『岩崎弥太郎と三菱四代』河合敦を読書。
三菱の4代社長(特に初代・2代)を解説。三菱の初期を知る事ができる。
岩崎弥太郎(土佐商会)と坂本龍馬(海援隊)との関係も出てくる。
弥太郎は大隈重信と親しかったため、海運業を手放す事になる。
今の三菱は2代目弥之助によって形作られる。
三菱は日露戦争開戦にも関係する。
三菱財閥は解体されるが、三菱グループとして存続する。
お勧め度:☆☆(富国強兵・財閥などに関心がある方)
内容:☆☆☆
キーワード:<まえがき>三菱4代、<岩崎弥太郎>地下浪人、入牢/謹慎、吉田東洋、土佐商会、坂本龍馬、大政奉還/王政復古、大阪商会、<弥太郎の野望>台湾出兵、独裁、高島炭鉱、教育、外国汽船会社、西南戦争、明治14年政変、共同運輸、<岩崎弥之助>留学、日本郵船、三菱社、富国、丸の内、松方内閣、日銀総裁、<久弥と小弥太>真面目、事業拡大、猛烈、三菱財閥、自発的解体、三菱グループ
まえがき
・岩崎弥太郎は土佐藩(※以下土佐)の地下(じげ)浪人に生まれる。やがて吉田東洋/後藤象二郎に抜擢され、土佐商会の主任になる。長崎で海援隊の会計事務を担当し、坂本龍馬と親交する。弟の弥之助も三菱の創業者だ。明治15年(1882年)政府は共同運輸を創設し、三菱を倒そうとする。明治18年2代目社長・弥之助は海運業を捨て、共同運輸と三菱が合併し、日本郵船が誕生する(※最終的に三菱が勝った気がするが、記憶違いかな)。翌年弥之助は三菱社を創設し、鉱業・造船業・金融業・地所事業・倉庫業などの多角経営を始める。しかし彼は7年で久弥(弥太郎の長男)に社長を禅譲する。久弥と4代目社長・小弥太(弥之助の長男)により、三菱は財閥へと発展する。
・今の日本経済は苦境にある。これは大正末期~昭和初期の状況に似ている。1920年代、第1次世界大戦後の恐慌/金融恐慌で経済は沈滞した。浜口内閣は財政緊縮/産業合理化などを進め、1930年金輸出を解禁する。しかし1929年に始まる世界恐慌が直撃し、昭和恐慌に陥る。これは今のリーマン・ショックに端を発した金融危機とそっくりだ。この時期に三菱は大財閥に成長した。その根底に三菱4代の経営術がある。
第1章 龍馬を支えた岩崎弥太郎
○治世の能吏、乱世の姦雄
・天保5年12月11日(1834年。※正しくは西暦1835年1月)岩崎弥太郎は安芸郡井ノ口村に生まれる(※以下井ノ口。今の安芸市井ノ口)。大きな影響を受ける坂本龍馬の1歳年上になる。岩崎家は地下浪人で、郷士の身分を失った家だ。数代前の当主が郷士株を売ったため、地下浪人になった(※詳細省略)。地位は庄屋の下になるが、生活は農民と変わらない。父・弥次郎は飲んべえで農業経営も下手で、田畑を売り渡した。また頑固で、人の過ちを見過ごせなかった。少年時代の弥太郎も、いたずら好きで荒々しかった(※逸話は省略)。しかし優しい所もあった(※老婆を助けた話は省略)。
・12歳の頃、詩作(漢詩)に目覚める。14歳の時、藩主・山内豊照が安芸郡を巡視しする。この時彼は立派な詩を書き、扇子・銀を下賜される(※その詩が引用されているが省略)。15歳になり高知城下に出て、岡本寧浦の「紅友舎」に寄宿する。岡本は儒者として優れ、藩校で教授している(※詳細省略)。岡本は易学・歴史を重視し、彼も歴史好きになり、『三国志』『水滸伝』などを読み漁る。彼は英雄に感化され、「自分は世の中に名を成す」と大言壮語する(※詳細省略)。しかし彼は大風呂敷を広げるだけでなく、誰よりも勉強した。
・16歳の時、父が分家・寅之助/鉄吾と何度も諍いを起こし、井ノ口に戻る。19歳で岡本の下に戻るが、翌年岡本が亡くなる。塾生は彼が後を継ぐのを望んだが、父が許さず、井ノ口に戻る。この年ペリー艦隊が来航し、攘夷思想が盛り上がる。江戸に留学していた鉄吾の嫡男・馬之助から「江戸に来ないか」と誘われる。両親が反対するが、儒者・奥宮慥斎が江戸詰めになり、その従者として同行する。
○入牢
・弥太郎は江戸で安積艮斎に入門し勉学に励むが、1年余りで土佐に戻る。通常京都まで半月掛るが、彼は16日で土佐に戻る。彼が帰郷したのは、安政2年(1855年)父が酒宴に招かれ、庄屋・島田便右衛門などから暴行され、危篤になったからだ。彼は奉行所に訴え、奉行所は関係者に事情を聞くが、何も判明しなかった。逆に岩崎父子が叱責される。これに憤慨した彼は、奉行所の壁に「奉行所は賄賂を受け取っている」などと落書きする。これにより彼は入牢となる。
・これが最初の試練になり、自分の所業を悔いる。また学問は全くできなくなり、家族との連絡も不便になる(※詳細省略)。しかし彼は同じく囚人の樵から算盤や商売のやり方を教わる。その後彼は海運王になり、その樵に約束した一杯の金を与え様とした。
○吉田東洋との邂逅
・安政4年1月(1857年)弥太郎は出獄となる。この時判決も下り、岩崎家/島田家は家名を削除される。喧嘩両成敗だが、庄屋を解かれた島田家の方が痛手だ。島田家に味方した鉄吾/寅之助も職を解かれる。4月正式な処分が決まり、彼は井ノ口から撤去させられ、神田村(※今の高知市神田かな)の近藤楠七の屋敷に謹慎となる。岩崎家は田地を失い、赤貧になる。
・ところが弥太郎は自暴自棄にならず、蟄居先で塾を開き、漢学を教える。この中に亀山社中の一員になる近藤長次郎/池内蔵多がいる。この時期、彼は長浜村(※今の高知市長浜かな)に蟄居していた吉田東洋の小林塾を訪ねたと思われる。吉田は藩主・山内容堂の親類の松下喜兵衛を殴り倒し、謹慎処分を受けていた。彼はここで、後藤象二郎/福岡孝弟などを教えている。安政4年12月(1857年。※正しくは西暦1858年1月)弥太郎は赦免され、同じ頃吉田も参政に復帰する。藩政を握った吉田は人事を刷新し、後藤象二郎などの小林塾生を抜擢する。
・安政6年6月(1859年)弥太郎も郷廻に任命される。これは郡奉行に属し、農村を巡視する。直ぐに彼は輸出する商品を調べるため、長崎に赴く。彼は漢学者・蘭方医・砲術家・唐通詞・外国商人などに接触する。鳴滝塾のシーボルトや医師・松本良順(※『胡蝶の夢』は読んだ)にも会っている。後に土佐商会の経営を任されるが、この人脈が役立つ。大志を成すには人脈が重要になる(※詳細省略)。5ヵ月経ち、彼は退職を申し出て、土佐に帰る。それは彼が遊郭に嵌まり、公金を使い込んだからだ。往々にして偉業を成す者は性欲が強い(※詳細省略)。彼は帰国すると酒造家から百両を借り、弁済している。彼は生家に戻り、田畑を耕す。
・文久元年(1861年)彼は高知城下福井(※今の高知市福井町)の吉村喜久次に寄宿する。同年郷士株を買い、士分となり、家老・福岡宮内(孝茂)の御預郷士になる(※地下浪人で職に就けた?)。福岡は吉田東洋の一派で、彼が郷士に成れたのは吉田の助力と思われる。同年彼は喜勢と結婚する。彼は人生がバラ色に見えただろう。
