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『プーチンの敗戦』池田元博(2023年7月)を読書。

ウクライナ和平しそうなので、ロシアやプーチン大統領について再度確認。

ウクライナ侵攻開始の1年半後の上梓で、最新ではない。
ロシアを劣勢としているが、現時点は優勢に思える。

プーチン統治下の四半世紀を詳しく解説。彼の思考を深く理解できる。彼は大変計画的だが冷徹。
最終章(第7章)は北方領土問題を解説。

大変詳しく、巻末に年表もある。ただし時系列が前後する事が多い。

お勧め度:☆☆☆
内容:☆☆☆

キーワード:<プロローグ>ウクライナ侵攻、大統領就任、コサック、東部紛争/ミンスク合意、<未来への希望>NATO拡大、合意案、オレンジ革命、大統領就任、ユーゴ空爆、<敵対へ>バイデン/人殺し、新戦略概念/国家安全保障概念、ブッシュ/ミサイル防御構想/同時多発テロ、カラー革命、<大国主義と国家統制>グルジア戦争、マイダン革命、クリミア併合、メディア統制、弾圧、<強権統治>ブチャ、父、KGB、エリツィン、アパート爆破事件、劇場占拠事件/学校占拠事件、<裸の王様>東部紛争、ミンスク合意、側近、中央集権、<しぼむ大国>憲法改正、歴史観/ウクライナ論文、旧ソ連諸国、制裁、代償、<日ロ関係>北方領土、沖縄サミット、日ソ共同宣言/2島先行論、安倍首相、<エピローグ>混血の国、年次教書演説、裏切り、百年の孤独、<あとがき>プーチンの戦争

プロローグ

○キーウ詣で
・2023年2月バイデン大統領はキーウを電撃訪問し、「ロシアは占拠した領土の半分を失った」とプーチン大統領を激しく非難した。侵攻開始から1年、支援疲れが見られる中、米国が支援する事を世界に示した。ポーランドでも「西側/北大西洋条約機構(NATO)は結束している」と演説をした。翌月岸田首相もキーウを訪れ、G7首脳が全員訪れた事になる。

○日米欧vs中ロ
・岸田がウクライナを訪れていた頃、習主席もモスクワを訪れ、ウクライナ和平の12項目の仲裁案を発表する。プーチンはこれを評価するが、「西側/ウクライナにその用意がない」と否定する。一方中ロ共同声明に経済・技術開発・安全保障などの協調が記され、「日米欧vs中ロ」の構図が浮き彫りになる。

○想定外の長期戦
・2022年2月24日プーチンは、ウクライナ東部のロシア系住民の保護とウクライナのNATO加盟を阻止するため、北・東・南から侵攻を始める。彼は数日でキーウを陥落させ、1週間程度で親ロシアの傀儡政権を作るシナリオだった。翌日にはキーウを包囲し、ゼレンスキー大統領がロシアに停戦交渉を呼び掛ける。28日ベラルーシで交渉が始まるが、ウクライナの全面降伏を要求するなど隔たりが大きく決裂する(※直ぐに停戦交渉があったのか)。※戦況が簡単に説明されているが省略。

○迫られた作戦修正
・ウクライナ軍の徹抗戦底で北部ではロシア軍が後退する。1ヵ月後ロシアは「東部の解放に注力する」と表明する。ウクライナ軍の善戦は米欧の武器供与による(※詳細省略)。
・停戦協議は断続的に行なわれた。3月29日イスタンブール(トルコ)で第4回対面協議が開かれる。ウクライナは「安全保障を条件にNATO加盟を断念する」「領土問題はクリミアを除き首脳間で協議する」などを提案する。しかし「ブチャの惨劇」が発覚し、態度が硬化する。
・5月南東部の港湾都市マリウポリが陥落する。9月ウクライナは米欧の軍事支援で反転攻勢に出る。しかしロシアはドネツク州・ルガンスク州・ヘルソン州・ザポロジェ州の支配地域でロシアへの編入を問う住民投票を行なう。これに9割が賛成し、ロシアは併合を宣言する。

○プーチンに逮捕状
・2022年10月冬前、ロシアはミサイル/ドローンでエネルギー関連施設を攻撃する。この時点ロシアは占拠した領土の半分を失っていた。2023年2月米欧が強力な兵器を供与した事に対し、プーチンは「我々はドイツの戦車の脅威に曝されている」と述べる。国際社会でロシアの戦争犯罪が批判される(無差別攻撃、民間人虐殺、収容施設での拷問・虐待、子供の強制移住)。これに対し3月国際刑事裁判所(ICC)がプーチンに逮捕状を出す。

・1999年12月プーチンは大統領代行に就き、翌年5月大統領に就任する。彼は当初は独裁者でなかった。彼は国家保安委員会(KGB)の将校に過ぎず、出世もしていない。彼が大統領になれたのは、エリツィンが大統領の時、たまたま連邦保安局(FSB)長官で、エリツィンの汚職疑惑をもみ消した事による(※チェチェン紛争も関係したのでは)。

○社会混乱を収拾
・ただし彼は大国主義で国家権力の強化を優先した。しかし実際は、社会の安定/経済再生/国民生活の向上に取り組んだ。1~2期目(2000~08年)ロシアは年平均7%経済成長した。これは原油高による。彼は給与・年金を上げ、国民からの人気が高い。2019年12月彼は20年間の政権運営の実績として、国内の安定/経済発展を挙げた。

○ソ連崩壊の悲劇
・プーチンは「ウクライナは独立国家でない」と公言する。ロシア/ウクライナ/ベラルーシはスラブ系が主体で、ソ連では同じ国だった。ノーベル文学賞を受賞したアレクサンドル・ソルジェニーツィンは『甦れ、わがロシアよ』で「ウクライナを切り離す事は難しい。残酷な分離を止めよう」と述べている。また彼は1998年の論文で、「17世紀ウクライナ・コサックのフメリニツキーはロシア皇帝に保護を求めた。この時領土は今の1/5だった」「メリトポリ/ヘルソン/オデッサ/クリミアはウクライナ領になった事がない」と述べている(※コサックはウクライナ・コサック/ザポロジェ・コサック/クバーニ・コサックに分かれていたみたい)。2005年プーチンは「ソ連崩壊は20世紀最大の悲劇。これにより数千万人のロシア民族が国外に放置された」と述べている。

○乏しい侵攻の必然性
・侵攻理由の「ウクライナのNATO加盟」は喫緊の懸案ではない。加盟手続きの前提に、強固な民主制度/人権尊重/経済の自由/経済的不均衡の克服などが求められる。同国はこの西側のレベルに達していない。トランスペアレンシー・インターナショナルの腐敗認識指数で同国は180ヵ国中116位と低い。
・もう1つの理由「ロシア系住民の保護」はどうか。ウクライナ東部では2014年から、親ロシア派とウクライナ政府軍ぼ戦闘が続いていた。そのため侵攻前でもドネツク州・ルガンスク州の3割を親ロシア派が実効支配していた。
・この紛争に対し、2015年2月独仏の仲介で「ミンスク合意」が結ばれる。これは親ロシア派の自治権を認めたが、ウクライナ政権が履行しなかった。そのため2019年プーチンは、両州のロシア系住民にロシア国籍を与えるなどをする。

○戦略なき戦術家
・NATOは「共同防衛」を規定している。そのため国内紛争がある国は加盟できない。そのためウクライナがミンスク合意を履行し、国内紛争が終結すれば、NATOに加盟できる。それなのにプーチンは自らミンスク合意を放棄し、侵攻を始めた。侵攻により、逆にフィンランド/スウェーデンをNATOに加盟させてしまった。日米欧との亀裂も深め、欧州は脱ロシアに舵を切った。彼はこれらの「負の代償」を想定できなかったのか。本書はその決断の理由を探る。

