『武家の王 足利氏』谷口雄太(2021年)を読書。
室町時代の足利的秩序を解説。
足利氏は武力とイデオロギー(価値観)で将軍の立場を維持した。
室町時代は西国(京都)の室町将軍と東国(鎌倉)の関東公方が2軸だった。
反復的・冗長的な解説が多く、逆に後半は説明不足に思う。
歴史解説なので、難しい言葉が出てくる。
読むだけなら早く読めたが、系譜などを調べながら読んだので時間を要した。
お勧め度:☆☆(個人的には好み)
内容:☆☆
キーワード:<プロローグ>戦国期、足利氏/将軍、武家、共通利益/共通価値、秩序、<力・利益・価値>政治学/社会学、共通利益/共通価値、<将軍と大名>共通利益、対内問題/対外問題、共通価値、足利的秩序、<上からの努力>戦争/イデオロギー工作、<下からの支持>応永の乱、上杉禅秀の乱、永享の乱、嘉吉の乱、応仁の乱、小山氏・結城氏、<権威>儀礼、徳川家/ブルボン家/金家、<足利一門>新田流、太平記、源為義流/吉見氏、<足利一門か>御紋衆・御相伴衆・御伴衆、貢馬儀礼、右大将拝賀、天龍寺供養・相国寺供養、謹上書、<足利一門化>恩賞、側近/入名字、主張/源頼朝・足利尊氏、<価値低下>下剋上、<上からの改革>守護/御相伴衆・御供衆/管領/探題、<エピローグ>足利時代、皇国史観、血統・権威
プロローグ なぜ足利氏は続いたか
○今足利氏が熱い
・本書は戦国期に足利氏が存続・滅亡した事情を探る。今足利氏が熱く、呉座勇一『応仁の乱』/亀田俊和『観応の擾乱』などが大ヒットしている。戦前は「足利氏=逆賊」であり、戦後は「室町幕府=守護大名の連合政権」「戦国将軍=無力」だった。しかし今は中世史学の先達により、足利氏の存在感が解明されてきた。
※本書に戦国期を何時からにするかは書かれていない。一般的に「応仁の乱」が始まった1467年とされる。
○無力ではなかった
・戦国期でイメージされるのが戦国大名(※以下大名)で、小説/ドラマ/漫画に頻出する。彼らは「地域国家」(武蔵国・相模国など)を支配した。彼らを研究するのが王道だったが、「地域研究から日本研究」の流れから、将軍(足利氏)が研究される様になった。無力と言われた将軍が、なぜ100年も存続したのか。山田康弘などによる研究で、その実態が解明されつつある。
○有力でもなかった
・足利氏が「無力でなかった」事は明らかだ。しかし「有力でもなかった」。戦国期は室町期と異なり、足利氏が軍事力で諸国の武家を従わせる時代ではない。大名は将軍の言う事を聞く必要はなかった(※分国法などで説明している)。三好長慶/織田信長は将軍を打倒している。しかし戦国期の足利氏を力の有無で説明するのは難しい。足利氏が存続したのは、武家が足利氏を必要・不可欠と考えていたからだ。
・従って「なぜ足利氏は続いたのか」の問いは、「なぜ大名は足利氏を認めたのか」の問いに替わる。そのため足利氏(将軍)からではなく、武家(大名)から探る必要がある。
○力の有無を超えて
・この問いの答えは2つある。1つは「共通利益」、もう1つは「共通価値」だ。前者(共通利益論)は、将軍に人的・物的基盤(メリット)があり、大名は功利的・合理的に将軍を活用したとする。後者(共通価値論)は、武家は価値観「足利氏は武家の王」を共有し、足利氏を滅ぼすなど考えていなかったとする(※上杉謙信などがその意識が強いかな)。
・この辺りは政治学・社会学とも関連する。そこでまず「秩序の3要素」(力、利益、価値)について説明する。次に時間的・空間的な個別ケースを説明する。共通利益に注目するのが山田で、『戦国時代の足利将軍』を上梓している。そして共通価値に注目するのが私だ。従って本書は、「足利氏は武家の王」とする秩序(足利的秩序)の成立・維持・崩壊に焦点を当てる。
第Ⅰ部 共通利益と共通価値
第1章 力の体系/利益の体系/価値の体系
○国家成立の3要素
・大名は地域を力で支配した。そして足利氏を「武家の王」と認め続けた。そのため国家は分裂せず、「日本の統治」は維持された。結論から言うと、これは政治学・社会学の基本である国家成立の3要素(力、利益、価値)で説明できる。
○政治学では
・国際政治学者・高坂正尭は『国際政治』で、「国家は、力の体系、利益の体系、価値の体系」とし、「国家はこれらに腑分けできる」とした。「力」は軍事力で、強制力となる。しかしこれによる抑圧・搾取だけだと、国家は安定しない。そのため支配者と被支配者間に、利害・損得の分配・保障が必要になる(利益)。この功利的・合理的な合意により、国家は強化される。さらに安定に必要なのが「価値」とした。彼は特に価値を強調しており、「社会が混乱しないのは、共通の行動様式/価値体系があるからだ。また制度もこれに支えられている」(※概略)とした。彼は行動様式/価値体系を「常識」とも言い換える。
○社会学でも
・社会学でも秩序の維持が問われており、「権力による秩序」「利害による秩序」「共有価値による秩序」としている。これは政治学の結論と一致する。「共有価値による秩序」について補足する。提唱したのは社会学者タルコット・パーソンズで、「共通の価値・規範が制度化され、内面化される事で、秩序が安定する」(社会システム論)とした。これは功利主義・合理主義の自律的個人=強い人間像(利害による秩序)への批判から生まれた。従って「共有価値による秩序」は弱い人間像の説明かもしれない(※解説が続くが省略)。
○戦国期の場合
・以上より、国家の3要素は力・利益・価値と言える。足利氏は「力」は明らかに欠けていた。従って「利益」「価値」に依存した事になる。
・ここで政治学(国際関係論)を参照する。国際政治では、力で世界を支配する超大国/世界政府は存在しない。国家は自由に行動するが、世界・国際連合が崩壊する事はない。それは利益・価値の存在があるからだ。これを国際政治学者ヘドリー・ブル/細谷雄一が「共通利益」「共通価値」から説明している(※詳細省略)。東アジア・太平洋地域を見ると、日中関係は戦略的互恵関係(共通利益)に頼るだけで不安定である。一方日米関係は共通利益に加え、自由・民主主義/基本的人権/法の支配の共通価値に頼り、安定している。いずれにしても戦国期での共通利益/共通価値が注目される。
第2章 戦国期の将軍と大名
○共通利益論
・まずは「共通利益」から見る。これは山田康弘が推す理論だ。彼は『戦国時代の足利将軍』(2011年)で「足利将軍は無力だったが、なぜ戦国期に100年存続したのか」と問題設定している。そして答えを「大名は様々な問題を抱えており、特に対外的な問題の対処に将軍を利用した」「多くの大名は将軍との関係を捨て切れず、将軍を支えた。そして一定の範囲内で上意を受け入れた」としている。
・そこで具体的な将軍の利用価値は何だったのか。大きく分けると、「他大名との外交における対外問題」「家中・領域内の対内問題」に分けられる。そして「特に対外問題で利用された」としている。
○対内問題
・彼は対内問題で、「①権力の二分化を防ぐ」「②家中対立の処理」「③幕府法の助言を得る」を挙げている。①として、豊後国・大友氏が将軍の側近に「側近から将軍に連絡があっても無視して欲しい」と伝えている。大名は被官が将軍と直結し、権力が二分化するのを警戒した。大名は将軍と良好な関係を保ち、被官を統制した。※織田家など守護代の台頭は多かった気がする。三好長慶/陶晴賢もこれに含まれるかな。
・②家中対立に若狭国・武田氏の例がある。同国の丹生浦と竹浪村で漁業権の問題があった。丹生浦に内藤氏、竹浪村に粟屋氏が味方した。これについて幕府から意見をもらい、最終判決に幕府のお墨付きを付けた。※室町時代は境界争いが多かったらしい。
・③幕府法の助言に摂津国の例がある。住吉の浄土寺と堺の桑原道隆入道の間で金銭問題が起きた。大名・細川氏にはこれを裁く専門家がいないため、幕府に相談し、幕府法の専門家から助言を得た(※守護は司法権を持っていたが、幕府の権威に頼ったかな)。また同国の本願寺は犯罪者を死罪にするか流罪にするか判断できず、幕府から助言を得ている。
○対外問題