・ところが文久2年4月(1862年)土佐勤王党(尊攘派)武市瑞山(半平太)らにより、吉田が暗殺される。開国派の吉田は尊攘派と対立し、さらに藩の門閥・重臣層(保守派)からも忌避されていた。これにより開国派は次々と失脚する(※薩長と違い、水戸藩と似た感じだな)。しかし彼は排斥されず、6月藩主・山内豊範の上洛に臨時御用として随行する。
・この時彼は密かに井上佐市郎と共に、吉田暗殺の犯人探しをする。兵庫に到着した際、彼は「自由行動して良い」との布達が出たと早とちりし、隊列を離れる。これが監察に知られ、帰国を命じられる。しかしこれが彼の命を救う。犯人探しをしていた井上は、土佐勤王党に殴り殺されたのだ(※詳細省略)。
・この様に彼の前半生は試練が続いた。藩庁での栄達が望めなくなり、岩崎家を富家にする事に動き出す。安芸川の両岸を田んぼに変える。畑も開拓し、綿を栽培する。この間、長女/長男(久弥)が生まれる。
・彼は藩で成功しなくても、農業で成功した。彼はどんな苦境でも努力し、乗り越えられる能力を持っている。多くの人は商売不振になると、直ぐ撤退し、ねばりが足らない。実業界で成功した人は、必ず努力し、何度も修羅場を潜り抜けている。
・彼は3年農業に従事する。慶応元年8月(1865年)三郡奉行の下役(下級役人)に召し出される(※郡奉行と三郡奉行は異なる?)。これは藩政が転換していたからだ。文久3年8月(1863年)朝廷を牛耳っていた長州が公武合体派の会津・薩摩に駆逐される(八月十八日の政変)。翌年長州は孝明天皇を拉致し、公武合体派を殺害しようとしたが、新撰組に池田屋を襲撃される(※元治元年6月池田屋事件)。長州は京都になだれ込むが、大敗する(※元治元年7月禁門の変)。幕府は長州に征討軍を送り、長州は3家老の首を差し出す(※元治元年後半)。この少し前、長州は四国艦隊を砲撃するが(※文久3年5月)、報復を受け(※元治元年8月)、攘夷を諦めていた。
・尊攘派が列強諸国/幕府に屈し、各藩の尊攘派に影響を与える。土佐では土佐勤王党の武市半平太が失脚し、吉田東洋の甥・後藤象二郎(改革派)が復権する。弥太郎は三郡奉行の下役から、開成館貨殖局に異動となるが、40日で退職する(※結構我が儘だな)。開成館は慶応2年2月(1866年)に設立され、軍艦・貨殖・勧業・捕鯨・税課・鉱山・火薬・鋳造・原泉(貨幣鋳造)・医局・薬局の部局から成る巨大な藩営機関で、財政・軍備・藩営事業が行われた(※薩摩には集成館があった)。貨殖局は物産を振興し、それを輸出するのが目的だ。そのため長崎・大阪・兵庫に出張所があった。
・慶応3年3月(1867年)井ノ口に戻っていた彼は呼び戻され、貨殖局の長崎出張所(土佐商会)での勤務を命じられる。彼は後に土佐商会を引き継ぎ、三菱商会を創設する。ところが当時の土佐商会は破綻していた。大量の銃器・蒸気船を購入するが、売れるのは樟脳(※芳香剤)しかなかった。彼は能力を発揮し、6月に主任になり、実質的トップになる。
○坂本龍馬との出会い
・弥太郎は坂本龍馬(※以下龍馬)と肝胆相照らす仲になる。長崎で初対面だったかは分からないが、共通の知人に河田小龍/近藤長次郎がいる。河田はジョン万次郎を取り調べたり、薩摩の反射炉・様式工場を視察している。龍馬は脱藩し、勝海舟の弟子になり、神戸海軍操練所で操縦術を学ぶ。慶応元年操練所が廃止され、薩摩の支援で長崎に「亀山社中」を創設する。亀山社中は海運業を営むが、いざとなると海軍に変じる(※この頃は商船も軍船も区別がないかな)。
・慶応2年後藤は土佐商会を立ち上げるため、龍馬に会談を申し入れる。開国派の吉田東洋は土佐勤王党に暗殺された。後藤は復権すると、龍馬の盟友・武市半平太を失脚させ、党員を投獄・処刑・切腹にしていた。龍馬はその土佐勤王党に所属し、後藤は仇敵だった。ところがこの時期、薩長同盟が成立し、第2次長州征伐は失敗し、討幕派が勢いづき、土佐は薩摩・長州に近付く必要があった。龍馬は会見を承諾する。それは持ち船が沈没するなど、亀山社中の経営が破綻し、資金を必要としていたからだ(※土佐商会も経営難になるが)。
・慶応3年1月(1867年)後藤と龍馬が会見する。結果、亀山社中は海援隊と改名し、土佐商会の配下になる。この時『海援隊約規』が制定されている(※引用省略)。これを見ると、隊士は土佐藩士に限られていない。また海運・投機・開拓を優先し、藩の応援を最後にしている。また隊長の権限が強大で、龍馬の自由・平等のイメージと真逆だ。同様な事が三菱商会の第1条に書かれており(※引用省略)、龍馬の独裁主義が三菱財閥に継承されている。※弥太郎と龍馬の交友が書かれているが省略。
○はったりで信用を得る
・土佐商会も実質的に経営破綻していた。土佐が佐幕派・討幕派どちらかに加担するにせよ、軍艦・兵器を準備する必要があった。ところが輸出できるのは樟脳・鰹節・鯨油などに限られた。そこで弥太郎は外国商人・長崎奉行所への接待費を湯水のごとく使った(※詳細省略)。また交渉術も優れ、月賦を滞らせ、踏み倒す素振りを見せ、値切ったりした(※詳細省略。プロイセンから蒸気船を購入し、代金が未納になり、プロイセンが長崎奉行所に訴えた話などを紹介している)。また彼は朝鮮との交易も計画していた(※鬱陵島に上陸した話や、朝鮮人商人との密約などを紹介している)。龍馬が平然と金を無心に来るので、彼は海援隊を厄介者に感じる様になる。
○いろは丸沈没事件での弥太郎の災難
・海援隊の「いろは丸」が紀州藩の蒸気船に衝突され沈没する。過失は紀州にあるが、損害賠償に応じなかった。弥太郎は後藤と共に交渉し、何とか解決する。慶応3年7月今度は海援隊が英国水兵殺害事件に巻き込まれる。(※長い話だが紹介します)英国水兵2名が長崎丸山で何者かに斬り殺される。英国公使パークスは海援隊が運航する横笛丸の海援隊士が犯人とみた。パークスは土佐商会に犯人引き渡しを求め、大目付・佐々木高行(三四郎)が応じるが土佐に帰国してしまい、弥太郎が応じる事になる。パークスは「長崎奉行所役人と共に土佐に入り、藩士を調べる」と要求し、彼が「藩に役人が入るのは沽券に関わる」と拒絶するなど、話し合いは物別れに終わる。奉行は傍観できず、「隊士を長崎に禁足せよ」と命じる。彼は承諾し、薩摩への運航があったが、薩摩の許可を得て延期する。ところが横笛丸が勝手に出港し、彼の立場は悪くなる。結局パークスは役人と土佐に入り、後藤と会見し、長崎で共同捜査する事になる。彼と龍馬は「犯人を密告した者に懸賞金を出す」とするが、犯人は分からなかった。結局明治元年(※翌年だな)肥前藩士の犯行と分かる。海援隊は無関係だったが、無断で出港させた件で、彼と隊士が奉行所に向かう。彼と多くの隊士は謝罪するが、隊士2名は頑として謝罪しなかった。結局奉行所は「お構いなし」とする。
・龍馬は弥太郎の弱腰を批判したが、彼は交易における奉行所の絶大な権限を理解し、謝罪した。海援隊と彼の関係は悪化し、彼は土佐商会の主任を解かれ、帰国する事になる。