第1章 未来への希望

<1.ウソの帝国>

○1インチも拡大しない
・ウクライナ侵攻直前(2022年2月21日)プーチンは「我々は騙された」と演説し、米欧特にNATOの東方拡大を批判する。彼は「ソ連末期、西側はNATOを東方に1インチも拡大させないと約束した」とし、西側を「ウソの帝国」と批判する。NATOは東西対立により1949年に創設される。これに対し東側は1955年「ワルシャワ条約機構」を創設する。
・1980年代東欧で民主革命が相次ぐ、特に1989年11月ベルリンの壁が崩壊し、ドイツ統一が始まる。ソ連の最高指導者ゴルバチョフはドイツ統一とそのNATO加盟を認め、1990年10月ドイツは統一される。この時米国が「NATOは東方に1インチも拡大させない」と約束したとされる。

○バルト3国もNATOに
・ところがクリントン政権時(1993~2001年)、NATOは東方に拡大する。1999年チェコ/ハンガリー/ポーランドが加盟し、2004年旧ソ連諸国(※以下旧ソ連)のバルト3国(エストニア、ラトビア、リトアニア)など7ヵ国が加盟する。そして旧ソ連のウクライナ/ジョージア/モルドバの加盟が取り沙汰される。そのためプーチンは「ウクライナにNATO軍が常駐している。NATOの軍事インフラが配備されると深刻な脅威になる」と述べる。彼はウクライナ侵攻でキーウを陥落させ、親ロシア傀儡政権を樹立し、同国のNATO加盟を阻止する計画だった。彼の演説から、米国への強い恨みが感じられる。
・ところで「1インチも拡大しない」が本当に約束されたのか。ロシアは1990年2月ゴルバチョフと米国務長官ベーカーとの会談で約束されたとしている。

○ドイツ統一が背景
・さらに独シュピーゲル誌も1990年2月10日、西独外相ゲンシャーがソ連外相シュワルナゼに「NATOは決して東方に拡大しない」と明言したとしている。プーチンは何度もこの問題を提起している。2016年彼は独ビルド紙のインタビューで「西独の政治家エゴン・バールが(バールは東方外交を主導した人物)、NATOを東方に拡大してはいけないと公言した」と述べている。当時西側はどドイツ統一を急ぎ、NATOの東方不拡大を口約束した。※文書にない以上、通用しない。
・ベーカーとの約束も公式なものでなく、東欧諸国のNATO加盟を拒否したものでない。ゴルバチョフも「これは統一ドイツに関するもので、東独にNATO軍/核兵器を配備しない約束だった」と述べている(※東独に限られた話かな)。当時はワルシャワ条約機構が存在し、東欧諸国のNATO加盟など考えられなかった。ところが1991年ワルシャワ条約機構は解体し、年末にソ連が崩壊する。当時の情勢からすれば、プーチンの「ウソの帝国」発言は、侵攻の方便に過ぎない。

<2.安全保障の担保>

○唐突の提案
・2021年12月中旬、ロシアは米国/NATOに欧州の緊張緩和に向けた安全保障の合意案を掲示する。米国には以下の8条を掲示する(抜粋)。
 ①米ロは相手の安全保障を脅かす行動を取らない。
 ②米国はNATOの東方拡大を拒否し、旧ソ連のNATO加盟も拒否する。
 ③米国は旧ソ連のNATO未加盟国に軍事施設を設けない。
 ④米ロは相手を攻撃できる地域に重爆撃機/軍艦を派遣しない。
 ⑤米ロは自国領域外に中短距離ミサイル/核兵器を配備しない。
 ⑥米ロは自国領域外に配備した中短距離ミサイル/核兵器を撤去する。
・NATOには以下の9条を掲示する(抜粋)。
 ①互いを敵としない。
 ②欧州での軍の配備を基本議定書(1997年)に戻す。
 ③互いに相手の領土を攻撃できる地域に中短距離ミサイルを配備しない。
 ④NATO加盟国はウクライナなどのNATO加盟を拒否する。
 ⑤NATO加盟国はウクライナ/東欧諸国/コーカサス地方/中央アジアで軍事行動しない。

○想定内の拒否
・通常この様な合意案は公開しないがロシアは公開し、合意を望んでいたと思えない。合意案掲示前(12月7日)プーチンとバイデンが電話会談するが、この時ロシア軍がウクライナ国境に集結していた。バイデンは侵攻しない様に要求するが、プーチンは「緊張を高めているのは西側」「ロシア国境にNATO軍を配備しない保証が不可欠」と主張した。合意案の内容は無理難題で、米欧が拒否するのが前提で侵攻の口実作りだった。※合意案はハル・ノートだな。
・しかし侵攻を避けたい米欧は、2022年1月10日ジュネーブで外務次官級の「戦略的安定対話」を開く。12日ブリュッセルで「NATO・ロシア理事会」が開かれ、13日ウィーンで米ロ・ウクライナが参加する「欧州安全保障協力機構」(OSCE)の大使級会合が開かれる。21日ジュネーブで米国務長官ブリンケンとロシア外相ラブロフが会談する。米国はロシア国境付近での配備は譲歩するが、NATO加盟の門は閉ざさなかった。26日米国は合意案を実質拒否する文書をロシアに渡す。

○裏庭への介入
・米欧への積年の不信を武力で晴らすのは言語道断だが、ロシアの安全保障が脅かされるプーチンの危機感も理解できる。2004年NATO東方拡大の第2弾としてバルト3国など7ヵ国が加盟する。この時はプーチンは冷静に受け入れた。バルト3国がソ連に編入されたのは1940年で、ソ連とナチスの独ソ不可侵条約による。そのためバルト3国はソ連への帰属意識はなく、彼もバルト3国を他人と考えている。

・一方彼が敏感になったのが、旧ソ連での民主化運動「カラー革命」だ。2003年ジョージアでの「バラ革命」、04年ウクライナでの「オレンジ革命」、05年キルギスでの「チューリップ革命」だ。オレンジ革命では親ロシア派のヤヌコビッチ(※任2010年2月~14年2月)が大統領選で当選するが、大規模な抗議行動により再選挙になり、親米欧派のユーシェンコ(※任2005年1月~10年2月)が当選する。プーチンはこれを米国による政治介入とし、憤怒した。この頃、彼はウクライナをNATOに加盟させないと決意したと思われる。

<ミニ解説1 ロシアとウクライナ>

・ロシアは面積は日本の45倍、人口は1.5億人。ウクライナは面積は日本の1.6倍、人口は4.2千万人だ。ロシア/ウクライナ/ベラルーシはスラブ系が主体だ。ウクライナ東部は工業中心、西部は穀倉地帯。両国関係は悪くなかったが、2004年「オレンジ革命」で親米欧派のユーシェンコ政権が誕生し、プーチンが危機感を持った。2014年彼はクリミア半島を併合し、2022年ウクライナに侵攻する。
・1994年ウクライナは米英ロと「ブダペスト覚書」を交わしている。これはウクライナは核を放棄するが、領土を保全するものだ。1997年ロシアとウクライナが結んだ友好協力条約には国境不可侵が規定されている(※色々結ばれているな)。ウクライナ侵攻によりゼレンスキーはNATO/EU加盟を表明したが、条件(政治・経済制度)を満たすには時間を要する。前大統領ヤヌコビッチは広大な邸宅を持っていたが、今は「汚職博物館」になっている(※ロシアに亡命中)。

<3.クリントンの戸惑い>

○喉元に刃
・1991年8月保守派がクーデターを起こすが、ロシア共和国大統領エリツィンが3日で終わらせる。これにより実権はゴルバチョフ大統領からエリツィンに移る。9月元々独立志向が強かったバルト3国が独立する。ウクライナも総じて西側志向が強かった(※独立宣言は8月24日)。12月1日ウクライナ共和国で国家独立を問う国民投票が実施される。投票率84%、賛成90%となる。
・1994年2月ウクライナはMATOと「平和のためのパートナーシップ協定」(PFP)を結び、1997年7月NATOと「パートナーシップ憲章」を結ぶ。2019年2月ポロシェンコ政権(2014年6月~2019年5月)は憲法を改正し、NATO加盟を方針とする。しかし加盟には制度改革が不可欠で、目先の話ではなかった。それなのにプーチンは危機感を強める。