・彼は対内問題の処理に将軍(幕府)が必要だったとしたが、それ以上に対外問題で必要だったとした。彼は以下の対外問題を挙げている。「①栄転の獲得」「②情報入手」「③敵の封じ込め」「④交渉の契機」「⑤他大名との連携の契機」「⑥合力を得る」「⑦敵への牽制」「⑧正統化・正当化の根拠」「⑨ライバルを御敵にする」「⑩面子を救い、ショックを吸収する(※説明が欲しい)」「⑪非難の回避」「⑫日明貿易の独占」。※「御」が付く単語があるが、室町幕府は江戸幕府の基礎かな。
・戦国期は平時(非戦時)でも周辺勢力との関係が重要で、相手より高い栄典(高い家格)が重要だった(①)。戦時になると、将軍の情報網を利用し情報を得て、相手の謀略を抑え込んだ(②③)。将軍の人脈を活用し、第3勢力との連携を模索した(④⑤)。時には将軍から命令を下達してもらい、相手を封殺した(⑥⑦)。「自分は将軍から支持され、相手は将軍と敵対している」と宣伝した(⑧⑨)。終戦のため将軍から命令を下達してもらい、双方のプライド・メンツを保ったり、周辺・内部からの批判・不満を抑えた(⑩⑪)。日明貿易で利益を得た(⑫、※大内氏かな)。
・この様に将軍を利用すると様々なメリットがあった。そのため彼は「戦国期は分裂状態とされるが、各大名は対外問題などの処理のため、将軍を共用した」、「遠距離にある大名同士でも、将軍を通し、関連した」(※この必要性は?信長を打倒するために連携した話はあるが)とした。将軍は国連みたいな存在だった。各国に分裂した「幾つもの日本」でありながら、「共通利益」で統合される「一つの日本」で、その核が将軍だった。
○共通価値論
・次に私が主張する「共通価値」から見る。山田もこれに言及している。彼は「対内問題(領国支配)/対外問題(他大名との外交)、特に対外問題で将軍は利益をもたらした。しかしこれだけが将軍存続の要因ではない。谷口(著者)が価値観に注目しているが、これも考慮する必要がある」とした。そこで以下に共通価値から、将軍の存在を見る。
○足利的秩序
・戦国期における将軍と大名の共通価値は何か。それは足利氏は武家の最高貴種で、「武家の王」と云う思想だ。これは室町期に確立し、戦国期でも維持された。空間的には京都(西国)だけでなく、東国・奥羽・九州でも見られた。私達はこれを「足利的秩序」と呼んでいる。
・ここで西国・東国について触れる。中世後期(南北朝~戦国)は京都(将軍)を中心とする西国と、鎌倉(関東公方)を中心とする東国に分かれ、足利氏が全国を統治した。将軍は足利尊氏の三男・義詮の流れで、関東公方は四男・基氏の流れだ。奥羽・九州は将軍の影響力が及んだが、東国の鎌倉は関東公方の影響力が強く、関東公方の存在も軽視してはいけない。
・この足利的秩序は平時は可視化されていないが、例外状態(戦時)になると可視化される。1399年(※大半が和暦だが、西暦に変換)大内義弘が3代将軍・足利義満を攻撃し、義弘は3代関東公方・満兼を擁立する(応永の乱)。従って義満の更迭が目的で、足利的秩序への反逆ではない。1416年上杉禅秀が4代関東公方・持氏の追放を宣言し、関東公方に足利満隆/足利持仲を擁立している(上杉禅秀の乱)。1441年赤松満祐が6代将軍・足利義教を暗殺するが、新将軍として足利義尊を擁立している(嘉吉の乱)。
・1467年「応仁の乱」が始まり、東西両軍が別の将軍を擁立して戦う。乱が集結すると、1493年細川政元は10代将軍・足利義稙を更迭し、11代将軍・足利義澄を擁立する(明応の政変)。1508年大内義興は将軍・足利義澄を追放し、義稙を将軍に復帰させる。1568年織田信長も15代将軍・足利義昭を擁立し上洛している(※最終的に、この価値観を断ち切ったのが彼だが)。他にも事例があり、足利氏の天下は自明だった。問題はその将軍を誰が支えるかだった。
・これは東国も然りで、上杉氏/北条氏/武田氏などが自ら関東公方を擁立している(※そのため〇〇公方が幾つかある)。大名が擁立した足利氏には子供/僧侶がいて、政治的・軍事的能力は求めていない(※将軍の兄弟などに領国を与えると、それこそ将軍家事自体が分裂するので出家させた)。この様に足利氏を頂点とする思想・秩序(足利的秩序)が自明で、武家は足利氏を「武家の王」とする価値観を共有していた。
○権威
・これを権威と表現する事は一般的だが、山田は「権威として片付けると、思考が停止する」と批判している。私はこれを「共通価値」として解明に挑んだ。将軍以外の足利一門(※第6章で解説。足利氏に細川氏/斯波氏/畠山氏/吉良氏/今川氏などを含める)を探り、その貴種性を強く認識した。権威は強制・説得とは異なり、非支配者も自発的に同意・共有している。権威とは支配者・非支配者の双方が共有するもので、これを証明するには大名・武家の認識を探る必要があった。
○共通点と相違点
・戦国期に足利氏が続いた理由を、「共通利益」(山田)と「共通価値」(私)から説明した。しかし両者の差異は小さい。例えば前者は将軍、後者は足利氏に注目している。前者は将軍嫡流で、後者は将軍庶流・関東公方・足利一門が含まれる。前者は将軍擁立後で、後者は将軍擁立時に関する。前者は硬い話で、後者は軟らかい話になる。前者は「国連と協調するイメージ」だが、後者は「皇帝と共存する国王のイメージ」になる(※神聖ローマ帝国に触れているが省略)。この両者は相互補完の関係で、共在していた。
・纏めると、戦国期は分裂していたが「一つの日本」の中心に将軍・足利氏がいて、その求心力が「利益」「価値」だった。次章から戦国期の「共通価値」(足利的秩序)の成立・崩壊の経緯を見る。将軍以外に天皇もいたが、将軍は消滅し、天皇は残った。これはなぜなのか。また足利的秩序は中世前期(鎌倉)にはなく、中世後期(南北朝~戦国)に成立し、崩壊した。足利一門を非足利一門が支える秩序の成立・崩壊を見る。
第Ⅱ部 足利絶対観
第3章 上からの努力
○足利絶対観の濫觴
・中世後期(南北朝~戦国)に足利一門を上位とし、非足利一門がそれを支える足利的秩序が存続した。この「共通価値」は、中世前期(鎌倉)/近世(江戸)にはない。これはどんな経緯で創出され、受容されたのか。結論は、①創出は14世紀末で3代将軍・足利義満の頃、②足利絶対観により、足利一門も儀礼的・社会的に上位になった。③これは足利氏の暴力(ハード)とイデオロギー(ソフト)における努力による。
○相対的な尊貴性
・まずは足利氏が「武家の王」となった経緯を見る。鎌倉期、将軍は源氏将軍/尼将軍/摂家将軍/親王将軍と10人続いた(※全て名前を挙げているが省略)。この時期、足利氏は将軍を支える一御家人だった。ただ家格は高く、所領も多く、北条氏に次ぐ存在だった。『北条貞時十三年忌供養記』には、北条氏/足利氏/安達氏(※藤原北家魚名流・山蔭流)/摂津氏(※中原氏)/長井氏(※中原氏)に殿が付けられている(※中原氏からは他に毛利氏・大友氏が分派する)。鎌倉期での足利氏の尊貴性は相対的だった。
・1338年足利尊氏が将軍になるが、それ以前に「将軍家」とされる。ただし絶対的ではなく、結城氏(※藤原北家魚名流・秀郷流)は足利氏と対等と意識していた。※余り関係ないが藤原秀郷からは無数の氏族が出ている。
○絶対的な貴種性 ※尊貴性と貴種性があるが、違いはあるのか。
・そのため「室町将軍=足利氏」は絶対でなく、「室町将軍=他氏」となっても問題なかった。そのため足利氏は「対抗可能」を「武家の王」に変える必要があり、暴力で圧倒し、足利氏に対抗できないと思わせる必要があった。前者が戦争(ハード)、後者がイデオロギー工作(ソフト)で、足利氏はこれを遂行した。
・戦争は初代将軍・足利尊氏/2代将軍・足利義詮や鎌倉府の初代関東公方・足利基氏は頻発する反乱を鎮圧した。イデオロギー工作は知られていないが、源氏の嫡流を足利氏とする「源氏嫡流工作」がある(※『難太平記』を引用しているが省略)。また源頼朝と尊氏を重ね合わせる話などが、『太平記』『梅松論』『明徳記』などに見られる。贈位・贈官の足利氏への集中も指摘されている。
○武家・大名から見る必要性
・佐藤進一は「当時将軍たりえる豪族は複数いた。足利氏が将軍となったのは、実力と北朝の承認による。しかし南北朝対立の状況では北朝の承認は相対的価値しかない。そのため足利的秩序を形成するため、暴力/イデオロギー工作を行い、足利氏の別格化に努めた」としている。