・9月今度は土佐商会の2名が英国人2名を斬り付ける事件が起きる。両人は土佐商会に駆け込む。彼は両人を長崎から脱出させ事件を隠蔽しようとするが、大目付・佐々木が「奉行所に通告し、堂々と裁判を受けよう」と述べ、それに従う。英国人の傷は浅く、大事にならなかった。
○戦争より商売
・この頃後藤は龍馬が掲示した「大政奉還」を実現すべく、京都・大阪を動き回っていた。長崎には英国水兵殺害事件のため大目付・佐々木が来ており、土佐商会はその指示を受けた。佐々木は討幕派で、海援隊士と意気投合した。そのため商売を重視する弥太郎と対立した。彼は土佐に召還されるはずだったが、意外にも佐々木が止める。それは彼なくして長崎での商売ができなかったからだ。彼はしばらく長崎で業務を続けたが、10月25日京都の後藤の下に向かう。
・後藤は馬廻役から中老に家格が上げられ、執政の座に就く。これは後藤が前藩主・山内容堂に大政奉還を献策し、これを将軍・徳川慶喜(※以下慶喜)が受諾したからだ(※この頃の京都は激動だな)。11月15日京都の近江屋で龍馬と中岡慎太郎が襲撃され、殺される。後藤が藩政を握った事で、弥太郎が土佐商会の主任に復帰し、佐々木が土佐に召還される。11月末彼は長崎に戻ると、佐々木から裃を着て来るように命じられ、そこで岩崎家を新居留守組にする通達を受ける。新居留守組は上士の家格で異例の昇進となった。
・12月9日「王政復古」の大号令が発せられる。その夜、小御所会議が開かれ、薩摩などの討幕派により慶喜の「辞官納地」が決まる。この時山内容堂や松平春嶽は抵抗している。これにより徳川家暴発の可能性が高まり、武器調達のため佐々木は長崎に残る事になった。慶応4年1月3日(1868年)旧幕府軍と新政府軍が衝突し(鳥羽伏見の戦い)、戊辰戦争が始まる。
・長崎での佐々木の行動は素早かった。同月13日新政府軍の勝利が伝わると、翌日長崎奉行所を占拠する。勤皇派諸藩と契約書を交わし、長崎を共同統治する。佐々木は弥太郎に藩船「夕顔」の上方への出港を命じるが、彼は断る。佐々木の厳命に彼は辞職を願い出て、佐々木も承諾する(※詳細省略)。
○政府出仕かなわず
・2月2日弥太郎は長崎から大阪の後藤の下に向かう。江戸での開戦が予想され、大量の武器を長崎で購入しようとしていた後藤は彼を見て驚く。後藤は彼を説得し、長崎に戻させる。彼が長崎に戻ると、佐々木は新政府に登用され、長崎裁判所の参謀助役に就任していた。これにより彼は土佐商会の全権を得る。弥太郎は武器を調達すると共に、「北海交易計画」を実行している。米ウォルシュ商会と提携し、カムチャッカ半島に藩船「大阪」を派遣している。これは龍馬が企画したものだ。
・大政奉還が決まり、龍馬は閣僚人事を練っているが、そこに自分を入れていない。西郷隆盛が問うと、「世界の海援隊でもやりましょうか」と答えた。彼は海運会社・商社を考えていたのだろう。彼の影響を大きく受けた弥太郎は、この頃は交易・海運より、新政府の要職に就く事を望んでいた。実際、薩長土肥の有為な人材は要職に就いている(※詳細省略)。大阪開港が同年7月と決まり、各藩は大阪に商館を移す。同年4月土佐商会の閉鎖も決まる。5月弥太郎は後藤に新政府への出仕を要望する。願いは黙殺されるが、結果的には良かった。明治7年(1874年)後藤は征韓論に敗れ下野し、その後政府に戻る事はなかった。
・明治2年7月(1869年)弥太郎は開成館大阪出張所(大阪商会)に配属される。翌年閏10月彼は少参事に昇進する。これは中老で、藩の重臣に昇進した。彼は外国人・大阪豪商と積極的に取引する。そのため蔵屋敷の責任者・真辺と対立する。結局藩は真辺を解任し、大阪での商売は彼に一任となる。彼は大阪商会の業績を伸ばすが、明治3年8月(1870年)政府は民間の育成を阻むとして、蔵屋敷等の活動を禁止する。土佐は大阪商会を九十九商会と改名し、藩の会計から切り離す。翌年7月「廃藩置県」により藩自体が消滅する。九十九商会は三川商会と改名し、海運業などの事業を続ける。この時彼は代表から外れているが、それは猟官運動のためと思われる。しかし間もなく復帰し、明治6年3月(1873年)「三菱商会」と改名する(※後に出て来るが、岩崎家の家紋が三階菱)。米国に留学していた弟・弥之助に帰国を促しており、三菱商会は彼が主宰する私商社になった。
第2章 弥太郎の野望-政府との果てなき闘い
○郵便蒸気船との激闘
・三菱商会(※以下三菱)ができた頃は多数の海運業者があった。三菱が生き残ったのは弥太郎が世界に進出する大きな夢を持っていたからだ。私(※著者)は夢は大きければ大きいほど良いと思う。能力は努力で何倍にもできる。そして三菱の社員も彼の夢に向かってよく働いた。さらに彼には外国商人から絶大な信頼があった。そのため資金調達に苦労しなかった。
・明治5年8月(1872年)政府は外国の汽船会社に打ち勝つため、政商(三井、鴻池、島田、小野)と計り、「日本国郵便蒸気船会社」を創設する(※以下郵便会社)。三菱は1年で急成長し、郵便会社と肩を並べる様になる。その理由はサービスにある。三菱は土佐藩士の授産・互助組織として誕生したため、尊大な立ち振る舞いがあった。そこで彼は社員に「士族である事を忘れろ」と厳命した。彼は商人の衣装である前垂れを着させた。郵便会社社員の労働意欲は乏しく、保有する船は老朽化しており、問屋・荷主は三菱に注文した。郵便会社の特典は年貢米の輸送の独占にあったが、明治6年7月金納のみになる。さらに小野組が倒産し、政府がその資本金40万円の返還を郵便会社に命じた(※郵便会社は小野組の子会社と思うが)。
○台湾出兵
・明治4年11月(1871年)台湾に漂着した漁民54人が台湾人に殺害される。政府は清と交渉するが決着しなかった。政府は出兵を決めるが、列強が中立の立場を取ったため、外国の汽船会社は輸送を拒否した。そこで大蔵卿・大隈重信は輸送を郵便会社に命じる。ところが郵便会社は「台湾への輸送を引き受けると、国内の仕事を失う」と拒否する。大隈は三菱に依頼し、彼は快諾する。三菱は政府から金川丸・東京丸・東海丸など13隻を貸与される。これにより三菱は郵便会社を一気に抜き去る。また台湾との往復で航海技術を向上させ、海外航路開拓の足掛かりになった。※台湾出兵はマラリアなどで大変だったらしい。
・明治8年5月(1875年)内務卿・大久保利通は「海運三策」を閣議に提出する。これは「①海運を民間に委ねる」「②政府の保護で民間会社を育成し、その会社に海運を一任する」「③海運業を官営にする」の3案で、大久保は②を支持し、三菱を推薦する。大久保に反対する参議はおらず、三菱に委ねられる。因みに事前に駅逓頭・前島密が弥太郎と面会している(※詳細省略)。