○欧州文化の一部
・プーチンはNATOを過剰に警戒するが、元々は西側を嫌っていなかった。2000年3月大統領代行の時、「ロシアは欧州文化の一部。ロシアを欧州から切り離せないし、NATOを敵視する事もない」と述べている。またロシアのNATO加盟も否定していない。2022年2月彼は演説で、退任間近のクリントン(任1993~2001年)が2000年にモスクワを訪れた時の話をする。彼がクリントンに「ロシアがNATOに加盟しようとすると、どう対応するか」と聞くと、クリントンは当惑したそうだ。そしてその後米国はロシアを敵視する様になったと述べる。

・実際クリントンはNATOの東方拡大を進めた。1997年3月ヘルシンキでエリツィンと交渉し、ようやく合意を取り付けた。彼の回想では、エリツィンが旧ソ連(バルト3国、ウクライナなど)を除外する様に求めたが、彼は拒否した。その代わり、新加盟国に軍・ミサイルを配備しない、ロシアをG7/WTOに加えると約束する。同年5月NATOとロシアは「NATO・ロシア基本文書」に調印する。これには「互いを敵視しない」「合同理事会を常設する」とある。これにより第1弾のNATO加盟(チェコ、ハンガリー、ポーランド)が進められる。
・彼はロシアのNATO加盟をどう考えていたのか。彼は「ロシアのNATO加盟の門戸を開いていた。エリツィンにもプーチンにもそれを伝えた」と述べている。そして彼がウクライナ侵攻を招いたとの批判に、「我々はロシアを無視・軽視・孤立させなかった」と述べている。

<4.新千年紀>

○ストーン・インタビュー
・映画監督オリバー・ストーンは劇映画『プラトーン』などで知られる。2016年には国家安全保障局(NSA)による個人情報監視を暴露した映画『スノーデン』も製作している。2015~17年彼はロシアを4回訪問し、プーチンにインタビューし、『ザ・プーチン・インタビュー』を製作した。彼はNATOの東方拡大について訊いているが、プーチンは「東欧からのソ連軍の撤退が決められた時、NATOの境界は東独の東を越えないとなった」「ただしこれは文書にされず、ゴルバチョフの失敗」と述べている。このインタビューで前述したクリントンとの会話にも触れている。「私が『半分冗談、半分本気だが、ロシアがNATOに加盟するのはどうか』と尋ねると、クリントンは『ダメではない。可能と思う』と答えた」と述べている。ロシアのNATO加盟に強く反対したのがチェコスロバキア出身の米国務長官オルブライトだった。

○対外協力を担当
・このインタビューは2014年クリミア併合の後で、米欧との関係は冷え込んでいた。ところが2000年頃はプーチンは本気でロシアのNATO加盟を考えていたのだろう。

・1952年彼はレニングラード(サンクトペテルブルク)で生まれた。彼はスパイに憧れ、KGBに入局する。エリートであれば米欧に転勤するが、1985年彼は東独ドレスデンに転勤する。1989年11月ベルリンの壁が崩壊するが、東独の民主革命を間近で体験した。1990年1月ソ連に帰国し、レニングラード大学長の国際担当補佐官に就く。収入を補うため、白タクもやった。間もなくレニングラード市ソビエト議長(市長)サブチャクの下で働く。国際関係/対外経済協力を担当し、最後は第1副市長になる(※やり手だな)。彼は米英を2度訪れており、米欧との協力を痛切に感じていた。

○最高権力者に
・彼には「私腹を肥やした」「マフィアと交流を持った」などの噂がある。しかしサブチャクは彼を重宝した。1996年サブチャクが市長選で敗れ、彼はロシア大統領府の総務局次長に就く。そして大統領府副長官、第1副長官と昇進する。1998年7月旧KGB(※KGBはソ連の機関)の国内部門の連邦保安局(FSB)長官に就き、翌年8月大統領後継の首相(連邦政府議長)に就く(※毎年昇進する感じだな)。同年12月31日エリツィンが大統領辞任を表明し、彼が大統領代行に就く。2000年3月大統領選で勝利し、5月47歳で大統領に就く。

<5.西側志向>

○覚悟を決める
・プーチンがエリツィンから辞任の意向を伝えられたのは12月14日だった。この時彼は「共に働きたい」「任期満了まで務めては」と答えるが、引き継ぎを了承する。12月30日(エリツィン辞任表明の前日)彼は『独立新聞』に論文「千年のはざまに立つロシア」を発表する。「偉大な国家」であり続けるための課題を列挙した事実上の選挙公約だ。

○外資が不可欠
・論文でまず触れたのが経済・社会で、「ロシアは経済・社会で高い水準の発展をしていない」「経済・社会問題は非常に厳しい」とした。具体的に「1990年代にGDPは半減した」「GDPは米国の1/10、中国の1/5」「通貨危機で1人当たりGDPは減少し、G7の1/5になった」とした。そして原因を「共産主義ドクトリンによる経済アプローチの弊害」とし、復活・繁栄のため市場改革・民主主義改革が必要とした(※詳細省略)。
・論文には「大国主義」が随所に見られる。ただ「国家権力の強化は独裁・全体主義を招かない」としている。経済革新については「外国資本が必然で、投資環境を整備し、外国投資を積極的に呼び込む」としている(※詳細省略)。彼は西側先進国との関係改善を望んでいた。※結果的にこれでロシアも中国も経済成長した。

○ブレアとの仲
・2000年に入ると、モスクワを訪れた米英独仏伊の外相/国連事務総長アナン/世界銀行総裁ウォルフェンソン/NATO事務総長ロバートソンと会談する。同年3月英首相ブレアを故郷のサンクトペテルブルクに招く。両首脳はロシア皇帝の宮殿やエルミタージュ美術館を訪れ、夕方はオペラ「戦争と平和」を鑑賞する(※詳細省略)。ブレアは帰国後、「彼はロシアを近代化しようとしている。私との共通点も多い」と述べる。3月26日プーチンは大統領選で53%得票し当選する(※2回投票制なので意外と苦戦。2位はジュガーノフ(ロシア共産党)の29%)。4月彼は英国を訪れる。ブレアは「必要なのはロシアの孤立化ではなく、積極的な対ロ関与」と述べる。

<6.第2の故郷>

○無二の友人
・2000年6月プーチンは「第2の故郷」ドイツを訪れる。彼はシュレーダー首相と3度会談し、大統領ラウ、後に首相に就くメルケル、シーメンス/ルールガスのトップとも会う。一連の会合で様々な事が議題になったが、彼が特に重視したのが両国の経済協力だった。
・2001年9月彼は再度ドイツを訪問する。彼は連邦議会で得意のドイツ語で演説し、「スターリン主義(全体主義)は自由・民主主義に対抗できない」「ロシアは欧州と友好的だ。ロシアも大陸の安定・平和を望む」「冷戦は終わった。今は新しい発展段階に入った。両国は欧州の構築に貢献する」と述べる。シュレーダーはプーチンを「完璧な民主主義者」とし、プーチンもシュレーダーを「無二の友人」とする。※今の状況からすると、考えられないロシアと欧州の関係だ。

○G7からG8へ
・プーチンが頭を悩ましたのが、冷戦後に「唯一の超大国」となった米国との関係だ。前述した様に、クリントンはエリツインの要請を拒否し、NATOを東方に拡大させた。エリツインは1997年5月に調印した「NATO・ロシア基本文書」で設立された合同理事会でNATOに関与できると期待した。
・クリントンはエリツインとの約束を忠実に守り、同年6月G7「デンバー・サミット」にエリツインを迎え、翌年「バーミンガム・サミット}で正式にG8になる(※1998~2013年はG8)。またデンバー・サミットの首脳宣言に「ロシアのWTO加盟を支持する」と記された。ただし加盟は2018年(18年後)になる。