・この努力が大名・武家に浸透したか確認したい。ここで着目するのが、彼らが足利氏に挑む際、別の足利氏を擁立するかだ。「足利vs他氏」となるか「足利vs足利」となるかだ。結論から言えば、14世紀末に転換している。
第4章 下からの支持 ※本章は確認を取りながら読んだので、随分時間を要した。
○14世紀末以前
・14世紀末以前、武家は別の足利氏を擁立せず、剝き出しで挑んだ。「観応の擾乱」(1350~52年)頃、九州で河尻幸俊/少弐頼尚らが足利直冬(尊氏の子)を擁立し、尊氏勢力(九州探題・一色道猷)/南朝勢力(征西将軍・足利懐良親王)と戦う(※これは擁立している)。1360年京都で仁木義長と細川清氏/畠山国清が戦う。共に2代将軍・足利義詮を支持するが、義長の下から義詮が去り、勝敗が決する。これらには足利氏の存在感が伺われるが、一般的でなかった。
・『太平記』によると、翌年清氏が義詮を呪詛し、国清は鎌倉で挙兵するとの噂から両者が失脚する。『太平記』を批判する『難太平記』によれば、この噂は事実ではない。しかし『太平記』に危うい足利氏の姿が描かれているのが重要だ。同時期、東国で芳賀禅可/河越直重/宇都宮氏綱が足利氏・南朝を奉じず、足利氏に対抗している。
・特に足利氏にへりくだらなかったのが足利一門の山名氏清だ(※山名氏は新田流だが足利一門かな)。1392年(明徳2年12月)彼は3代将軍・足利義満に対抗する(明徳の乱)。『明徳記』には「山名が天下をとっても問題ない」と記している。同時期、東国で小山義政も足利氏・南朝を奉じず、足利氏に対抗している。14世紀末以前は「足利vs他氏」が一般的だった。足利氏を倒せば、誰でも「武家の王」になれた。
○14世紀末-足利満兼と大内義弘
・ところが14世紀末になると、足利氏が武家の頂点になり、「足利vs足利」が普遍的になる。1399年西国の大内義弘が将軍・足利義満に対抗するが、彼は3代関東公方・足利満兼を擁立する(応永の乱)。彼は堺に上陸し、2つの文書を興福寺に送る。①「足利満兼御判御教書 私(満兼)は暴乱(義満)を討ち、国を鎮め、民を安らかにする」、②「大内義弘副状 鎌倉御所(満兼)が京都に新発される。忠義を尽くして欲しい。御請文(①の受領・了承)を提出して欲しい」(※概略)。①は満兼の上意で、②はその副状だ。彼は副状を発給し補佐役になり、挙兵した。彼は足利の天下を変えようとしたのではない(※反乱に加担した今川了俊の同様の主張は省略)。満兼も「義満は問題が多く、このままでは他氏に天下を奪われるので挙兵した」と主張している。
・義弘は敗死し、満兼も戦いを中止する。①御判御教書に「暴乱を討つ」とあり、これは易姓革命だが、同一血統なので、姓が易わる革命ではない。なお最近の研究で、義弘は国元では足利義氏(足利直冬の末裔)を擁立している。
○14世紀末以降-足利満隆と上杉禅秀
・この様に足利氏に対する反乱は、別の足利氏を奉じる「足利vs足利」に変わる。1416年東国で前関東管領・犬懸上杉禅秀が4代関東公方・足利持氏らを襲撃し、鎌倉を制圧する(上杉禅秀の乱)。この時彼は足利満隆(足利持氏の叔父)を関東公方に擁立し、自身は補佐役・副状発給者となった。彼は敗死するが、この乱も大内義弘と同じロジックだ。
○大覚寺義昭と山名持熙
・1437年以降、大覚寺義昭(6代将軍・足利義教の弟)が反乱を続ける(※将軍職を巡る兄弟争い)。最初に彼を支えたのが山名持熙(山名宗全の兄)で、持熙は義昭を擁立し、備後国で挙兵するが、直ぐに鎮圧される。次に彼を支えたのが一色某/佐々木某だ。彼は南九州に逃れるが、「義教の政道は非道で、足利家を永続させるのは4代将軍・足利義持の猶子である自分」と主張した。
・結局彼は島津忠国に攻められ自害するが着目すべき点がある。1つは介錯した人物も自害しようとした。もう1つは義教が室町殿で実検したが、通常は将軍が門内から門外に置かれた首を実検するが、この時は義教が門外に出て門内に置かれた首を実検した。これらは足利氏の貴種性が都鄙(中央と地方)に存在した証だ。
○足利持氏遺児と岩松持国
・1440年以降、東国で岩松持国が4代関東公方・足利持氏の遺児(安王丸、春王丸、万寿王丸)を擁立し、補佐役・副状発給者になる。前年「永享の乱」(6代将軍・足利義教/関東管領・上杉憲実と持氏の戦争)で持氏が自害したが、持国などが引き続き将軍/関東管領に対抗した。安王丸/春王丸は処刑されるが、万寿王丸は後に5代関東公方・足利成氏になる。この構図も「足利vs足利」だ。
○足利義尊と赤松満祐
・1441年赤松満祐が6代将軍・足利義教を殺害する(嘉吉の乱)。彼は新たな将軍として足利義尊(足利直冬の孫)を擁立し、補佐役になる。この時幕府側は足利氏が擁立されるのを防ぐため、在京の足利氏の禅僧を保護したり、備中で禅僧になっていた足利義将(義尊の弟)を殺害している。
・この様に14世紀末以降は足利氏に対する反乱で別の足利氏を擁立するのが一般化する。そして擁立された足利氏は遺児・禅僧で、政治的・軍事的能力を求めておらず、血統が目的だった。足利氏は「武家の王」になり、武家の頂点が足利氏で、他氏はそれを支える秩序になり、それが武家の価値観になった。
○戦国期
・この「共通価値」が真価を発揮するのは、それからになる。「応仁の乱」(1467~77年)は東西に分かれ戦うが、それぞれが足利氏を擁立した。1493年細川政元が10代将軍・足利義稙を11代将軍・足利義澄に交替させる(明応の政変)。16世紀に入り大内義興が追放された義稙を擁立し、副状発給者になる。堺に上陸し、義澄を掃討し、義稙を将軍に復帰させる(※将軍の復帰は珍しいのでは)。1568年織田信長も15代将軍・足利義昭を擁立・補佐し、上洛している。
・東国でも同様で、上杉氏・北条氏・佐竹氏・里見氏などが関東公方とは別の足利氏を擁立し、自身は関東管領的な立場になり鎌倉を目指している。例えば武田信玄も関東公方・足利藤政(※古河公方・足利晴氏の子)を擁立し、北条氏康・氏政と戦っている。一方の北条氏康も足利義氏(※同じく古河公方・足利晴氏の子)を擁立し、自身を関東管領としている。
・武田氏の祖先は源義光で、その兄・源義家から足利氏が分派している。そのため武田氏は足利氏を支える認識を持っており、武田信玄は足利義昭を補佐する意識があった。上杉氏・北条氏・里見氏は関東管領/副将軍などの役職を語り、足利氏を支えた。この関東のシステムは「公方-管領体制」と呼ばれる。
※上杉氏は藤原北家勧修寺流。北条氏は伊勢平氏との説。新田氏の祖・新田義重と足利氏の祖・足利義康は兄弟(源義家の孫、源義国の子)で、義重の子に山名氏の祖・山名義範と里見氏の祖・里見義俊がいる。この頃中央で保元の乱・平治の乱があり、関東でも武家の勢力が増したかな。
・戦国期、足利氏は「権力」を後退させた。それは大名が下国・在国し、将軍の言う事に従わなくなったからだ。しかし「権威」は維持し続けた。支配は暴力とイデオロギーによるが、足利氏は後者を維持し、共通価値としていた。
○小山・結城一族からの定点観測
・14世紀末足利氏が頂点(武家の王)になり、「足利vs足利」が戦いの構図になる。この経緯を1つの小山・結城一族で確認する。まず14世紀末以前の鎌倉期、初代・結城朝光は足利義氏と同等と主張している。
※小山・結城氏は藤原北家魚名流・秀郷流。小山氏の祖は小山政光で、その子朝光が結城氏の祖。また朝光の母(政光の妻)は源頼朝の乳母で、朝光と頼朝は兄弟に近い。また小山氏と結城氏は相互に養子を受け入れている。
・南北朝期、結城宗広は「足利をすべからず(すべきではない)」と述べている。そして14世紀後半(1382年)小山義政は別の足利氏を擁立せず2代関東公方・足利氏満と戦い敗死する。同じ頃、結城直光は「足利氏だけが首頂」「国は日本、人は源姓(足利氏)一流に限る」としている。