・9月内務省駅逓局は三菱に「第一命令書」を公布する(※後に第二命令書/第三命令書も出る)。これにより12隻の無償貸与と運航費助成金として15年間毎月25万円が給付される(※詳細省略)。さらに政府は郵便会社に解散を命じ、その汽船18隻も三菱に無償貸与される。三菱は創設から数年で、40隻余りを保有する国内最大の海運会社になる。
※明治6年1月1日(1873年)から西暦(グレゴリオ暦)に変わる。それ以前は和暦で、年月日は一致しない。また明治5年は12月3日で終わる。その分月給は減らされた。
○独裁宣言
・弥太郎は郵便会社の資産・社員を引き受け、社名を「郵便汽船三菱会社」(※以下同様に三菱)と改める。明治10年(1877年)会計規程「三菱会社簿記法」を定めている。これは洋式の複式簿記、減価償却を取り入れた斬新なものだ。明治8~10年で社則が整えられた。社則には社長の独裁が謳われており、これが三菱の伝統になる(※第1条、第2条が引用されているが省略)。三井は役員による複数支配で、番頭政治と言われた。渋沢栄一は合本組織(株式会社)を好んだ。
・ただし弥太郎は私腹のためでなく、常に国家を意識した(※明治8年・11年の告論を引用しているが省略)。彼は列強に制圧されている海運の回復を目指した。彼は福沢諭吉の『西洋事情』を読み、実業立国の考え方に共鳴していた。彼は福沢との親交を深め、慶應義塾の卒業生を多く採用した。
・当時彼は神経質と考えられていた。それは3策だけでなく、第4の策も考えていたからだ(※詳細省略)。なお三菱は海運業以外に、鉱山業・造船業・倉庫業・水道事業・為替業・樟脳製造・製糸業・保険業などを営んだが、彼はそれらに消極的だった(※長崎の海援隊が根源かな)。明治6年彼は土佐藩が接収し、川田小一郎が経営する吉岡銅山を引き継ぐ。郵便会社に勝てたのは、ここからの収益が大きい。しかし彼は鉱山経営に消極的だった。後藤は蓬莱社を経営し、政府から払い下げられた高島炭鉱を経営していた。しかし後藤は政治的才能はあっても商才はなく、当社は倒産の危機にあった。そのため福沢/弥之助(後藤の娘と結婚)/川田は、弥太郎に高島炭鉱の買収を進言した。明治14年3月大隈が仲介し彼は折れ、高島炭鉱を購入する。
・彼は経費に厳格だった。※逸話は省略。
○人材教育と人材登用
・幾らトップが偉大でも、社員が有能でないと会社は成長しない。三菱のシンボルマークは岩崎家の三階菱と山内家の三つ柏を融合し、また「人」を型取っている。弥太郎は高等教育を受けた者や外国人を多く採用した。当時大卒者は超エリートだったが、厚遇で迎えた(※福沢がこれを評価しているが省略)。彼は「一般社員は従順だが、高学歴者は見識を持ち、堂々と相手と交渉できる」と考えていた。藩主・細川重賢も藩主・上杉鷹山も教育に潤沢な予算を使った。現代でも政府は景気浮上より教育を重視すべきだ。
・この点でも彼は優れている。土佐商会では英学塾を開き、三菱では三菱商船学校/三菱商業学校/明治義塾を創設している。また彼は見込んだ新人に度胸試しをしている(※詳細省略)。また三菱は社員の2割(400人)が外国人だった。
○外国汽船会社を駆逐
・弥太郎は米国のパシフィック・メイル社に闘いを挑む。当社はサンフランシスコ-上海間の航路を持ち、上海-横浜・神戸・長崎と支線を伸ばしていた。明治8年2月3日三菱の東京丸が横浜を発ち、11日上海に着き、火蓋が切られる。三菱は価格を下げ、価格競争になり、メイル社は音を上げる。政府が仲介に入り、メイル社は上海航路から撤退し、その汽船4隻と施設を三菱が買い取る事になった(※この上海航路とは上海-日本かな)。
・しかし直後に英国のピー・アンド・オー社が上海航路に進出する。さらに当社は大阪の「荷積問屋九店組合」と独占契約し、大阪-東京航路に進出する。三菱が政商になった事で尊大な態度をする社員も現われ、その反発と思われる。この危機感から重役は給与減額を申し出る。彼自身も含め減給し、社内に決意を示す(※社員への指令は省略)。
・全面戦争になるが、彼には勝算があった。それは政府の支援で、実際政府は三菱に資金を貸与した。さらに外国船を利用する場合、許可手続を複雑にした。彼も起死回生の策を打った。荷を担保に、荷主にお金を貸した(荷為替金融)。明治9年8月荷積問屋九店組合はピー・アンド・オー社との契約を解除し、当社は日本航路から撤退する。
○三菱海上王国
・明治9年9月三菱に「第二命令書」が公布される。「第一命令書」の試用期間が経過し、政府が三菱を15年間保護育成する事になった。三菱は北清航路・釜山航路・香港航路・元山津航路・仁川航路・ウラジオストック航路や琉球航路・小笠原航路・北海道航路・日本海航路などを開拓する(※地図に航路が記載されているが、許認可が必要なのかな)。また三菱は佐賀の乱(明治7年)・江華島事件(明治8年)・西南戦争(明治10年)で兵士・物資を輸送している。
・西南戦争に土佐の自由民権運動家も加担する動きがあった。弥太郎は恩人である立志社の林有造に資金を貸与している。彼は細心なので、もしかしたら二股を掛けていたのかもしれない。林有造は逮捕され釈放されるが、第1次大隈内閣/第4次伊藤内閣で大臣を歴任している。この戦争で三菱は445万円の収入を得る。汽船は61隻になり、全国の総トン数の7割を占める様になる。明治11年7月彼は勲四等旭日小綬章を授与される。
○明治14年政変
・明治11年最大の実力者大久保が暗殺される。長州出身の伊藤博文と肥前出身の大隈重信の後継争いが始まる。当時自由民権運動が盛んで、大隈はイギリス流の憲法を制定し、国会を開こうと主張した。これに岩倉具視などの保守派は反発した。伊藤は革新派だったが、保守派に近付く。大隈は福沢と懇意で、慶應義塾出身の官僚と共に政党を組織しようとしていた。
・明治14年(1881年)「開拓使官有物払下げ事件」が起きる。開拓使長官・黒田清隆が開拓使官有物を同じ薩摩の政商・五代友厚に廉価で売却しようとしていた。伊藤は黒田に「この攻撃は大隈による」と吹き込み、薩摩閥を長州閥に引き込む。薩長閥は天皇臨席の会議を開き、大隈を参議職から罷免する。伊藤が薩長専制政府の中心になる。民権運動を懐柔するため官有物払下げを中止し、憲法制定と10年以内の国会開設を約束する。
・この政変に弥太郎も巻き込まれる。黒田は開拓使官有物払下げ事件の黒幕を彼とし、「自身の北海道での事業のため、五代への払下げを阻止している」とした。明治14年12月彼は農商務卿・西郷従道に呼び出され、「第二命令書」の改定を通告される。翌年2月「第三命令書」が公布される。これにより三菱は海運業以外の事業に乗り出せなくなり、罰則も強化された。この背景に立憲改進党の創設がある。明治15年3月同党は大隈を党首とし、福沢派官僚や知識人などにより創設される。英国流の漸新主義だが、板垣退助の自由党ほど過激ではなかった。政府は同党の資金源を三菱とした。
○世論・政府からの攻撃