○プリマコフのUターン
・ところが米ロ関係は悪化する。1999年3月24日NATO軍が国連安全保障理事会(※以下安保理)の決議なしに、ユーゴスラビア(※以下ユーゴ)を空爆する。コソボ自治区のアルバニア系住民が独立を目指すが、それとセルビア人勢力(ユーゴ連邦軍、治安部隊)が衝突しており、米欧が人道的義務から介入した。米国とユーゴの交渉が決裂し、ロシア首相(連邦政府議長)プリマコフは米国に向かっていた飛行機をUターンさせる(※詳細省略)。さらにロシアはNATOとの軍事協力を凍結する。
・偶然ではあるが、3月12日にチェコ/ハンガリー/ポーランドがNATOに加盟している。ユーゴ空爆は6月に終わるが、ロシアの米欧への不信が倍増する(※5月7日駐ユーゴ中国大使館への誤爆も起きている。これが米欧vs中ロの起点かな)。この状況下でプーチンが大統領代行に就いた(※それにしては友好的だったな)。

第2章 協調から敵対へ

<1.バイデンの警告>

○礼節を欠く
・2021年3月17日バイデン大統領はインタビューで「プーチンを人殺しと思うか」と訊かれ、「そう思う」と答える。ロシアのウクライナ侵攻後は何度も罵詈雑言を口にするが、これは侵攻前だ。この時彼は大統領就任直後で、話題はロシアの大統領選への介入だった。彼が心から嫌っていた事が分かるが、礼節を欠いた発言だ(※詳細省略)。

○そっちこそ
・プーチンは即座に反応する。3月18日併合したクリミアの活動家との会談でバイデンの発言に対し、「どの国も厳しく、劇的で、流血を伴う歴史がある。そのため他国を評価する時は、自国も見てしまう。子供の頃、他人を馬鹿野郎呼ばわりする奴こそ、そうだった」と述べ、広島・長崎への原爆投下を厳しく批判した(※詳細省略)。彼は猜疑心が強く、執念深い。このバイデン発言が仕返し(ウクライナ侵攻)を決心させたのかもしれない。
・この2021年初めは、米ロ関係改善の兆しがあった。象徴するのが2月5日が期限の「新戦略兵器削減条約」(新START)延長の合意だ。前大統領トランプが「中国の参加が不可欠」とし交渉が難航していたが、すんなり5年間延長となった。しかし大横領選への介入/政府機関へのサイバー攻撃などで基本的には冷え込んでいた。バイデン発言により、ロシアは駐米大使を帰国させる。5月米国が対ロ経済制裁を発動し(※理由は?発言を批判されたため?)、ロシアはこれに対抗し米国を「非友好国」に指定する。

○ジュネーブ会談
・バイデンは対中政策も考慮し、ロシアに首脳会談を提案する。6月ジュネーブで両首脳が会い、双方が大使を復帰させる。会談後プーチンは「ウクライナに関してはミンスク合意の履行で解決すべきで、彼も同意したと思う」と述べる。

・この頃からロシアはウクライナ国境に度々軍を集結させる。ロシアの専門家は、「ジュネーブ会談後の12月、ロシアは新欧州安保の合意案(※第1章2項で前述)を掲示するが米欧に拒否され、ウクライナ侵攻を具体化した」とする。ウクライナ情勢の緊迫化で、バイデンはインテリジェンス情報を開示し、ロシアを牽制する。2022年2月12日彼はプーチンと電話会談し、侵攻を留まらせ様とする。侵攻直前の2月18日、彼は「ロシアが数日以内にウクライナに侵攻し、キーウを標的にする可能性が高い」と述べる。

<2.ミレニアム・サミット>

○1999年の危機
・時計の針を戻し、米ロ関係悪化の経緯を見る。1999年3月チェコ/ハンガリー/ポーランドが第1弾としてNATOに加盟する。その直後NATO軍がユーゴ空爆に踏み切る。4月NATOは「新戦略概念」を採択し、「国連安保理決議がなくても軍事行動する」とした。これで米欧とロシアの関係は冷え込む。
・2001年1月プーチンは「国家安全保障概念」に署名する。これには「西側は国際規範に従わず、武力で解決している。多極化で影響力を強めるロシアに対し、国民の利益を阻害し、欧州/中東/南コーカサス/中央アジア/アジア太平洋での弱体化を計っている」とあり、具体的にNATOの東方拡大、国境付近への基地・軍の配備、ロシアの政治・経済・軍事の弱体化を挙げた。ロシアの専門家は、「ウクライナ侵攻を招いたのは、1999年」としている。※「新戦略概念」と「国家安全保障概念」が対になっている。長い目で見れば、ソ連・ロシアの弱体化の過程と思える。

○核軍縮でアピール
・それでも大統領代行のプーチンは国内産業育成のため、米国との関係改善を望んだ。2000年1月1日彼はクリントンとの電話会談で「民主化は続ける」と伝えている。2月NATO事務総長ロバートソンがモスクワを訪れ、ユーゴ空爆で凍結していた軍事交流を再開する。共同声明には、「対話の再開」「NATOとロシアは、NATO・ロシア基本文書/NATO・ロシア理事会を通じ、欧州安保に貢献する」などが記される。

・3月プーチンは大横領で勝利する。4月14日ロシアは「第2次戦略兵器削減条約」(START2)に批准する。これは戦略核弾頭を米国は5割、ロシアは4割削減する条約だ。4月21日核爆発を伴う核実験を禁止する「包括的核実験禁止条約」(CTBT)に批准する(※現状は186ヵ国が署名しているが、批准は178ヵ国で、核保有国は批准していない)。5月プーチンは正式に大統領に就く。就任演説で「ロシアを自由で、強く、豊かな国にする」と公約する。

○ブッシュの当選
・6月クリントンがモスクワを訪れ、余剰プルトニウムの共同廃棄/弾道ミサイル発射情報の共有などで合意する。共同声明には地球温暖化対策/戦略的安定などが記され、他に4つの合意文書が署名される。
・9月クリントンがニューヨークで「国連ミレニアムサミット」を開き、プーチンも出席する。最初彼の演説順番は31番目だったが、キプロスと交換し5番目になる。ところが彼が演説を始めると、クリントンを始め、多くの首脳が席を立った。彼は屈辱感を味わうが、問題は次の米大統領と考えた(※1998年ロシア財政危機などがあり、ロシアの存在感は希薄だったかな)。大統領選は接戦になり、ブッシュが当選する(※詳細省略)。

<3.米同時テロ>

○母の十字架
・2001年6月プーチンとブッシュの初会談がリュブリャナ(スロベニア)で行なわれる。会談に先立ち彼はブッシュの経歴・性格を丹念に調べ、ブッシュが信心深いと知る。彼は会談前の非公式の対談で、「別荘が全焼したが、母がプレゼントしてくれたアルミニウム製の十字架だけが残った」との奇跡を話す。ブッシュはこの話を聞き、「私は彼の瞳を見た。彼は実直で、信じるに値する。彼の魂を感じた」と述べる。この「瞳に魂を見た」は米政界で有名な言葉になる。一方バイデンは「瞳を見たが、魂は感じられなかった」と述べ、共和党の重鎮ジョン・マケインは「瞳を見たが、3つの文字が見えた。KとGとBだ」と述べている。