・永享(1429~41年)頃、結城氏は「源頼朝の末裔」と名乗る。結城氏は藤原秀郷の末裔である事を捨て源氏と名乗り、足利氏の一族として扱われ様とした。永享12年(1440年)結城氏朝は4代関東公方・足利持氏の遺児・安王丸を擁立し、幕府と戦う(結城合戦)。戦国期、小山高朝は関東公方・足利高基(3代古河公方)・晴氏(4代古河公方)父子を「関東の将軍」と呼んでいる。結城氏広・小山成長も関東公方・足利成氏(初代古河公方)・政氏(2代古河公方)父子への忠誠を語っている(※何で時系列を逆転させたのか)。この極北が結城晴朝で、1607年「結城家はこれまで17代、不忠者はいない。私も関東公方・足利義氏(5代古河公方)を補佐した」と回顧している。
・この様に14世紀末が「対抗可能な足利氏」と「足利氏は武家の王」の境になっている。
第5章 権威のメカニズム
○イデオロギーによる支配
・足利氏が「武家の王」となった背景を見てみる。佐藤進一は「当時将軍たりえる豪族は複数いた。足利氏が将軍となったのは実力と北朝の承認による。しかし南北朝対立の状況では北朝の承認は相対的な価値しかない。そのため源氏嫡流工作などの足利氏からの努力が必要だった」とした。「その画期が、なぜ14世紀末だったのか」についても彼は「義満の時代、故事/家格制度が作られた。この将軍側で行われた将軍家絶対観の確立の努力があった」(※要約)とし、「儀礼」の整備に着目している。
・この儀礼は、将軍との挨拶の「対面儀礼」、道で会った時の「路頭礼」、手紙に関する「書札礼」(しょさつれい)、年中行事・参詣行列などの総体で、武家の位置・距離が家格に応じて決められた(※江戸時代で、さらに詳細化したかな)。この儀礼により、将軍と大名の関係が確認され、序列が可視化された。14世紀末頃、室町幕府/鎌倉府の双方で儀礼制度/身分階層的秩序が整備された。つまり暴力による圧倒と工作・儀礼などによるイデオロギーにより足利氏は「武家の王」となった。儀礼が反復される事で、イデオロギーが内面化され、それが「共通価値」になった。
○近世・徳川家
・これは別の時代・地域でも通じる。徳川家は武力で圧倒するが、権威確立のため儀礼を整備した。大名は江戸城に登城し、着座するまで、身分に応じた「位置」を守った。将軍に何度も平伏し、その権威を心に刻んだ。幕臣だった福地源一郎が『幕府衰亡論』で、これを回顧している。
○近世・ブルボン家
・フランスのブルボン家でも儀礼を繰り返す事で、ブルボン家の権威を確立させた。王の近くに行けるのは誰か。王との距離で他者を蔑む心理構造「侮蔑の滝」が生じ、このゲームから抜け出せなくなる(※何か話が逸れた)。これには、①ヴェルサイユでの宮廷社会(儀礼体制の中核)、②公開の場における国家儀礼(王の葬儀、成聖式、入市式、親裁座(最高司法機関)、治癒儀礼、感謝式テ・デウム、修道行列、行幸、祝祭)、③政治文化における儀礼(彫像、メダル、図像)がある。最初の一撃は暴力だったとしても、儀礼が繰り返される事で、「彼は王で、自分は臣下」と認識する様になる。※ルイ14世の言葉を引用しているが省略。
○現代・北朝鮮
・北朝鮮研究は実証性・客観性の壁がある。しかし金日成・正日父子は、他派閥の排除とイデオロギー/歴史解釈の独占により「権威」を確立した。日成から正日への継承時は「実力」を唱えた。しかし金正恩への継承時は「血統」を掲げている。金正恩に対抗する「自由朝鮮」なる組織は、金正男に首班を打診していた(※詳細省略)。いずれにしても金家が頂点な事に違いはない。
○暴力とイデオロギー
・哲学者ルイ・アルチュセールは国家統治には「抑圧装置」(軍隊、警察など)と「イデオロギー装置」(メディア、学校など)が必要とした。そして「前者は物理的な暴力で、後者は優越的な仕方による抑圧で(※内面への浸透のためかな)、両者は混同されない」とした。
・以上から、支配者は暴力により権力を樹立し、工作・儀礼などでイデオロギーを浸透させ権力を確立する両作業が必要になる。足利氏も南北朝期に両者を駆動させ、室町期に加速・安定化させた。戦国期に前者を失うが、後者の儀礼・慣習(一字偏諱・屋形号・官位の授与、毛氈鞍覆・白傘袋・塗輿の免許、座次・対面・路頭・書礼の作法)を存続させ、権威を保った(※領国が多ければ、権力も保てたかな。織田信長が明智光秀を重宝したのは、将軍とのパイプのためかな)。室町期、足利氏が絶対化され、これに伴い足利一門も権威化される。
第Ⅲ部 確立する足利的秩序
第6章 足利一門の基礎知識
○足利一門とは
・足利氏が絶対化され、「足利一門」も権威化する。そこで足利一門が何かを確認する(※系図が4ページに亘ってある)。①吉良氏、②上杉氏、③山名氏、④新田氏、⑤吉見氏。この中で、どれが足利一門か。一般的には①②が足利一門と言われている。中世はどうだったのか、『公武大体略記』『大館記』は足利一門を、畠山・桃井・吉良・今川・斯波・石橋・渋川・石塔・一色・上野・小俣・加子・新田・山名・里見・仁木・細川・大館・大島・大井田・竹林・牛沢・鳥山・堀口・一井・得川・世良田・江田・荒川・田中・戸賀崎・岩松・吉見(※全33氏)としている(※大館氏は大舘氏と表記される事もある)。『見聞諸家紋』は家紋が「二引両」の姓を、吉良・渋川・・桃井・吉見(※全15氏)としている。『三議一統大双紙』は足利一門を、新田・仁木・・加子・小俣(※全20氏)としている。つまり①③④⑤が足利一門と認識されていた。中世は畠山・桃井・・吉見・明石(※全34氏)が足利一門だった。
※源義国(源義家の三男)の長男・義重が初代新田氏で、その子から山名・里見・得川などが分派。義国の二男・義康が初代足利氏で、その子・義清の子孫から仁木・細川などが分派。2代足利義兼の子から、畠山・岩松・桃井などが分派。3代足利義氏の子から、吉良・今川などが分派。4代足利泰氏の子から、斯波・石橋・渋川・石塔・一色・上野・小俣などが分派。
○新田流
・我々は新田氏・山名氏は足利一門でないと考えるため、上記リストに「新田氏の庶流」(新田義重の流れ)が含まれている事に驚く(※新田氏の祖・新田義重の子が、山名氏の祖・山名義範)。これは「ある時期に新田氏を足利一門に含めたのでは」と考えるが、これはハードルが高い。大内義弘(※大内氏は百済の王子の末裔)は抜群の功績があり、3代将軍・足利義満は足利一門に含めようとしたが、その後義弘が反乱し、以降足利一門として確認できない。※反乱しなかったら、どうだったのか。
・山名氏の場合はどうか。山名氏も義弘と同様に反乱するが、足利一門として扱われ続ける。※この「明徳の乱」で山名氏は分裂し、義満に味方した者と反乱した者がいる。結果山名氏は没落する。
・大内氏は抜群の功績があったのに足利一門から外された。一方山名氏は足利一門を維持できた。つまり実力で足利一門となった場合、その維持は非常に難しかった。中世は身分制度社会で、出自・血統が決定的で、「新田氏が足利一門化した」などの話ではない(※最初から足利一門だった)。
・上記リストに新田流の里見・大館・大島・大井田・竹林・牛沢・鳥山・堀口・一井・得川・世良田・江田などが含まれており、圧倒的な忠誠で恩賞を受けた(足利一門化した)事になる。ところが彼らの多くは南朝で活躍している。もし恩賞で足利一門になれるなら、土岐氏・佐々木氏・赤松氏も足利一門化していたはずだ。
○新田氏
・新田氏が足利一門だった事は『神皇正統記』『増鏡』『保暦間気』からも分かる。新田氏と共に南朝に属した北畠親房もそう認識していた。新田義貞は足利氏に反逆を続けたが、足利一門だった。つまり新田氏は「足利氏の庶流」だった。鎌倉期に新田流が足利氏に従属し、足利一門化した訳でもない(※詳細省略)。新田氏が足利氏と結婚したため、足利一門化した訳でもない(※詳細省略)。
※源義国の長男・次男が新田氏・足利氏の祖なので、「足利一門」とするのは不自然。室町幕府の成立により御一家・御紋などの言葉が作られ、後世それを足利一門と言い換えたのでは。
○太平記史観
・新田氏は足利一門化した訳ではなく、最初から足利一門だった。新田氏が足利一門から外されたのは、思考様式による。足利氏から最初に仁木氏・細川氏が分派し、次に畠山氏・桃井氏が分派した。しかし新田氏はその前に分派しており、非足利一門と思っている。これは『太平記』が由来で、「源氏嫡流」の新田氏と足利氏を対抗・並置させるフィクションによる。『太平記』以外は新田流を足利一門としている。ところが『太平記』の存在感が圧倒的なため、歴史学は『太平記』的な思考様式(太平記史観)に引き摺られた(※詳細省略)。※名前が悪いのかな。新田・足利一門なら誤解は生じない。