・明治15年5月政府は農商務卿・西郷に新たな汽船会社の創設を許可する。これに渋沢栄一/益田孝/雨宮敬次郎/大蔵喜八郎(大倉?)/川崎正蔵や三井系が資金を出し、10月「共同運輸会社」が発足する(※以下共同運輸)。当社は海軍そのものだった。船舶は海軍に属し、戦時には海軍商船となると規定された。社長・副社長には現役武官が就いた。これは三菱存亡の危機で、弥太郎は不偏不党を宣言し、新会社設立は国家の不利益とする意見書を密かに政府高官に送った。ところが意見書が主義が異なる自由党に流れ、新聞で暴露され、三菱は世論と政府を敵に回す。
○共同運輸との死闘
・共同運輸は三菱の航路に進出する。弥太郎はサービスの充実と運賃引下げを行い、廉価競争になる。スピード競争も行われる様になる(※詳細省略)。明治17年10月には、両社汽船による衝突事故も起こる。
・三菱の海運収益(明治17年度)は230万円で最盛期の半分になった。一方の共同運輸は配当も出せなかった。農商務卿・西郷/同省大輔・品川弥二郎は配当金のため25万円の融資を閣議に提出するが却下される。特に反対したのが土佐藩出身の太政官書記官長・土方久元だった(※今の内閣官房長官かな)。一方彼は政府から無償で借りた30隻の代金を返済し、反発してみせた。
○弥太郎の最期
・この闘争が終わる前、弥太郎の寿命が尽きる。明治14年彼は胃を病み、静養する。復帰するが、明治17年6月から食欲が減衰する。東京大学の医師の往診を受け、慢性胃カタルと診断される。9月昏倒し、伊豆山に逗留し、長期療養に籠る。10月東京の別邸・六義園に入る。11月胃癌で余命は3・4ヵ月と家族に伝えられる。激しい胃痛の中でも、彼は共同運輸との闘いを緩めなかった。側近が六義園と本社を往復し、1日に40回に達する事もあった。翌年2月彼は吐瀉する様になり、7日危篤になり、息を引き取る(※遺言を引用しているが省略)。多くの人が立ち会ったが、壮絶な死だった。
第3章 温厚沈着な経営者、岩崎弥之助
○順良忠実な岩崎弥之助
・岩崎弥之助は弥太郎より16歳下の弟だ。彼は嘉永4年1月8日(1851年)次男として生まれる。長姉・琴20歳、弥太郎・16歳、次姉・佐幾14歳だった。彼は虚弱体質で、親や医師は見放したが、弥太郎が必死の看病で命を取り留めた事がある。彼の幼少期は貧窮していたが、弥太郎が田畑を開拓し、生活は楽になる。16歳になると藩校・致道館に入学する。彼は優秀で、給費生となり1日6合の扶持米を給与された。
・明治2年弥太郎が大阪商会の責任者になり、彼も大阪に移り、重野安繹の成達書院に通う。重野は薩摩出身で、昌平坂学問所で学んだ秀才だ。ただし明治4年重野は文部省に出仕したので、学んだのは2年だ。重野は「兄は豪胆だが、弟は順良忠実」としている。この性格の違いが三菱を強大にしたのだろう。幕末維新の動乱期を弥太郎が乗り越え、産業発展期は順良・協調的な彼が求められた。
○豪傑弥太郎の補佐役
・弥太郎は英語が話せない事にコンプレックスを持っていた。そのため明治5年4月弥之助を米国に留学させ、1年7ヵ月後に帰国する。彼は英語をマスターし、その上達方法まで披露している(※詳細省略)。明治6年4月父・弥次郎が亡くなり、彼は帰国する。再度留学する事はなく、弥太郎を補佐する。
・翌年11月彼は結婚する。相手は弥太郎が決めた後藤の娘・早苗だ。結婚した時は後藤は下野していたが、決めた時は後藤は参議で、不釣り合いではあった(※経緯などが書かれているが省略)。しかし結果的には両者に良かった。彼は三菱商会の副社長になり、弥太郎を支えた。明治14年政変以降、政府は三菱を潰しにくる。明治17年弥太郎は倒れ、翌年になくなるが、彼が三菱の指揮を取る様になる。
○共同運輸との闘い
・三菱と共同運輸との闘いが長引き、政府は動揺する。明治18年1月(1885年)農商務卿・西郷は三菱(副社長・弥之助、管事・川田正一郎、管事・荘田平五郎)と共同運輸を呼び寄せ、和解を勧告する。3月両社が30ヵ条の協定を結ぶ。同時に彼は、政府が海運界の発展のために両社を保護する建白書を提出する。しかし1ヶ月も経たない内に共同運輸が協定に違反し、彼は戦闘再開を宣言する。以前にも勝る価格競争と荷主・乗客争奪戦が始まる。そんな中彼が考えたのが、三菱が海運業から撤退し、三菱の海運分野と共同運輸を合併させる策だった。
○汽船会社の廃業
・弥之助は闘争を続けながら、共同運輸と交渉する。土佐藩出身の政府高官にも合併案を持ち掛ける。川田には親三井・反三菱の外務卿・井上馨や伊藤博文/松方正義などにも折衝させる。その成果が現われる。4月共同運輸の社長/副社長が交代し、社長に農商務小輔・森岡昌純が就く。森岡は社内に合併論を浸透させ、7月政府に合併を求める上申書を提出し、自宅で弥之助と交渉を始める。同月井上は共同運輸の設立者・渋沢喜作/益田孝/小室信夫/堀基/藤井三吉から合併の同意を得る(※農商務卿より外務卿に主導権?)。8月臨時株主総会が開かれ、紛糾するが合併案が了承される。
・両社が政府に願書を提出し(※詳細省略)、合併が決まる。社名は「日本郵船会社」(※以下日本郵船)で、資本金は1.1千万円(共同運輸600万円、三菱500万円)となる。社長は共同運輸の森岡で、理事は小室信夫/堀基/岡本健三郎/荘田平五郎だ。岡本は中立で、荘田だけが三菱だ。結局この闘いに三菱は敗れた。三菱は海運分野を当社に移譲し、従業員2.2千人中1.5千人が移籍した。彼には脱腸の思いだった(※社内への論告は省略)。
○陸の三菱社を創業
・彼が三菱の社長に就いて、8ヶ月で三菱海上王国が霧散した。資本・社員の大半は日本郵船に移り吉岡銅山だけが残った。三菱は海運業以外を禁じられていたため、他業種は岩崎家の個人商売としてやっていた。ただし弥太郎は巨大な資産を残したため、生活に困る事はない。また日本郵船の株式の半分は岩崎家のものだ。彼は弥太郎の死の間際に「我の事業を墜すなかれ」と約束した。しかし国家・社員のため海運業を手放し、自責の念に苛まれた。
・そんな彼が明治19年3月29日(1886年)新会社を設立する。事業内容は鉱山(吉岡銅山など)/水道(千川水道会社)/炭鉱(高島炭鉱)/造船(長崎造船所)/銀行(第百十九銀行)で、本社は神田淡路町に置かれ、社名は三菱社だ(※以下三菱)。社則「事務規定」には、社長独裁が受け継がれた。この三菱社は三菱商会とは別会社で、戦前の三菱財閥、戦後の三菱グループは当社が発展したものだ(※三菱商会からの引き継ぎは当然あったのでは)。従って三菱には2人の偉大な創業者がいる。
○三菱の多角的経営 ※この辺は面白いな。
・三菱社の骨幹となった業務を紹介する。吉岡銅山は明治6年土佐藩から譲り受ける。弥之助は長谷川芳之助を鉱山長とし、原田鎮治を派遣し、多額の資本を投じ近代化した。産出量は伸び、月7千トンの鉱石を産出した。彼は、興共/瀬戸/樫村(岡山)、尾去沢/大葛/細地(秋田)、槙峰(宮崎)、多田(大阪)、木浦(大分)などの鉱山を買収した。別所/佐渡/生野などの鉱山も買収し、金は全国1位、銀は全国2位、銅は全国4位となった。
