揺さぶられ続けているが「市民の大地」になっている。