○ミサイル防衛
・首脳会談がブッシュ就任から半年も要したのは、彼がロシアに高圧的だったからだ。2001年2月連邦捜査局(FBI)が局内のロバート・ハンセンを、機密情報をソ連・ロシアに流した容疑で逮捕する。報復として、ロシア外交官50人を国外追放する。さらにロシア国民のトランジット・ビザの取得を厳格化する。
・5月彼は国防大学で演説する。「冷戦は終わった。今のロシアはソ連とは異なる。政府は共産党政権ではない。大統領は選挙で選ばれる。ロシアは我々の敵でなくなった」と述べる。一方「世界は不確実だ。多くの国が核や化学・生物兵器を保有し、弾道ミサイルを開発し、大量破壊兵器を撃ち込む事ができる」とし、「ミサイル防御構想」を打ち出す。そして構想実現のため、「弾道弾迎撃ミサイル(ABM)制限条約」の修正を訴える。

○真っ先の電話
・ABM制限条約は弾道ミサイル迎撃システムの開発を制限し、その配備を国内2ヵ所に限定する。無防備にする事で、逆に核兵器の使用を抑制する。この条約がミサイル防御構想の妨げだった。これらの対立の下で首脳会談が行なわれた。軍備面での成果は乏しく、閣僚級の定期協議に留まった。ただしブッシュに「瞳に魂を見た」と述べさせた事で、プーチンは満足したと思われる。

・9月11日「米国同時多発テロ事件」が起き、犠牲者は3千人に及ぶ(※詳細省略)。プーチンはすかさずブッシュに電報し、「国際テロの脅威に立ち向かおう」と電話も入れる。プーチンが米国に最も近付いた瞬間だ。

<4.対テロ協調>

○国際社会は団結を
・9月11日プーチンは国内に向け演説する。「米国は国境を越えた国際テロに見舞われた。これは文明化された人類に対する恥知らずな挑戦だ。これは21世紀の疫病と言えるテロとの戦いだ。ロシア人はテロが何かを知っている。従ってロシア人は米国人の心情を理解できる」(※大幅に要約)。ブッシュに送った電報も同様の事が記された。翌日プーチンとブッシュが電話会談する。ブッシュは「ロシアは最初に反応し、同情してくれた」と感謝し、「国際テロに協調して行動し、米ロはもっと接近すべき」で両首脳は一致した。

○総力戦
・当時プーチンはチェチェン共和国の独立派武装勢力と戦っていた。首都グロズヌイの空爆などで国際的な批判を受けていた。彼は武装勢力の背後にアルカイダなどの国際テロ組織があると主張していた。彼は米国と協調し、批判を逃れようと考えた。
・9月20日ブッシュは議会で演説する。実行犯はアルカイダと断定し、アフガニスタン(※以下アフガン)のタリバン政権に、ウサマ・ビンラディンなどのアルカイダの指導者の引き渡しを求める(※イスラム教には、助けを求めて来た人を守る義務がある)。さらに総力戦を宣言し、軍に戦闘態勢を指示する。

○裏庭を開放
・9月24日プーチンは声明を出す。「ロシアは『国際社会は国際テロとの戦いで結集すべき』と訴えてきた。ロシアはその用意がある」とし、5つの対米支援策を掲示する。①テロ組織/訓練施設の情報提供、②人道援助物資を運ぶ軍用機の領空通過の容認、③中央アジアの飛行場(基地)の提供、④探索・救助の国際活動への参加、⑤アフガンの反タリバン勢力(北部同盟)への軍事支援。そして「チェチェン紛争も国際テロリズムと切り離せない」とし、米欧にチェチェンでのロシア軍の行動への理解を求めた。
・ともかくロシアが中央アジアの基地の利用を認めたのは、米国にとって大きな成果だった(※詳細省略)。ただしロシア国内の強硬派はこれに反対した。これにより中央アジア諸国は米軍に基地の利用を認めた。10月7日ブッシュはアフガンへの空爆と地上軍の派兵を命じる。米英などの有志連合がアフガンを攻撃する。同時多発テロにより、米ロが戦後初めて共通の敵「国際テロリズム」に敵対する事になる。

<5.薄れる信頼、募る不信>

○アフガンからイラクへ
・プーチンは米国のアフガンでの軍事作戦を支援するが、単独での行動は牽制し、声明に「世界の安保を強化するため、国連/国連安全保障理事会(※以下安保理)を強化する必要がある」とした。ところが有志連合は安保理決なく行なった。しかし当時はアルカイダの掃討はやむを得ないとの認識だった。実際事件翌日、テロを批判する安保理決議が採択されていた(※詳細省略)。
・ところが2003年ブッシュはアフガンに続きイラクを標的にする。その理由は「サダム・フセイン政権は大量破壊兵器を保有する」「イラクはアルカイダと繋がっている」で、「イラクは湾岸戦争(1990~91年)で大量破壊兵器の破棄を約束したが、保有している」とした。

○パウエルの嘘
・2003年2月5日米国はイラク攻撃のお墨付きを得るため、安保理でコリン・パウエル国務長官がイラクの国連決議違反を報告する。盗聴した音声を流し、「イラクは炭疽菌/ボツリヌス毒素/リシンを兵器化し、チフス/コレラ/天然痘なども作った」「フセインはビンラディンの下に部下を送り、書類偽造技術を教えた」などを報告する。ロシアは独仏中と共にイラク攻撃に反対する。
・安保理の承認を得られないまま、3月20日米英軍が攻撃を始める。結局大量破壊兵器は発見されなかった。パウエルは「人生の汚点になる」と述べている。プーチンのブッシュへの信頼は薄れ、対米不信が増幅した。

○米国の一方的離脱
・ロシアの学者は「プーチンはブッシュを慣習を打ち砕く強い理想的な指導者とし、羨み、尊敬し、恐れた」とした。ところがイラク戦争により、尊敬の念は揺らぐ。またその前のABM制限条約の修正もそうだった。ブッシュは「ならず者国家/テロリストによるミサイル攻撃にも備える必要がある」とした(※ブッシュ政権は軍産複合体だったかな)。米国は条約の修正や条約からの脱退などをロシアに提案する。ところがロシアは「ABM制限条約は米ロの核管理の要」として譲らなかった。

・2001年12月結局米国は条約から離脱する。翌年1月ブッシュは一般教書演説でイラン/イラク/北朝鮮を「悪の枢軸」と非難し、ABM制限条約からの離脱を「これらの『ならず者国家』への対応」とし、「ロシアを標的にしていない」と述べる。前年12月プーチンは米国の離脱を受け、「条約は離脱の権利を与えており、意外ではない」「ただし米国の決定は誤りで、米ロは新たな戦略的相互関係の枠組みが必要」と声明している。彼は米国への不信を募らせるが、修復不可能な状態になるとは思っていなかった。後に米国の「ミサイル防衛構想」が深刻な火種になる。※似た話に、1980年代米国の戦略防衛構想「スター・ウォーズ計画」がソ連の崩壊を招いたとの話があった。

<6.ミュンヘンの逆襲>

○カラー革命
・米国はABM制限条約から一方的に離脱し、安保理承認を得ずイラク戦争に踏み切り、プーチンは対米不信を募らせる。イラク戦争は2003年3月に始まるが、11月ジョージアで政変が起きる。ソ連で外相を務めたシュワルナゼが大統領に就いていたが、産業は育たず、国は貧しかった。11月2日議会選挙が行なわれる。出口調査では反政権勢力が優勢だったが、開票率50%の段階でシュワルナゼ勢力が優位と発表された。これにより大規模な抗議運動が起、反政権勢力は議会を占拠する。11月23日シュワルナゼは大統領を辞任する。これが無血の「バラ革命」だ。翌年1月反政権運動を主導した元法相ミハイル・サーカシビリが大統領選で圧勝する。彼は米国での留学・勤務経験があり、親米欧だ。

・旧ソ連の民主化運動が続く。2004年11月21日ウクライナ大統領選の決選投票が行なわれる。24日ヤヌコビッチ(親ロシア派)がユーシェンコ(新米欧派)に勝利と発表される。プーチンは選挙期間中にウクライナを2度も訪れ、最終結果が出る前にヤヌコビッチを祝福する。ユーシェンコ陣営が選挙不正を訴えると、市民も賛同し、民主化運動が始まる。これが「オレンジ革命」だ。