・炭鉱経営にも注力する。その主力は弥太郎が後藤のために百万円の大金で買い取った高島炭鉱だ。弥太郎は鉱山業を博打としていたが、彼は最新の技術を使えば採算は取れると考えていた。高島炭鉱以外にも、新入/鯰田/碓井/佐与/上山田/方城(福岡)、古賀山(佐賀)、端島(長崎)、油戸(山形)を所有する。高島炭鉱では外国人技師に指導させ、近代的設備を導入し、月産1.65万トンに達した。三菱の産出量は全国3位になる。
・三井/住友などの財閥も鉱業に進出したが、三菱は重工業を重視した。その起点が長崎造船所だ。明治17年三菱は政府から長崎造船所を貸与される。この時は共同運輸と闘争中で、三菱を弱体化させるためだった。長崎造船所は明治15年に赤字に転落していた。造船所を維持するには設備投資が必要で、彼は造船所に資本を投下し、近代化する。明治20年(1887年)造船所を46万円で買い取る。外国人技師を高額で雇用し、社員を先進国英国に派遣し、造船技術を習得させる。数年で注文が殺到する様になる。明治21年には大阪商船から600トン級汽船、日清戦争頃に1千トン級、明治28年には日本郵船の6000トン級外航船を受注する。明治38年(1905年)神戸造船所を開設し、第1次世界大戦で世界的な船舶不足になり、三菱は莫大な収益を上げる。
・三菱は倉庫業・保険業・銀行経営・農場経営なども展開した。小岩井農場も三菱の経営だ。三菱は多角経営となったが、これは弥太郎の轍を踏まないためだった。
○弥之助の経営理念
・弥之助も社長独裁を標榜したが、経営を独断専行した訳ではない。彼は何よりも知識・技術を基本にした。そして決断は早く、これは弥太郎と違う点だ。教育においては、弥太郎も彼も積極的だった。彼の経営理念は「富国」で、日本を先進国に劣らない一等国にする事だ。これは当時の実業家に共通する。各界の指導者は帝国主義の餌食にならない事を目標にした。彼が海運業から撤退したのも、そのためだ。
・しかし今の企業人は短期的利益を目標にし、献身的な社員を切り捨て、消費者を裏切る。「勝ち組、負け組」の言葉が流行っている。しかし勝ち組になり富を得て、満足が得られるのか。(※福沢と弥太郎の問答が記されているが省略)結局公的理想がなければ、勝利も虚しいだけだ。彼は甥・康弥に「お前達の中に国家ではなく、岩崎家の事だけを考える者がいたら、三菱は潰した方が良い」と告げる。今の私達は、この意味を噛みしめるべきだ。個人主義・自由主義が誤って解釈されており、彼の時代に軌道修正すべきだ。歴史は常に右肩上がりではなく、螺旋状に進化するものだ。国民が植民地になりたくないと思ったので、そうならなかった。国民は国家のために、それに抵抗があるなら公共のために働くべきだ。今の日本には、これが必要だ。
○丸の内、ロンドンになる
・弥之助の仕事で最も評価するのは、丸の内のオフィス街だ。丸の内は江戸時代は大名屋敷で、維新後は陸軍省・司法省・農商務省などの敷地になった。政府は13万坪/155万円で売りに出し、蔵相・松方正義の依頼で彼が承諾する。ビジネスセンターを建設する構想だが、当時は突飛な構想だった。弥太郎の方が大胆に思われるが、それは性格で、経営は彼の方が大胆だ。鉱山業・造船業・ビジネスセンター計画、何れもしかりだ。
・三菱は、丸の内8.1万坪/三崎町(神奈川県三浦市三崎?)2.4万坪を128万円で買い取る。これは東京市の予算の3倍になる。明治27年(1894年)ここに地上3階地下1階の英国風の三菱第1号館が建てられる。その後明治44年(1911年)までに、第13号館まで建てられる。大正時代に東京駅が作られ、ビジネスセンターに変貌する(※東京駅は1914年開業)。今も丸の内は三菱地所が所有し、三菱商事/三菱重工/三菱電機/三菱東京UFJ銀行/東京海上日動火災などの本社がある(※今の丸の内について詳述しているが省略)。
○小早川隆景になる
・明治26年(1893年)改正された商法会社編が施行される。民間企業は株式会社・合名会社・合資会社の何れかになる。三菱は社長独裁のため合資会社になり、資本金500万円は弥之助が250万円、弥太郎の長男・久弥が250万円を出資する。これを機に久弥がトップになり、弥之助は引退する。三菱社を創業して7年、まだ42歳だった。彼は弥太郎との約束を果たした。ただし弥太郎が作った三菱商会(日本郵船)と違い、三菱社は彼が築き上げた会社で、久弥に譲渡する義務はなかった。この頃日本郵船は三菱色が強くなり、明治27年三菱出身の吉川泰二郎が社長に就き、三菱財閥の傘下に入る。彼には小弥太という立派な嫡男がいて、その息子に三菱社を継がせる方法もあったが、社長を29歳の久弥に譲り、「監務」となった。
・彼は一族を大切にした。弥太郎は妾を作ったが、彼にそんな話はない(※彼に比し、弥太郎は子沢山)。彼は弥太郎の遺児の面倒も見た。娘達の嫁ぎ先を決めたが、見事な選定をしている。弥太郎の長女・春路は加藤高明に嫁いだ。加藤は三菱に入社し、憲政会総裁に就き、首相に就いている(※三菱とは)。次女・磯路は木内重四郎に嫁いだ。木内は京都府知事などに就いている。三女・富子は猪苗代水力電氣株式会社の支配人となる早尾惇実に嫁いだ(※1923年猪苗代水力電氣は東京電燈に吸収される)。末子・雅子は幣原喜重郎に嫁いだ。幣原は協調外交を繰り広げ、戦後は首相として非軍事化・民主化に取り組んだ(※錚々たる顔ぶれ。娘2人が首相夫人)。自分の一人娘・繁子は松方正義の次男・正作に嫁いだ。
・一方息子達には厳しいスパルタ教育を施した。本郷に寄宿舎「雛鳳館」を作り、風呂焚き/洗濯などをさせた。食事は粗食だった(※詳細省略)。英語教師・漢学者・思想家なども招聘した。厳しい教育により、久弥/小弥太/俊弥(※弥之助の次男)は立派な実業家になった。人は幼少時代に我慢する心・耐性を叩き込む必要がある。親は子に厳格であるべきだ。
○政界で蠢動
・弥之助は三菱社を数年で強大にし、卓越した経営力を持っていた。彼は三菱商会の経験から世論を大変気にした。政府が三菱商会を潰そうとした原因は、大隈の資金源とされたからだ。西南戦争では自由民権派に接近したが、大久保に全面協力したため安泰だった。彼は政治的バランスが重要と見抜いた。
・そのため彼は、大隈の進歩党を支援し、岳父の後藤(自由党)を応援し、薩摩閥の松方と姻戚関係を結んだ。明治29年9月彼は京都で松方と大隈の会談を実現させる(松隈同盟)。これに後藤を加え、三角同盟とした。これにより松方首相/大隈外相の第2次松方内閣が誕生する。彼自身も第4代日銀総裁に就く。彼は日露戦争に備え、挙国一致内閣が必要と考えていた。彼は日露開戦派でもあった。