・しかし今は太平記史観に引き摺られる時ではない。新田義貞は足利尊氏のライバルではなく足利一門だった。彼は関東を治め、嫡流の尊氏に挑戦状を叩きつけた。彼は北国から東国にかけての地方政府を目指し、実力主義・下剋上・地域構想などで南北朝期を象徴する人物だ。彼を見くびっては不誠実だ(※歴史は勝者が作る)。
・新田氏・新田流は最初から足利一門だった。『見聞諸家紋』にある様に、新田氏の家紋も「二引両」だ。『太平記』は新田氏の旗が「大中黒」(一引両)だったと強調する。しかし戦国期の『関東幕注文』は、彼らの家紋を「二引両」としている。そのため南北朝期の「大中黒」は、交戦時の混乱を避けるための一時的な措置だったと考えられる。
○吉見氏
・先のリストに足利流でも新田流でもない吉見氏がいる。学界では非足利一門としているが、中世は足利一門として扱われていた。1366年吉見頼氏は石清水八幡宮を訪れ、「武家御使(吉見頼氏) 御一族(足利一門)たり」と記している。系図だと源義家三男・源義国流が足利一門だが、吉見氏は義家五男(※異説あり)・源為義流だ(※源為義流の系図あり。源頼朝がいるし、この源為義流が源氏嫡流と思っていた)。この源為義流は全てが足利一門ではない。源為義-義朝流の吉見氏は足利一門だが、源為義-行家流の新宮氏は足利一門でない。源為義-義朝流でも阿野氏・愛智氏は足利一門でない。なお源義家長男・源義宗流/源義家四男・源義忠流は「子孫なし」「相続なし」で滅亡している。阿野氏・愛智氏も同様に断絶している。
※源頼朝の弟3人(源範頼、源全成、源義円)から、それぞれ吉見氏・阿野氏・愛智氏が分派している。これは知らなかった。
・すなわち足利一門は本来は源義国流だったが、中世後期(南北朝~戦国)に源為義-義朝流が含められた。それは彼らが、源頼朝の兄弟が祖先で貴種とされたからだ(源範頼-吉見氏、全成-阿野氏、義円-愛智氏)。足利尊氏は自身を頼朝の後継者とし、頼朝の兄弟の子孫を同族化した。
○改めて足利一門とは
・上杉氏は足利一門、山名氏・新田氏・吉見氏は非足利一門とされてきた。しかしこれらは逆で、上杉氏は非足利一門、山名氏・新田氏・吉見氏は足利一門だ。本来は新田流を含む「源義国流」が足利一門で、南北朝期に「源為義-義朝流」(源頼朝の兄弟)が加えられた。新田流が非足利一門とされたのは、フィクション『太平記』による。今は『太平記』以外の史料から新田流は足利一門で、新田氏らに対する歪んだ認識を改めなくてはいけない。
第7章 足利一門か否か
○室町幕府
・足利氏が絶対化され、「足利一門」も権威化された。これにより足利一門か否かで、身分・格式が大きく分かれた。まず室町幕府の中枢を見る。戦時に「武家御旗」を授与されるのは、足利一門に限られた。御紋衆(足利一門)と平侍(非足利一門)は区別された。幕府有力者の序列は、現管領→管領家(足利一門)→足利一門大名→非足利一門大名だった(※京都管領は単に管領とする)。御一家(足利一門)の場合は「殿」を付けるが、赤松・土岐・佐々木・大内・上杉などの非足利一門は付けないとされた。
・「御相伴衆」(※殿中で将軍の供をする)には序列があり、足利一門では山名氏・一色氏・細川氏・畠山氏など、非足利一門では赤松氏・佐々木氏などが挙げられる。「御伴衆」(※将軍の出行を供する)にも序列があり、『家内竹馬記』に「御一家」(足利一門)と「只の人」(非足利一門)として対比的に描かれている。また『大館常興書礼抄』には足利一門の細川氏・畠山氏・上野氏・山名氏・一色氏などと、非足利一門の赤松氏・富樫氏・伊勢氏などが区別されている。
・全階層を見ると、幕府の故実書『年中恒例記』に「御紋候大名・同御供衆・同外様衆・御部屋衆には殿文字あり、御紋衆でも番方衆は付けず、大名でも御紋衆でないと付けない」とある(※同外様は足利一門なのか非足利一門なかな)。この足利一門/非足利一門の区別は、権力(守護への就任など)には存在しなかったが、権威には存在した。
・1464年8代将軍・足利義政が5代関東公方・足利成氏を討つべく、今川義忠と武田信昌に書状を発令する。この宛名に「殿」付与の違いがある。これは役職や年齢とは無関係で、足利一門か否かの違いによる(※細川氏が今川氏・武田氏に出した書状から説明しているが省略)。足利一門は儀礼的身分・格式で、非足利一門より優越していた。※足利一門内/非足利一門内の序列は、どう決めたのか。
○南北朝期-中央の大名(土岐氏と佐々木氏)
・大名・武家が「足利一門は儀礼的に優越する」と認識していたのか。これを儀礼の場での相論から読み解く。1374年(応安6年12月)北朝・後光厳上皇に馬を献上する「貢馬儀礼」が行われたが、土岐氏(頼康・康行父子)と佐々木氏(高秀)が序列争いする。先例から佐々木氏が上とされ、土岐氏が反発し馬を出さなかった(1番御馬、2番山名、3・4番佐々木、5番赤松)。※1374年前後の5回の貢馬儀礼の序列の図表あり。
※宇多源氏-近江源氏-佐々木氏、清和源氏-摂津源氏-土岐氏、清和源氏-河内源氏-新田氏・足利氏・武田氏。
・当時、今川了俊は足利尊氏に忠誠を尽くした土岐頼貞(頼康の祖父)を「足利一門の次、外様の頭」と認識している。また佐々木道誉(高秀の父)も同様と認識している。そこで重要となったのが、管領・細川頼之の佐々木贔屓と考えられる。儀礼の少しの序列でさえ、政治的問題に発展した。
・1380年(康暦年12月)の貢馬儀礼では、1番斯波/2番山名/3番土岐/4・5番佐々木となり、土岐氏が上になる。これは前年の「康暦の政変」で、細川氏を失脚させて管領に復帰した斯波氏が、緊密であった土岐氏を優遇したからだ。※その後の土岐氏と佐々木氏の争いも説明しているが省略。
・この様に両氏は争ったが、貢馬儀礼では3番を巡る争いで、1番管領(細川氏、斯波氏)/2番(山名氏)(共に足利一門)との間には高い壁があった。管領(細川氏、斯波氏)も互いに争い、それぞれ両氏を優遇したが、山名氏より序列を上げる事はなかった。
○南北朝期-佐々木氏と山名氏
・南北朝期はまだ足利氏の絶対性が確立しておらず、足利一門の権威も確定していなかった。そこで佐々木氏(道誉)と山名氏(師義)の争いを見る。1352年山名氏は若狭国税所今富名の知行回復を幕府に申請するため佐々木氏に赴くが、佐々木氏は取り次がなかった。山名氏は非足利一門である佐々木氏の態度に激怒し、反幕府方に転じる(※正確には北朝から南朝に転じた)。当時山名氏は佐々木氏との間に、守護職(若狭、出雲)の問題/税所今富名の領有権/西日本海での水運抗争があった。この事件から「足利一門は儀礼的に優越する」を重視していない氏族がいて、足利一門の権威が過渡期だった事が分かる。
○室町期-山名氏と一色氏
・次に足利氏の絶対性と足利一門の権威が確立したケースを見る。1432年6代将軍・足利義教が一色氏(持信)に貢馬儀礼への勤任を命じる。ところが2番山名氏/3番一色氏となる事を嫌がり抗命する。一色氏が貢馬儀礼を命じられたのは、同年三河国の中条氏が没落し、その所領を与えられた事による。中条氏の序列を引き継ぐと、非足利一門の土岐氏・佐々木氏・赤松氏より下になる。将軍は一色氏を3番(山名氏の下、外様の上)にしようとしたが、それでも拒み、将軍自ら貢馬する。
・この事件から3つの事が分かる。1つ目は、一色氏は「山名氏と同格で、外様(土岐氏、佐々木氏など)より優位」との意識を持っていた(※三管領家=細川・斯波・畠山、四職家=赤松・一色・京極・山名)。持信は一色氏の当主でないのに、その意識を持っていた。当主で兄の義貫は、別の行列の序列で管領家の畠山氏に敗れ、自害しようとした。
・2つ目は、これは山名氏と一色氏の足利一門同士の争いで、管領・外様との問題は起きていない。従って足利一門・外様は「足利一門は外様の上に位置する」と認識していた。3つ目は、将軍が一色氏を3番にしようとした事から、足利氏も「足利一門は外様の上に位置する」と認識していた(※別に3つに分けなくても)。これらから中央の大名は「足利一門は儀礼的に優越する」と認識していた。