○米一極支配に反旗
・ユーシェンコは最高裁判所に再選挙を要請し、12月26日再選挙で彼が勝利する。彼の妻の家族は米国に亡命しており、ロシアは米国が民主化運動を煽ったと批判する。選挙前の9月彼はダイオキシンを盛られたが、真相は不明だ。

・2005年春キルギスでも反政権運動により、アスカル・アカエフ大統領が辞任する。旧ソ連諸国では、2004年3月バルト3国(エストニア、ラトビア、リトアニア)/スロバキア/ブルガリア/スロベニア/ルーマニアがNATOに加盟する(※第2弾だな。ほぼ今の加盟国になった)。プーチンはロシアでさえ米国一極支配に飲み込まれるとの危機感を持つ。

・2007年2月10日「ミュンヘン安全保障会議」でプーチンが演説する(※同会議の詳細は省略)。彼は冒頭で「会議の場なので、腹を立てないで欲しい」と前置きし、「現代世界では一極支配は認められない」「一方的・非合法な行動は問題を解決せず、新たな人的被害や緊張の火種を生む」と批判する。

○コソボ独立
・さらに彼は「国際問題で抑制できない程、軍事力が使われ、政治解決が不可能になっている」「国際法の基本原則が守られていない」「経済・政治・人道において、一国の規範が強要されている」「武力行使は国連の承認があった場合だけ」と批判する。米国のミサイル防衛システムの欧州配備に対しても、「北朝鮮が米国を攻撃する際、ミサイルが欧州を通過する事はない」と批判する(※攻撃なら分るが、なぜミサイル防衛システムを警戒するのか)。NATOの東方拡大に対しても、「相互信頼を損なう挑発行為」と批判する。これにメルケルなど首脳・閣僚は驚き、「第2の冷戦が始まった」との発言もあった。※たまにこのプーチンが怒って演説している映像を見る。

・しかしブッシュは気にせず、ポーランドに迎撃ミサイル基地、チェコにレーダー施設の建設を始める。そして「何れも『ならず者国家』からの防衛のためで、ロシアを意識したものではない」と説明する。2007年6月「G8ハイリゲンダム・サミット」でプーチンとブッシュが会談する。プーチンがアゼルバイジャンのレーダー施設の共同利用を提案するが、ブッシュは拒否する。プーチンの対米不信は敵愾心に変わっていく。

・2008年2月コソボ自治州がセルビアからの独立を宣言する。コソボはユーゴ空爆(1999年)以降、国連が暫定統治していた。ロシアは独立に反対していたが、独立宣言すると米欧は直ちに承認する。

<ミニ解説2 メルケルとプーチン>

・メルケルはプーチンと最も長く付き合った政治家だ。彼女は東独で育ち、ロシア語の弁論大会で優勝している。彼は東独勤務の経験があり、ドイツ語を流暢に話す(※共に相手国に憧れていたかな)。1989年ベルリンの壁が崩壊するが、この日彼女は研究所での仕事を終え、西独に入り祝杯を上げている。一方彼はKGBの工作員としてドレスデンに駐在していた。彼が崩壊後に行なったのは、膨大な資料の焼却だった。KGBの建物はシュタージ(※東独の秘密警察)の近くにあり、多くの群衆が集まっていた。彼はソ連の無力に失望した。翌年1月彼は祖国に戻り、レニングラード市の議長サブチャクの下で働く。これが大統領への一歩になる。

・2人には共通点が多いが、当初は不仲だった。プーチンは前任者のシュレーダー首相とは上手く付き合った。彼には西側にもう1人の「無二の友人」がいた。イタリアのベルルスコーニ首相だ。彼の家族は、サルデーニャ島にあるベルルスコーニの別荘で休暇を楽しんでいる。2007年彼はソチでメルケルと会談する。彼女は大の犬嫌いだが、この時彼は巨大なラブラドールを連れて現われる。2014年ウクライナ東部紛争が起きるが、それでも彼女は調停に奔走し、翌年2月「ミンスク合意」を仲介する。しかしこの時彼女は「彼は私達と違った世界を生きている」と述べている。

第3章 大国主義と国家統制

<1.成功体験>

○5日間戦争
・2022年2月24日プーチンは「特別軍事作戦」を開始するが、数日で戦闘は終わると考えていた。これは成功体験があったからだ。2008年8月ロシアとジョージアの間で「グルジア戦争」があった。5月から大統領は後輩のメドベージェフで、彼は首相(連邦政府議長)だが実権は握っていた。ジョージアには南オセチア自治州(※同国北部)/アブハジア自治共和国(※同国北西部)があり、親ロシア派住民が住み、ロシアが軍を駐留させていた。2003年「バラ革命」後、サーカシビリが大統領に就いていた(※任2004年1月~07年11月、2008年1月~2013年11月)。8月7日彼は南オセチアを奪還するため、南オセチアに侵攻する。ところがロシア軍が圧倒的な軍事力でゴリ(※同国中部)や黒海の港町ポチ(※ポティ?)を占領する。戦争ほ5日間で終わり、「5日戦争」とも呼ばれる。

○ブッシュの影響
・開戦時メドベージェフは夏季休暇中で、攻撃の支持はプーチンが行なたっと考えられる。この8月8日は北京夏季五輪が始まった日で、プーチンは開会式に出席していた。ウクライナ侵攻は2022年2月24日に始まるが、これは北京冬季五輪が終わった5日後になる。中ロ関係は蜜月と言われるが、平和の祭典を2度も戦争で汚している。
・サーカシビリは親米欧路線だが、無謀に南オセチアを攻撃した訳ではない。2008年1月ブッシュはキーウを訪れ、「ウクライナのNATO加盟を全面的に支持する」と表明する。続いてブカレスト(ブルガリア)でのNATO首脳会議に出席し、ウクライナ/ジョージアは加盟準備のための「加盟行動計画」(MAP)に参加させるべきと主張していた。

○一矢報いる
・しかしメルケル首相/サルコジ大統領などが「ウクライナの国民はNATO加盟に反対している」「ジョージアは南オセチア/アブハジアで軍事衝突が起きる可能性があるが、それでも加盟させるのか」と反対し、結局MAPへの参加はならなかった。サーカシビリはこれを背景に南オセチアに侵攻した。
・プーチンはこのブッシュの行動に激怒した。同時多発テロ後、プーチンは戦略的な行動で信頼を得ていた。しかし米国が一方的にABM制限条約から脱退し、さらにグルジア戦争で関係が冷却化する。
・グルジア戦争の停戦はサルコジが仲介する。9月1日EU首脳会議が開かれ、ロシア軍の過剰な軍事行動が議論されたが、対ロ制裁は発動しなかった。停戦後プーチンは南オセチア/アブハジアの独立を承認する。彼はグルジア戦争でブッシュに一矢を報いた。

<2.ユーロマイダン>

○国家ではない
・2008年4月「NATO・ロシア理事会」でプーチンが「ウクライナは国家ではない。ウクライナは東欧と我々が与えた土地だ。ウクライナがNATOに加盟するなら、クリミアと東部を除いた地域になる」と述べる。彼は当時からこの考え方で、ウクライナ侵攻の予告に思える。
・同年5月メドベージェフが大統領に就き、彼は首相(連邦政府議長)に就く。この4年後の2012年に3期目の大統領に就く(※2012年より任期は6年)。1・2期目は経済再生/国民生活の安定を政策課題にした。3期目に掲げたのが「大国主義」で、これをソチ冬季五輪(2014年2月)で誇示する。しかしこの頃ウクライナ情勢が、きな臭くなる。