・日銀総裁の時、金本位制への転換を行う。それまで日本は銀本位制だったが、日本の貿易は金本位国との取引が7割を占め、世界貿易は金本位国が中心になると考えられた。また清からの賠償金は英国ポンドで受け取り、金本位制への転換が可能だった。また日露戦争では、金本位制に転換していたため、英米から外債を募集できた(※金本位制への転換は、明治30年(1997年)かな)。他に中小銀行の統合整理、担保品付手形割引の廃止、日銀の個人取引開始、初の金融市場操作などを行っている。
○英国紳士
・明治35年(1902年)弥之助は欧州を歴訪し、米国を回り帰国する。この時期に日英同盟が結ばれている。また松方/渋沢栄一もロンドンにいて、三者が英国公使・林薫と参会している。日露戦争に向け、有力者に協力を求めていたと推測される。彼と渋沢が英国の実業界に戦艦・武器の調達を依頼したのは確実である。翌年には久弥もロンドン入りしており、社長の外遊は異常だ。※日本は日露開戦の前にしっかり準備していたんだ。
・彼の外遊は7ヵ月間で、様々な都市を視察している。その感想を『時事新報』に「時弊救済意見」として掲載している(※長文が引用されているが省略)。英国人を絶賛しており、「彼らは品行方正で責任感を持ち、信義を尊び、規律を守り、どんな困難にも志を持って前進する」とし、日本もそうなるべきとしている。特に会社の重役にそれが必要で、社員を指揮する覚悟が必要とした。
・彼は「富豪の社会的責任」を強く感じ、教育・福祉・文化事業に貢献した。その1つに静嘉堂文庫がある。これは彼が恩師・重野安繹の古典収集を援助した事に始まる。やがて自身も和漢書を収集する様になり、自宅に一館を設けた。今は財団法人静嘉堂になっている。静嘉堂には刀剣・書画も保存されているが、これも彼が収集した物だ。
・教育事業では、明治34年(1901年)日本女子大学の発起人になる。また大隈の東京専門学校を支援し、明治36年早稲田大学に昇格する。明治40年社団法人東京慈恵会の顧問になり、医学専門学校/看護学校の設立に寄与した。※同時期の大倉喜八郎と似ているな。
・彼も悪性の癌に冒される。明治37年上顎に蓄膿症を患い、度々膿を出すが、これは癌巣だった。明治40年7月患部に激痛が走り、上顎骨癌腫と判明する。癌は全身に転移していたと思われ、気管支炎などを併発する。11月には眼球を摘出する。あちこちに壊疽が見られ、悪臭を放つようになる。翌年3月58歳で死去する。
・癌が発症する3年前(明治34年)、彼は大きな汽船で生家(井ノ口)を訪ね、豪華な宴を張っている。故郷に錦を飾ったのだ。弥太郎も明治3年、故郷に錦を飾っている。この時は廃藩置県の直後で、大阪商会を担っていた。弥太郎は高知城下の豪邸で多数の芸者を呼び、ドンチャン騒ぎした。井ノ口の村役人や藩の重役に栄達を見せ付け、溜飲を下げたのだろう。故郷で錦を飾る方法が、2人で異なるのが面白い。
第4章 久弥と小弥太の拡大経営
○寡黙な3代目
・慶応元年(1865年)弥太郎に長男・久弥が生まれる。彼は11歳になり、慶應義塾の幼稚舎(?)に入り、福沢の自由主義の薫陶を受ける。しかし3年後に弥太郎が三菱商業学校を創設し、そちらに転校する。ただし同校の教員の多くは慶應出身なので、校風は変わらない。彼が21歳の時、父・弥太郎を失う。翌年叔父・弥之助の命でペンシルバニア大学に留学する。5年間、安下宿で生活する。
・親友に将来駐日大使になるロバート・グリスコムがいて、2人はスカンジナビア/ロシアなどを卒業旅行している。(※汽車から物を投げ続けた話、毛皮店の毛皮を全て購入した話が記されているが省略)。彼の生家を知らないグリスコムは驚く。その日泊まったホテルで彼がカーネギー(※鉄鋼王)とロックフェラー(※石油王)を合わせた様な大富豪の御曹司と初めて知る。彼は寡黙で、素性を語らなかった様だ。
・彼は寡黙だが、聞き上手だった。部下の事業計画を十分調査し、採算が取れると確信すると、迅速に許可し、資金も惜しまず与えた。弥太郎は独断的だったが、彼は移譲型だった。彼は真面目で、娘から「木石」に例えられた。真面目一辺倒で弥太郎と似ず、弥之助と似ている(※詳細省略)。
○久弥の拡大路線
・久弥は29歳で三菱を継ぐが、前社長・弥之助が後見役になり、弥太郎の従弟・豊川良平(※弥太郎/弥之助の母方の従弟)/近藤廉平(日本郵船社長)/荘田平五郎(明治生命取締役会長)/末延道成(東京海上火災取締役会長)の「三菱の四天王」などが彼を補佐した。彼は機械工業に造詣が深く、三井・住友・安田などと異なり重工業(造船、鉱業)を重視した。弥之助の路線を引き継ぎ、佐渡金山/生野銀山などを購入した。長崎造船所を拡張し、明治38年神戸造船所、大正3年に彦島造船所を新設した。※神戸は日露戦争中、彦島は第1次世界大戦中だな。和暦より西暦を使って欲しい。
・彼は金融業・商事貿易・製紙事業・農牧事業を拡大させる。特に農牧事業は引退後も熱心に取り組んだ。大正8年東山農事株式会社を創設し、農牧事業を当社に集中させる。東山農場(朝鮮)、拓北牧場(北海道)、新潟の農場、小岩井農場、末広農場(千葉)などだ。さらにスマトラでの油椰子栽培、マレー半島でのゴム栽培、ブラジルでのコーヒー農園などにも取り組んでいる。ただし太平洋戦争の敗北で、これらは没収される。
・三菱合資会社の業績も伸び、特に日露戦争で造船が大儲けする。ところが戦後不況で利益が4割減となり、経費削減/リストラを断行する。明治41年大改革を行う。各部に資本金を設定し、独立採算制にする。鉱業部・造船部・銀行部・庶務部が切り離され、採用・異動を独自に行う様になる。後に営業部・地所部も独立する。
・大正5年彼は突然社長を辞任し、弥之助の嫡男・小弥太が継ぐ。彼はまだ52歳で、第1次世界大戦により空前の業績を上げていた。彼は父が亡くなった年齢を意識したのだろう。その後の農牧事業への取り組みを見ると、そちらをやりたかったのだろう(※第2の人生について詳しく述べているが省略)。彼も社会事業に尽力している。東洋文庫を設立し、学校・病院を助成し、六義園/清澄庭園を東京市に寄贈している。一方で質素な生活をし、メザシが好物だった(※痛んだ椅子の話は省略)。
・彼は昭和30年91歳で亡くなる。晩年はアダムス・ストークス症候群で苦しむ。これは心臓冠動脈の硬化による病気で、1日に何十回も発作を起こす。敗戦により財閥が解体され、彼は公職から追放され、財産の大半を没収される。ところが冷戦が始まり、昭和20年代後半から三菱財閥は三菱グループとして再生されていた。
○4代目は理想的な社会主義者
・岩崎小弥太は巨漢で、体重が124Kgあったとされる。明治12年(1879年)彼は弥太郎の嫡男として生まれる。4歳で東京女子師範学校の幼稚園に入り、以降学習院予備科/東京高等師範学校付属小学校/第1高等学校第1部に進む。東京帝国大学法科大学に進学するが、英国に留学し、ケンブリッジ大学に入る。歴史学を専攻し、バチュラー・オブ・アーツ(バチェラー・オブ・アーツ?)の学位を取得する。