○戦国期
・「殿」の付与に関する先の細川氏の例の様に、在京の大名は「足利一門は儀礼的に優越する」と認識していた。播磨国の赤松氏は「左衛門佐」を官途され、「足利一門でないとなれない」(※要約)と大変喜んだ。戦国期、美濃国の土岐氏は自家を「足利一門の下、諸家の頭」と述べている。つまり戦国期でも「足利一門の儀礼的な優越」が認識されていた。
・土岐氏に関し、もう1つ紹介する。1430年6代将軍・足利義教の右大将拝賀で、畠山・佐々木・富樫・土岐+管領(斯波)が供奉している(※何で管領を最後にしたのか)。1456年8代将軍・足利義政の右大将拝賀で、畠山・佐々木・伊勢・富樫・土岐+管領(細川)が供奉している。この土岐氏の後陣は管領(斯波、細川)・前陣(畠山)に次いで重要で、土岐氏は「頗牧の軍容、禁林を傾く」と書き残している。ところが1486年9代将軍・足利義尚の右大将拝賀で、畠山・佐々木・伊勢・富樫+管領(細川)が供奉し、土岐(成頼)の名がない。この時、畠山・佐々木・富樫は上洛し官位を賜るが、彼は上洛しなかった。故実書『土岐家聞書』『家中竹馬記』によると彼は遅怠したらしい。ところが将軍は「土岐氏でないと務まらない」として、後陣を空席にしたとある。ところが翌年彼は将軍から追討の対象とされ、出仕する。結局儀礼への不参加は意図的だったと思われる。
○地方の武家-九州
・地方(九州)の武家の事例を見る。『酒匂安国寺申状』で吉良氏と高氏の儀礼争いを見る。『酒匂安国寺申状』は永享年間(1429~41年)に成立し、島津氏の被官・酒匂氏が記主で、南九州の重要な史料だ(※島津氏は惟宗朝臣の子孫)。
・これに①~③の話が記されている。①1345年初代将軍・足利尊氏が天龍寺供養を行い、吉良氏と高氏を供奉させた。ところが吉良氏がこれを嫌がり、吉良氏の後に高氏が御供する形になった。②1392年3代将軍・足利義満が相国寺供養を行い、吉良氏と高氏を供奉させる。ところが吉良氏がこれを嫌がり、①が先例となり、吉良氏の後に高氏が御供する形になった。③高氏は権勢を誇っているが、御一家(足利一門)の吉良氏の方が格上である。同様に島津氏も御一家を尊重しなくてはいけない。
・この事から、地方の一武家(酒匂氏)でさえ、「足利一門は儀礼的に優越する」と認識していた。なおこの天龍寺供養・相国寺供養の記述は、史実と若干の齟齬がある(※詳細省略)。また酒匂氏がこれらの話を知っていたのは、①同氏が島津氏の京都代官的な存在だった、②天龍寺供養に島津氏も参加した、③両供養が足利氏の一大ページェントだった事による。
○地方の武家-奥羽
・次に『奥州余目記録』から奥州探題・大崎氏の足利一門の扱いを見る(※大崎氏は足利一門の斯波氏から分派)。これは1514年に成立し、記主は奥州国府(多賀国府)で勢力を築いた留守氏の被官・佐藤氏で、大崎氏・留守氏の話が記されている。
・大崎氏が書状を送る際、厚礼の「謹上書」を送るのは、斯波殿(高水寺斯波氏)・塩松殿(塩松石橋氏)・二本松殿(二本松畠山氏)・山形殿(斯波一族の最上氏)・天竜殿(斯波一族の天竜氏)だけとある。この足利一門の5家は位置付けが高く、伊達氏・葛西氏・南部氏・留守氏・白川氏・蘆名氏・岩城氏などの国人と区別された。九州のケースと同様、地方の一武家(佐藤氏)でさえ、「足利一門は儀礼的に優越する」と認識していた。
○地方の武家-関東
・次に『鎌倉年中行事』から鎌倉府での足利一門の扱いを見る。これは1456年に成立し、記主は鎌倉府に仕えた奉公衆・海老名氏で、鎌倉府での年中行事/不定期の行事/管領・奉公衆・外様・足利一門(※何で足利一門を最後にしたのか)が遵守すべき儀礼的な規範が記されている。そのため中世東国史研究の重要史料だ。
・奉公衆が道で管領(上杉氏=非足利一門)・足利一門に遭遇した場合、奉公衆が下馬すると管領は下馬するが、足利一門は下馬しないとある(※詳細省略)。九州・奥州のケースと同様、関東の武家も、「足利一門は儀礼的に優越する」と認識していた。
・この意識は酒匂氏/大崎氏・佐藤氏/海老名氏に限られない。根拠となった『奥州余目記録』『鎌倉年中行事』の書札礼・路頭礼は記主だけでなく、奥州・関東全域の武家が共有していた。酒匂氏の様な在京経験者により、全国隅々まで「足利一門は儀礼的に優越する」が認識された。
第8章 足利一門になる
○足利一門化
・中世後期(南北朝~戦国)足利一門を頂点とする共通価値が全国で共有される。これにより武家が「足利一門化」を目指す様になる。これには2パターンあって、①足利氏から「栄典」として授与される(上からのパターン)、②武家が勝手に名乗る(下からのパターン)がある。
○栄典としてのパターン
・①「上からの栄典としての足利一門化」は2ケースある。❶恩賞として足利一門とされるケース、❷側近などで使え、足利一門化するケース。まず❶「恩賞のケース」を紹介する。1336年大友氏は猶子の待遇を得る。この時初代将軍・足利尊氏は鎮西に敗走中で、豊後国の大友氏泰との関係を強化する必要があった。しかし大友氏は永続的に足利一門として扱われていない。1393年大内氏も九州平定、「山名氏清の乱」の鎮圧で足利一門の待遇を得るが、「大内義弘の乱」(※1399年応永の乱)で剥奪される。
・東国では、1458年「享徳の乱」で5代関東公方・足利成氏が小山氏の忠誠を激賞し、兄弟とする。しかしその後小山氏が成氏から離れ、足利一門から外れる。15世紀末になると、上杉氏・北条氏などが足利一門並みに待遇されるが、完全に同等には扱われなかった。1559年越後国の長尾景虎(上杉謙信)が13代将軍・足利義輝から足利一門並の待遇を認められる。
・1493年管領・細川政元が「明応の政変」で功績のあった被官・上原元秀に「細川」を与えようとしたが、他の被官からの反発で止める。この「恩賞によるケース」が僅かに見られる。足利一門化はかなりの身分上昇だが、完全に同等ではなく、またこれを維持するのは容易でなかった。
○側近に伴うケース
・続いて❷「側近に伴うケース」を紹介する。1443年伊勢貞親が「御父」に定められる。これは8代将軍・足利義政が幼少(8歳)のためだった。ただしその後、伊勢氏は足利一門として扱われていない。戦国期、足利氏は側近に足利一門の名字を与えた(入名字)。例えば上杉氏・種村氏に一色氏、大原氏に細川氏、木阿弥息幸子(※息は息子の意味かな)に畠山氏などを与えた。しかしこれは将軍個人との関係のため、将軍が替わると剥奪された。戦国期、9代将軍・足利義尚は寵愛する観世座猿楽師・彦次郎に「広沢」を与えている。広沢氏は平安末期に足利義実が名乗っていた(※詳細省略)。
・この「側近に伴うケース」も僅かに見られる。足利一門化はかなりの身分上昇だが、完全に同等ではなく、またこれを維持するのは容易でなかった。
○主張としてのパターン
・次に②「下からの主張としての足利一門化」は3ケースある。❶足利一門の名字を名乗る、❷源頼朝の末裔と主張する、❸足利尊氏の由緒を語る。要するに事実を捻じ曲げて足利一門になるのだ。まず❶「足利一門の名字を名乗るケース」。1459年8代将軍・足利義政は奉公衆・庄四郎五郎に「一色」と名乗る事を許す(※これは①-❷側近では)。この背景は、ア.彼が佐々木氏と所領問題を抱えていた、イ.彼が禅僧・茂叔集樹の縁者だった、ウ.茂叔集樹は一色大蔵大輔の弟だった。この結果、彼は所領問題で勝訴している。
・1535年三河国の松平清康が「世良田」と名乗り、その後、孫・元康(家康)が「徳川」(得川)と名乗る。これにより周辺の非足利一門より上位に立ちたかったのだろう。これは15代将軍・足利義昭から承認されている(※幕末になると何でもありかな)。ここで注意すべきは、「足利と異なる新田」(※世良田・得川は新田流)を名乗っていない点で、「太平記史観」「徳川史観」から解釈すると、彼らの思いを誤ってしまう(※意味不明。どうせ名乗るなら新田以外を名乗るのが普通かな)。
・1561年美濃国の斎藤義龍が「一色」を名乗る。この時、被官にも一色被官の名字を名乗らせている(安藤氏→伊賀氏、桑原氏→氏家氏、竹腰氏→成吉氏、日根野氏→延永氏)。これは美濃守護・土岐氏や近江国の佐々木氏に対抗するためだ。これは13代将軍・足利義輝から承認されている。