○独立記念碑の下で
・2013年11月21日ムスタファ・ナイエムの呼び掛けで、キーウの独立広場に親米欧・反政権の人々が集まり始める。大統領には、オレンジ革命で大統領を逃したヤヌコビッチが就いていた(※任2010年2月~14年2月)。彼は親ロシア派だが、EUとの関係を深める連合協定を締結しようとしていた。これに干渉したのがプーチンで、締結を見送れば多額の経済支援をすると提案し、彼はこれを受け入れる。抗議行動は拡大し、独立広場は反政権派に占拠される。欧州への接近を望む市民が広場(マイダン)を占拠したため、独立広場は「ユーロマイダン」(欧州広場)と呼ばれた。
・12月17日プーチンは彼をモスクワに呼び、経済支援策(150億ドルの金融支援、天然ガスの供給価格の引下げ)を伝える。市民はこれを評価しなかった。秘密の議定書があり、そこにマイダン参加者の排除があると疑った。

○ソチ五輪のさなか
・2014年2月7日プーチンはウクライナ問題は解決したと見て、ソチ冬季五輪の開会式に臨む。同性愛宣伝規制法の制定などの人権抑圧政策から、西側首脳は開会式に参加しなかった(※ロシア選手の活躍を説明しているが省略)。
・この頃ウクライナ情勢は緊迫し、特殊部隊とデモ隊が一触即発の状態だった。2月18日武力衝突が起き、100人近い死者が出る。20日独仏ポーランドの外相が仲介し、大統領選の前倒しと大統領権限の縮小で和解する。ところが納得できない市民が大統領官邸・政府ビル・議会を占拠する。ヤヌコビッチは逃げ出し、市民革命が成就する(マイダン革命)。

<3.反撃の一手>

○大統領を助けよ
・プーチンは大統領公邸からヤヌコビッチ救出の指揮を執り、2月23日成功する。この時彼は「こうなった以上、我々はクリミアをロシア領に戻さざるを得ない」と述べる。翌年3月国営テレビ「ロシア1」がドキュメンタリー『クリミア-祖国への道』を放映する。これは彼を救世主/冷徹・明晰/偉大な指導者とするプロパガンダ番組だが、これにこのエピソードが出てくる。※ヤヌコビッチ逃走の詳細は省略。

○革命の歓喜の裏で
・キーウでは野党勢力が主導権を握り、2月22日ヤヌコビッチの解任と5月25日大統領選が決議される。その後の大統領代行が選出され、親米欧の連立政権が開始される。5月大統領選で大手菓子グループのポロシェンコが選ばれる(※任2014年6月~19年5月。次期大統領ゼレンスキーは元コメディアンで、彼も政治家でない)。
・プーチンはこの政権を「憲法違反のクーデターで、武力による権力奪取」と非難する。2014年2月下旬、クリミア半島に記章のない迷彩服を着た兵士が現われ、空港/軍施設/議会/政府庁舎などを警護し始める。この時彼は米欧の妨害に備え、地対艦ミサイルを配備していた。3月16日この状況下でクリミアのロシア編入の住民投票を行なう。投票率は8割を超え、賛成が97%となった。これを受け自治政府は独立を宣言し、ロシア編入を要請する。※形式的には問題がない様にした。

○フルシチョフの贈り物
・なぜウクライナ政変の対抗策がクリミア併合だったのか。それは1954年スターリンの後を継いだフルシチョフが、クリミアをロシア領からウクライナ領に帰属を替えたからだ。クリミアはウクライナへの贈り物だった(※詳細省略)。クリミアの6割がロシア系で、ソ連崩壊により帰属が問題となる。プーチンは「フルシチョフの決断は憲法違反」と公言している。
・クリミア併合の2つ目の理由は、ロシアの安全保障だ。クリミアにある軍港セバストポリはロシア黒海艦隊の主要基地で、ソ連崩壊後は貸与契約していた。親ロシア派のヤヌコビッチにより2042年まで期間延長されていたが、政変により打ち切られる恐れがあった。

<4.聖なる半島>

○米国の関与
・2014年3月初めプーチンとオバマ(※任2009年1月~17年1月)が電話会談する。オバマは6月ソチで開かれるG8サミットの出席をネタに、ウクライナへの軍事的な関与を控える様に要求する。しかし彼が問題視していたのは米国による内政干渉だった。彼はマイダン革命でもオレンジ革命(2004年)と同様、米国が反政府勢力を支援したと確信していた。実際前年末、米国の国務次官補と駐ウクライナ大使が独立広場でクッキーを配る写真が存在した。また同年2月、国務次官補と駐ウクライナ大使の会話がYouTubeで拡散していた(※詳細省略)。実際翌年2月オバマがマイダン革命に仲介した事実を認める発言をする。この米国との確執が、クリミア併合の3つ目の理由だ。

○ロシアの土地
・2014年3月18日プーチンはクリミアの併合を宣言する。国民への演説で、「クリミアには古代ギリシャの植民都市ヘルソネソス(ケルソネソス)があり、キエフ公国の聖ウラジミール1世がそこで洗礼を受け(※988年)、キエフ公国をキリスト教化した(※これは逆にウクライナ領の理由では)」「1783年ロシア帝国がクリミアを併合したが、その時戦った兵士の墓がある」「セバストポリには黒海艦隊の基地がある」などを列挙する。また「16日の住民投票で有権者の82%が投票し、96%が再統合に賛成した」「ロシアでの世論調査でも、95%がクリミアのロシア系住民の利益を守るべきとした」などの根拠を述べる。さらに2008年コソボがセルビアからの独立を一方的に宣言し、即座に米欧が承認した事例も述べる。また「クリミアでは流血が一度もなかった」と主張する。

○西側との決別宣言
・さらに「1999年東欧セルビアの首都ベオグラードが何週間もミサイル攻撃され(※空爆は爆撃機ではなく、ミサイルだったんだ)、その後は真の武力干渉が行なわれた」と述べ、NATO軍による人道的義務と称した空爆を批判する。この演説でコソボを含むロシア外交における様々な懸案を列挙し、米欧を批判する。具体的にはウクライナへの政治介入、NATOの東方拡大、欧州でのミサイル防衛システムの構築、冷戦期の貿易制限措置「対共産圏輸出統制委員会(COCOM)規制」などだ。この演説は西側との決別宣言と言える。

<5.メディア統制>

○高い支持率
・ロシア国民はプーチンを強い大統領として評価する。一方西側は制裁措置の一環としてロシアをG8から除外する。世論調査で彼の支持率は89%になり、過去最高になる(※彼の支持率を表すグラフあり)。ウクライナ侵攻でも、59%の支持率が80%に上昇している。しかしクリミア併合と異なり、大義名分が乏しい。「ウクライナのNATO加盟阻止」「同国東部のロシア系住民の保護」などを掲げたが、高揚感はない(※クリミアは無血だが、今回は戦闘があるし)。国際社会では、無差別のミサイル攻撃/住民への暴行・虐殺/病院・学校・インフラの破壊が報道され、プーチンは批判される。これからするとプーチン支持は底堅いと言える。それは情報統制と反政府活動の抑え込みによる。

○クークリへの怒り
・英国に亡命したロシアの政商ボリス・ベレゾフスキーが述べている(※2001年亡命)。「エリツィンは中央集権とマスメディアの統制を壊した。ところがプーチンはそれらを復活させようとしている」「彼は大統領選後直ぐ、自分の決断力を示すメッセージ『我々はオルガルヒと闘っている』を誇示する必要があった。これは実際はメディアとの闘いで、これを自分の管理下に置こうとした」。ロシアはエリツィンが急進経済改革を断行した事で大混乱になり、大富豪(オルガルヒ)が誕生し、彼らはメディアにも進出する。彼も「ロシア公共テレビ」(ORT、現第1チャンネル)/日刊紙コメルサントなどを買収する。彼はエリツィンの黒幕になり、プーチンを大統領に抜擢している。

・ウラジミル・グシンスキーは「メディア王」と呼ばれた。1993年民間テレビ局「独立テレビ」(NTV)を創設し、ORT/国営ロシアテレビ(ロシア1)と共に3大ネットワークになる。NTVは自由闊達を売り物にした。人気だったのが『クークリ』(人形たち)で、政治を風刺する人形劇だった。エリツィンは酔っ払いとして登場させ、プーチンはKGB出身者として登場させた。プーチンが大統領に就任した4日後に、彼は強制捜査・逮捕され、国外に脱出する。NTVの経営権はガスプロムに移り、国家の管理下になる。