・明治39年帰国し、三菱合資会社の副社長に就く。この時彼は社会主義に魅了されており、政治家になる夢を持ち、就任を拒む。しかし実父・弥之助が厳命し、副社長に就く。そのため「名義だけの副社長ではなく、思う存分手腕を振るう」を条件に付けさせた。翌年島津孝子と結婚する(※詳細省略)。夫婦仲は良く、生涯2人は寄り添った。
○三菱財閥の発展
・大正5年(1916年)52歳の久弥は38歳の小弥太に社長を譲る。その後久弥は農牧事業に没頭したため、本社の経営に参画していない。元々久弥は経営を部下に任せており、訓辞は1度しか出していない。一方彼は副社長時代から何度も訓辞を出している。この点は初代・弥太郎に似ている。三菱の歴代社長は時代にマッチしている。混沌とした時代は弥太郎が社長で、海運王国を作った。藩閥政府の時は、温厚で協調的な弥之助が社長だった。産業革命/大戦景気の時代に、大人的気質の久弥が社長で大発展した。そして戦後不況/金融恐慌/昭和恐慌/統制経済を猛烈なリーダー小弥太が乗り切った。順番が違っていたら三菱の発展はなかった。
・彼が社長になり、悲劇が起こる。大正6年5月大阪北区の倉庫が大爆発し、犠牲者43名を出す。彼は大阪に駆け付け入院患者を見舞い、大阪市に見舞金100万円(約30億円)を差し出す。これにより穏便に片付く。事故が起きた時のトップの姿勢は重要だ(※詳細省略)。
・同年10月彼は造船部門/製鉄部門を分離し、三菱造船株式会社/三菱製鉄株式会社を創設する。さらに三菱銀行/三菱海上火災保険/三菱製紙/三菱商事/三菱電機/三菱信託銀行/三菱石油/三菱航空機/三菱地所などの分系会社を創設する。三菱合資会社(三菱本社)は分系会社の株式を独占する持株会社になり、三菱財閥が形成された。三菱は巨大化し、公共化する必要があった。
・(※三菱本社と分系会社の関係を説明しているが省略)これにより小弥太のリーダーシップは保たれ、金融恐慌・昭和恐慌を乗り切り、日中戦争・太平洋戦争で政府に協力し、事業を拡大させた。明治人には常に国家が頭にあった。三菱も「国利民福」を経営理念とした(※訓示が引用されているが省略)。彼の訓示は、バブルを経験した私達の教訓になる(※『岩崎小彌太傳』から多くの訓示を引用しているが省略)。彼は弥太郎と同様に一攫千金を嫌った。一方で将来国家に有用な事業(電機、航空機、化学工業など)には率先して投資した。
○三菱財閥の解体と小弥太の死
・昭和16年日本は米英と交戦状態に入る。米国は巨大なのに、政治家・軍人は本気で勝つつもりだった。三菱は国家に協力し、軍艦・戦闘機・武器弾薬を製造する。小弥太は政治に関心があったが、社長になってからは不関与を宣言している。世の中が真珠湾奇襲攻撃の成功に浮かれる中、彼は英米を友人とし、彼らの権益・資産を保護すべきと告示している(※詳細省略。欧米の実態を知っている人は、戦争に反対していたかな)。戦争中彼はウエスチングハウス電機のロイヤリティを積み立てたり、アソシエーテッド石油が保有する三菱石油の株式10万株を三菱信託に管理させた。
・昭和20年8月日本は無条件降伏する。日本は米国の単独統治下になり、マッカーサー元帥率いるGHQの指導で非軍事化・民主化が進められる。GHQは幣原内閣に財閥(三菱、三井、住友、安田)の自発的解体を迫る。同年10月小弥太は終戦連絡事務局総裁・児玉謙次と解体について話し合う(※フィクサーの児玉とは別人)。しかし彼は「三菱は戦争を挑発していないし、1.3万人の株主に信頼された会社である」として自発的解体を拒否する。三井・住友・安田は自発的解体を了承しており、今度は大蔵大臣・渋沢敬三が説得に訪れる(※渋沢栄一の孫)。彼は「国の命令であれば解体する」と応じる。
・ところが翌日彼は倒れ、東京帝国大学病院に担ぎ込まれる。彼は腹部大動脈瘤・下大静脈血栓症だった。政府は自発的解体を迫り、三菱は彼に事後承諾する事で、自発的解体を了承する。11月株主総会が開かれ、田中完三が社長になる。同時に解体が報告される。翌年9月解体される(※財閥解体は結構早く行われたんだ)。前年12月小弥太は大動脈瘤が破裂し、67歳で亡くなる。
○戦後の三菱の成長
・昭和22年7月GHQは三菱商事に即時解散/新規取引停止を命じ、当社は120社以上に分割される。昭和23年三菱重工業が3社に、昭和25年三菱鉱業は2社に、三菱化成工業は3社に分割される。また昭和23年三菱信託銀行/三菱銀行は社名から三菱が消える。ところが昭和20年代後半から、冷戦により日本を自由主義陣営に組み入れるため、GHQの政策が反転する。持株会社は復活されなかったが、三菱銀行を中核とする三菱グループが結集される。なお三菱財閥は本社の直轄会社を「分系会社」、本社が株式の過半を保有する会社を「関係会社」、分系会社が経営権を握る会社を「傍系会社」、岩崎家が経営する会社を「縁故会社」としていた。
・ここで三菱グループの幾つかを紹介する。まず「キリンビール」だ。ウイリアム・コープランドの醸造所が始まりで、明治屋が販売代理店をしていた。明治40年明治屋が後継のジャパン・ブルワリーを買収し、麒麟麦酒となる。これに久弥が協力している。ただし急成長するのは戦後で、昭和29年サッポロ/アサヒを抜き業界トップになる。今はバイオ/エンジニアリング/情報システムなどの多角化を行っている。
・「東京海上火災保険」も三菱財閥の関連企業だ。明治12年当社は弥太郎/渋沢栄一/大倉喜八郎などにより設立される。昭和19年三菱系の明治火災/三菱海上を吸収し、巨大な保険会社になる。
・「ニコン」も三菱財閥の関連企業だ。第1次世界大戦まで日本は軍事関係の光学機器をドイツなどから輸入していた。ところが第1次世界大戦でドイツが敵国になり、国産を迫られる。そこで大正6年ニコンの母体となる日本光学工業を設立する。当社は双眼鏡/潜望鏡/爆撃照準器/天体望遠鏡などを製造する。昭和22年初めてカメラ「ニコンⅠ型」を製造する。今は半導体などに取り組んでいる。
・「旭硝子」も三菱グループの企業だ。当社は弥之助の次男・俊弥が始めた会社で、三菱と無関係だった。大正5年日本で初めて板ガラスの工業化に成功する。太平洋戦争中に三菱の関連企業と合併し、三菱化成工業となる。戦後分割され旧名・旭硝子に復す。
・「日本郵船」の株式は、共同運輸の複数株主が過半を保有していた。ところがその結束が緩み、岩崎家が筆頭株主になる。さらに人材も三菱系が増え、三菱の近藤康平が長く社長を務め、三菱の関連企業になる。明治23年当社はボンベイ航路を開き、明治29年欧州/オーストラリア/北米の3大航路を開く。大正になりサンフランシスコ航路に豪華客船を就航させる。現在当社は世界最大の海運会社だ。弥太郎は「7つの海に航路を開き、世界に三菱の旗を翻す」と夢見た。それが三菱4代により実現した。