・東国では1564年上野国の横瀬成繁が「由良」を名乗る。彼は岩松氏の被官から、将軍の直臣になる。新田義貞の子・貞氏を始祖とする系譜を作り、横瀬から由良に改称した。彼は関東公方からも由良を認められている。※彼は岩松氏を下剋上しているので、足利一門になる必要があったのかな。
○源頼朝の末裔
・続いて❷「源頼朝の末裔と主張するケース」を紹介する。永享年間(1429~41年)東国では結城氏、西国では島津氏が頼朝の末裔と主張している(※結城氏は藤原北家魚名流・秀郷流。島津氏は惟宗朝臣の子孫)。島津氏の場合、朝鮮の史料でも、それが確認できる。当時吉見氏(頼朝の弟・源範頼の後裔)が足利一門とされたため、島津氏はそれを主張した。この主張は京都まで届いていたが(※詳細省略)、幕府は認めなかった。島津氏は豊後国の大友氏がライバルだった。大友氏も頼朝との関わりを唱えていた可能性がある。実際『吾妻鏡』に、初代・大友能直は頼朝の「無双の寵仁(並ぶ者のないお気に入り)」とある。これが「大友氏=源頼朝末裔」の嚆矢と考えられる。
・結城氏の場合、鎮守府将軍・足利藤原秀郷の末裔である事を捨て、足利一門になろうとしたが、鎌倉府は認めなかった。
○尊氏由緒
・最後に❸「足利尊氏の由緒を語るケース」を紹介する。A.幕臣の大和氏が足利尊氏の「御父」となり、「足利大和守」と語られ、御紋も下された(『常照愚草』)。B.備後国の宮氏が藤原姓から源姓に改めたが、尊氏に対する忠節から猶子となり、源姓を賜り、足利一門に列していた(『萩藩閥閲録』)。C.播磨国の赤松氏が尊氏に対する忠節から御紋を下され、足利一門に列し、御供衆に加えられた(『赤松家風条々録』)。これは当時赤松氏は美作国弓削庄を押領されていたからだろう。D.丹波国の久下氏が尊氏に対する忠節から「足利」と御紋を下された(『久下文書』)。これは当時久下氏は丹波国栗作郷・新屋庄を押領されていたからだろう。この様に各氏が尊氏の「御父」「猶子」や「足利」を下されたと主張している。彼らは所領問題を抱えており、何れも創作と思われる。
・以上の様に、②「下からの主張としての足利一門化」も見られる。各氏が足利一門になりたがった。それは足利の権威が存続し、その価値観(足利的秩序)を共有していたからだ。そのためある足利氏が倒されても、別の足利氏が擁立され、足利体制は永続されるはずだった。ところがある武家が天下を取り、その価値が暴落した。次章からそれを見る。
第Ⅳ部 なぜ足利氏は滅びたか
第9章 足利血統の価値低下
○16世紀半ばの断絶
・戦国期でも足利氏を頂点とする足利的秩序は存続した。そのため足利氏(室町将軍、関東公方)が打倒されても、別の足利氏が擁立された。また武家は足利一門になり、他者より優位に立とうとした。ところが16世紀半に一変する。1553~58年三好長慶は別の足利氏を擁立せず、13代将軍・足利義輝を追放する。織田信長も同様に15代将軍・足利義昭を追放する(※詳細省略)。そして羽柴秀吉が登場し、足利氏の時代は終わり、14世紀末以前に回帰する。
・この頃三河国の吉良氏は今川氏に、尾張国の石橋氏・斯波氏は織田氏に滅ぼされる。備後国の渋川氏は毛利氏に組み込まれ、小早川氏・熊谷氏・渡辺氏より下位にされる。1568年織田信長は斯波氏の家督就任を断る。1573年細川藤孝は細川氏を捨て、長岡氏に改める(※これは15代将軍・足利義昭から織田信長に乗り換えたからだ)。
○下剋上
・なぜ足利的秩序は崩壊したのか。この頃足利氏は「武家の王」だった。三好長慶・織田信長の個性を理由にするのは禁じ手だ。彼らは時代・社会の変化が生んだ(※詳細省略)。これは「下剋上」の深化、つまり強くなった下の者が、弱くなった上の者を打倒するイメージから説明されるべきだ。ところが大名は足利的秩序を共有していたため、足利氏の天下を打倒する事態にならない。戦国期は政治的な実力主義と儀礼的な血統主義が共存していた。実際の下剋上を見てみると、当主を排しても、その実子・養子・一族などを新当主としており、実態と従来の下剋上のイメージは大きく異なる。足利的秩序が前提の下剋上と三好長慶・織田信長の行動の間に、大きな飛躍がある。この両者の隔たりが、歴史研究における大きな課題になっている。
・次章から足利氏の時代が、三好長慶・織田信長がラディカルな選択をする時代・社会なった変化を見ていく。これを「下から」ではなく「上からの改革」で見る。
第10章 上からの改革
○改革する将軍
・戦国期、将軍は延命のため儀礼における改革を積極的に進めた。これは「血から力」への改革だ。「応仁の乱」(1467~77年)で幕府は大和国の国人・越智氏を和泉守護に任命する。乱後に赤松氏被官・浦上氏を山城国守護候補、細川氏被官・安富氏を近江国守護に任命している。この様に将軍は実力があれば守護に任命した。側近は当初は足利一門化した後に任命していたが、その手続きが行われなくなる。将軍自ら足利一門と非足利一門の壁を崩壊させた。
・この流れは16世紀も継続される。実力者の御相伴衆・御供衆への参入も許容される。この流れは天文年間(1532~55年)で強まり、永禄年間(1558~70年)で頂点に達する。御相伴衆は、室町期は細川氏・斯波氏・畠山氏(三管領)と山名氏・一色氏・赤松氏・佐々木氏・大内氏に限られていたが、戦国期は三好氏・斎藤氏(美濃)・朝倉氏(越前)・武田氏(若狭)・毛利氏(安芸)・尼子氏(出雲)・河野氏(伊予)・今川氏(駿河)・武田氏(甲斐)・北条氏(相模)・大友氏(豊後)・伊東氏(日向)・島津氏(薩摩)などが就いた。血ではなく、実力者が儀礼的にも優遇される様になった。
・1546年12代将軍・足利義晴は佐々木氏(※佐々木氏とあるが、その嫡流の六角氏)を管領代(加冠役)に任命し、長男(13代将軍・足利義輝)を元服させる。これは先例に反したが、押し切る。将軍により足利一門と非足利一門の壁は中央管領でも無力化された。1559年伊達氏(陸奥)を奥州探題、大友氏(豊後)を九州探題に任命する。これも足利一門が独占してきた役職だった。
○自壊する秩序
・この様に戦国期になると将軍は各地の実力者を懐柔し、人材の登用を柔軟にする。すなわち「血」の重視から、「力」の重視に移った。これにより儀礼的に足利一門を重視する足利的秩序は解体された(※詳細省略)。この共通価値の喪失により、三好氏・織田氏が登場する事になる。将軍による「上からの改革」により足利的秩序は崩壊した(※「応仁の乱」などの足利一門内の争いが根本原因かな)。ハンナ・アーレントは「権威の最大の敵は軽蔑で、権威を傷付ける確実な方法は嘲笑」としている。将軍はそれ(権威の軽視・否定)を自らやった。
・これ以外の方法はなかったのか。実はあった。15世紀半ばから16世紀半ば、将軍は他氏の足利一門化を進めた。これは足利的秩序を否定するものでない。実際東国では公方が変化を制限したため(※内容説明が欲しい)、最後まで公方は否定されなかった(羽柴秀吉による関東来襲まで存続)。しかし西国の将軍は体制維持路線と、有力者をそのまま迎え入れる体制変革路線を同時に行った。この後者は足利的秩序を否定・解体・無化させ、三好氏・織田氏を台頭させた。※「実力者を足利一門化して登用するのであれば問題なかった」、あるいは「その登用が最小限であれば問題なかった」かな。
○他時代・他地域
・「上からの改革」は他時代・他地域でも見られる。フランスのブルボン家では、「王が合理的観点から王権保護装置を信じなくなる時、例えば国家儀礼を軽視したり、文言を間違えるなどにより体制崩壊の引き金が引かれる。フランス革命時、権力者の儀礼的観念の現実的喪失が始まっていた」とされる。
・徳川家でも江戸後期、血統重視の「権威の将軍」が能力重視の「国事の将軍」に変化する(※詳細説明が欲しい。能力が疑われる人でも将軍に就け、逆に権威を維持させようとしたと思う。幕末に徳川慶喜を将軍に就けた事かな)。これは将軍存続のためだが、過激な諸改革は結果的に将軍の衰勢を加速させた(※幕末は能力が高い人を重要ポストに就けたと思うが、これらかな)。「国事の将軍」を進めた事で、「権威の将軍」が壊された。幕臣・福地源一郎は『幕府衰亡論』で「一般に幕府は保守のために倒れたとされるが、私は進取のために倒れたと考える」と述べている(※大幅に省略)。
・これらの「上からの改革」による秩序の崩壊が多々見られる。足利氏についても、この視角が検討されるべきだ。佐藤進一も「守護被官や国人の成長を正視する態度は実力主義の正当化で、これは身分的封鎖性を崩壊させる」と述べている。この状況に上がどう対応し、秩序にどう影響したかを見てきた。下剋上の時代においても上からの視点を再考する必要がある。
エピローグ 足利時代再考
○本書の結論
・力なき将軍が存続できた理由として「共通利益論」「共通価値論」があり、足利氏を「武家の王」とする後者の共通価値を説明した。これは足利氏による暴力(戦争)とイデオロギー(儀礼)での努力で、14世紀末頃に成立した。この足利的秩序は戦国期も存続した。ところが「血」の重視から「力」の重視に変化し(上からの改革)、足利氏への「血統幻想」が総体化した。その結果、三好氏・織田氏が登場した。
○中世後期は何時代
・足利的秩序は南北朝期に始まり、室町期に確立し、戦国期も存続した。そのため権威から時代を見ると、亀裂は室町期と戦国期ではなく、16世紀半ばの三好氏・織田氏の登場前になる。従来は室町時代/戦国時代と区分されるが、そこには意識の連続性があり、「足利時代」として纏める事ができる。実際、かつては足利時代とされた。
○室町時代と足利時代
・『国史大辞典』で室町時代を調べると、「政治権力の所在による時代区分。足利時代とも称される。広義には鎌倉時代と安土桃山時代の間。狭義には前期を南北朝時代、後期を戦国時代と区分する」(※概略)とある。
・足利時代と聞くと違和感があるが、かつては併用されていた。末柄豊は「室町時代として一本化されたのは昭和に入る頃」としている。『雑誌記事索引データベース』で集計すると、戦前以前は併用されていたが、戦後は室町時代に一本化される(※出現頻度のグラフあり)。
・なぜ戦前が転機なのか。保立道久は「足利尊氏が逆賊とされた『皇国史観』による」とし、時代区分の決定に皇国史観が影響していると考えられる。そして彼は時代区分で「北条時代→足利時代→織豊時代→徳川時代」を提唱している(※支配者による区分だな)。
○平泉澄と時代区分
・皇国史観と不可分の平泉澄の『中世に於ける社寺と社会との関係』(※1926年)を見る。「古くは政権の所在から、織田・豊臣時代は安土・桃山時代、徳川時代は江戸時代、足利時代は室町時代とされた」とし、「六波羅時代→鎌倉時代→南北朝時代→室町時代→安土・桃山時代→江戸時代」を提唱している。※細川亀一『日本寺院経済史論』、栗田元次『総合国史研究』、黒板昌夫・遠藤元男『紀年と時代区分について』なども紹介しているが省略。
・総括すると平泉の『中世に於ける社寺と社会との関係』が画期となり、室町時代が主に使われるに様なった。しかしこれが皇国史観の産物なのか(※皇国史観が強固になったのは1930年代では)。1934年商工大臣・中島久万吉が足利尊氏を賛美し、辞任に追い込まれている。三浦藤作『勅撰六国史大観』(1944年)/瀧川政次郎『歴史と社会組織』(1931年)は室町時代を支持している。一方内田良平『皇国史談・日本の亜細亜』(1932年)/満川亀太郎『日本外交史』(1933年)/靖国神社『遊就館要覧』(1933年)/栗原勇『武蔵戦記』(1935年)などは足利時代を支持している。※1930年代でも混在している。
○社会と個人
・千葉徳爾『日本民俗学における「足利時代」』(1995年)を見る。「近頃は政権の所在から鎌倉時代・室町時代としている。ところが私が小学校の頃は、支配者の姓から足利時代・徳川時代としていた」「人物による区分は統治者の姓、いわば人と人の繋がりから社会動向を認識する方向だ」「場所による区分は政権の中心的機構が存在する土地であり、空間的位置で識別する事が常識化した事による」とある。そして「政治が人間の意志に左右される時代から、機構・構造により社会の動向が定まる時代に移ったからだ」としている(※面白い解釈だ)。つまり「皇国史観とは関係なく、歴史を動かすのは「個人」でなく「社会」と考えられる様になり、時代呼称が変わった」とした。
・平泉の『中世に於ける社寺と社会との関係』も皇国史観的ではなく社会に注目しており、歴史は「個人」でなく「社会」が動かすもので、時代区分は政権の所在で定めるべきとした。以上より室町時代が増え、足利時代が減ったのは、「歴史は社会が動かす」と「皇国史観」の合作だったと考えられる。
○時代区分の再考
・戦後、「皇国史観」は崩壊し「唯物史観」が主役になり、社会=構造が重視され、足利時代が再考される事はなかった。ところが21世紀に入ると、「政治史」が復権し、個人も再評価され、足利時代の呼称が再考される。南川高志は『21世紀の歴史学と時代区分』で「今の歴史学では時代区分論が忘れ去られている」とし、その理由を「①社会は構造で、社会は所定の段階を経て発展するとのマルクス的歴史学が崩壊した(※今は構造を重視するマルクス的な唯物史観なのでは)」「②政治的事件を重視しない歴史学(社会史)が流行った」「③細かなテーマの研究が優勢で、大きな枠組みが論じられなくなった」とする。その上で彼は、「時代区分問題は、構造を把握せんとする歴史学により、再提起されて良い(※今は構造を重視しているのでは)」「過度の専門化を克服し、大きな議論に繋がる研究をしよう」と結論している。
・本書も中世後期における足利氏の存在感を認識し、足利時代の呼称の復権を提案したい。※室町幕府=足利将軍+三管四職(三職七頭)と考えれば、室町時代の方が妥当な気がする。
○その後の世界
・近世(江戸期)になっても、足利の血統神話は展開された。まず貴種信仰・御霊信仰だが、福岡県に探題・渋川尭顕を祀った「探題塚」がある(※詳細省略)。宮崎県・鹿児島県では、島津氏・樺山氏が大覚寺義昭(※3代将軍・足利義満の子。兄の6代将軍・足利義教と争った)を鎮魂いている。
・近世に残り、権勢を得た足利一門に徳川氏(※新田流)がいる。また吉良氏は高家となった。権勢を得なかったが、奇跡を行なう者として、岩松氏・由良氏は猫絵(養蚕の守り神)/鐘馗絵(疱瘡除)/憑物除札/大口真神絵を描いた。平島氏は蝮除礼を記した。喜連川氏は黒札を配った(※この辺りは知らない事ばかり。まあ武家は様々な内職を持ったらしい)。西欧では王統の消滅で奇跡も消滅したが、日本では信仰の対象として存続した。
・この様に日本では血統・権威の観念が根強い。前近代は身分制で、血統・権威なしで歴史を語れない。これは天皇を象徴とする現代も同様だ。
あとがき
・実力を失った足利氏が戦国期に生き残った理由を説明してきた。山田康弘は『戦国時代の足利将軍』で、その理由を将軍・大名双方の「共通利益」とした。彼は権威を回避したが、政治学・社会学には「価値」も重要とある。実際足利氏の遺児・僧侶が擁立され、利益で説明できない(※政権を奪取できれば後で利益を得られるのでは)。そこで私は「共通価値」に焦点を当てた。結果、武家において「足利氏を武家の王」とする共通価値(足利的秩序)を認識できた。
・近年、室町幕府・足利将軍の研究が盛んで、権力・利益に集中しているが、権威・価値に光を当てた。本書は2017年5月「歴史学研究大会」で論じた内容だ。これを受けて山田も2018年8月『戦国期足利将軍存続の諸要因-利益・力・価値』で応答する。※その後の論争も説明しているが省略。どちらか一方だけが正解なのではなく、両方が正解なのでは。
・南北朝期、足利氏は暴力の発動を基礎とした。室町期、秩序永続のため、儀礼・工作を実践し、権威を維持した。秩序の解体を「下剋上」で説明できないため、「上からの改革」(血統重視から実力重視への転換)で説明した。そして最後に近世になっても足利の血統神話が残っている事例を説明した。これに他地域・他時代・他分野の様々な理論・仮説を用いた。それは権威の盛衰が世界で共通するからだ。例えば今村真介『王権の修辞学』の理論を参照した(※詳細省略)。なお本書は一般書だが、拙著『中世足利氏の血統と権威』は専門書だ。