○クルスクの恨み
・2000年8月12日バレンツ海で軍事演習していた原子力潜水艦「クルスク」が音信不通になる。翌日水深108mで発見される。プーチンはソチで夏季休暇していたが、国防相から「こちらで対処する」と言われ、休暇を続ける。救出は難航した。19日彼はモスクワに戻る。21日ノルウェー/英国により118人の死亡が確認される。
・彼の対応が国民から非難される。その急先鋒になったのがORTだ。彼はORTの大株主ベレゾフスキーを呼び出し、「卑怯だ」と批判し、「ORTは自分が運営する」と捨てゼリフする。ベレゾフスキーは英国に亡命し、株式も手放す。ORTは国の管理になる。結果的にプーチンが3大ネットワークを支配下に置く(※共に2000年の話だな)。

<ミニ解説3 プーチンのメディア活用法>

・プーチンは大統領就任当初から3大ネットワーク(テレビ局)を支配下に置き、新聞・ネットメディアにも圧力を掛け、批判的なメディアを排除した。ウクライナ侵攻での特別軍事作戦の開始時や4州併合などの節目で自ら演説し、理解・協力を求めた。広大なロシアではテレビの存在感が大きい。政治的な会合、彼と内外の要人や財界トップとの面談などは連日放映された。『プーチン』『クリミアの春』などのプロパガンダ映画も放映された。
・議員向けの年次教書演説、国民向けのホットライン、メディア向けの年末記者会見なども放映された(※2020年憲法改正、2023年新START履行停止を詳述)。彼が最も重視したのが『ホットライン』だ。これは彼が国民の様々な質問に生で答える番組だ(※詳述しているが省略)。基本年1回の開催で、70~80の質問に答え、放送時間は4時間に及ぶ。ただし質問者・質問内容は事前に決められる。2014年4月「色丹島の魚加工工場で働いたが、給料を払ってもらっていない」との質問に、彼はその場で連邦検事局に対応を命じた。翌月安倍首相がソチを非公式訪問する予定で、2島返還さえ認めない意思を示した(※クリミア併合直後だな)。

<6.委縮する社会>

○外国の代理人
・2022年3月14日かつてベレゾフスキーが支配していた「第1チャンネル」のニュース番組『ブレーミア』の放送中に「戦争反対」のメッセージを掲げ、「戦争反対、プロパガンダを信じないで下さい、皆さんは騙されています」と叫ぶ女性が乱入する。彼女はウクライナ人とロシア人のハーフで、2月に始まったウクライナ侵攻を非難した。彼女は3万ルーブル(3万円)の罰金を払い、放送局を辞職する。自宅軟禁に置かれるが、仏国に亡命する。
・各テレビ局はウクライナ侵攻を非難せず、ウクライナを非難し、特別軍事作戦を正当化した。インターネットを使わない高齢者など、国民の多くはプロパガンダを信じた。メディア規制はテレビだけでない。2012年「外国のエージェント(代理人)に関する法律」の適用範囲を広げ、メディア規制を強化する。ウクライナ侵攻後には、軍の偽情報を拡散させると、懲役15年を科す法律を成立させる。独立系テレビ局「ドーシチ(雨)」、民間ラジオ局「モスクワのこだま」、独立系新聞「ノーバヤ・ガゼタ(新しい新聞)」などは活動停止に追い込まれる。SNS(ツイッター、インスタグラム、フェイスブック)は遮断される。

○恥さらし
・ウクライナ侵攻直後(2022年2月)ロシアの知識人が連名で声明する。「ウクライナ侵攻は恥だ。この責任を将来世代が負う事になる。戦争の中止を要求する」(※要約)。一般市民も抗議デモを行なった。同年9月部分動員が発令された時にも抗議デモが行なわれた。しかしいずれも警察・治安当局により下火になる。拘束者は2万人に及ぶとされる。無許可の集会・デモの参加者には厳罰が科される。閉塞感が高まり、海外脱出する人もいる。しかしプーチンは最初から反政権運動を厳しく弾圧していた訳ではない。

○一筋の涙
・2011年12月連邦議会選挙が行なわれる。この選挙は政権に冷や汗だった。「投票前から投票用紙が入っていた」「投票所を巡る一団がいる」「ロッカーに隠された投票用紙の束があった」。投票直後から選挙不正の映像がSNSで流れた。当時プーチンは与党「統一ロシア」の党首で、翌年3月大統領選の出馬を表明していた。
・選挙結果は散々で、統一ロシアの得票率は5割を下り、2/3あった議席は過半数を僅かに上回る程になった。野党勢力・一般市民は彼の退陣を要求し、集会・デモを行なった。これは彼の統治期間で最も深刻なものになる。ところが3月の大統領選で6割の得票率で当選する。その晩モスクワの広場で集会が開かれたが、彼の目から涙が頬を伝った(※この映像もたまに見る)。
・大統領に就くと、2012年6月デモ規制強化法に署名する。また野党勢力を選挙から排除したり、野党指導者の監視・拘束を執拗に行なうなど、反政権運動への弾圧を強める。

第4章 強権統治と命の重さ

<1.ブチャの惨劇>

○キーウの攻防
・2022年4月5日国連安保理の緊急会合でゼレンスキー大統領がブチャで起きた惨劇を訴える。「拷問され後頭部を撃たれた人、井戸に落とされた人、手榴弾で爆殺された人、戦車で轢かれた人、レイプされた人・・、これらはイスラム国が占領地で行なった事と変わらない」。2月24日ロシアは「特別軍事作戦」を開始した。プーチンは数日でキーウを占領し、傀儡政権を樹立する想定だった。
・戦闘開始間もなくゼレンスキーは停戦交渉に臨み、ウクライナ非武装化・中立化/NATO非加盟/ゼレンスキー政権などが焦点になる。彼はキーウに留まり、軍の士気も高まり、首都陥落を逃れる。

○戦争犯罪
・ロシア軍は補給路の問題もあり、首都制圧を諦め、戦力を東部・南部に集中させる。ところがブチャで民間人の無残な遺体が、400体以上発見される。4月7日国連総会でロシアを国連人権理事会の理事国から外す決議が採択される(賛成93、反対24、棄権58。※国連人権理事会だけなのか)。ウクライナ国防省は「ロシア陸軍第64独立自動車化狙撃旅団が戦争犯罪に関与した」とし、その兵士リストを公開する。この「ブチャの惨劇」を機に停戦交渉は頓挫する。プーチンはこの惨劇をフェイクと主張する。さらにロシア国民にフェイクと思わせるため、同旅団に「親衛隊」の名誉を与える。

○人命軽視
・ゼレンスキーは国連で「ブチャで起きた事は、他の地域でも行なわれている」(※要約)と訴える。実際ロシア軍はアパート/ショッピングセンター/病院/学校などを空爆し、占領地では民間人を虐殺し、金品を奪い、子供などをロシアに連行している。戦闘は東部2州・南部2州が中心になるが、10月よりウクライナ各地のエネルギー・軍事・通信施設をミサイル攻撃する。この直前(10月8日)クリミア橋で爆発が起こり、プーチンは「テロ行為が続けば、報復は厳しくなる」と警告していた。

<2.KGBの系譜>

○人殺しの独裁者
・この報復は執拗だった。厳しい冬を迎えるなか、インフラへの攻撃が繰り返され、停電・断水となった(※詳細省略)。12月8日クレムリンで「金星勲章」の授与式が行なわれ、プーチンは「我々がインフラを攻撃していると言われる。それは本当だ。しかし最初にクリミア橋を攻撃したのは誰だ」とうそぶく。
・彼を強く批判してきたのがバイデンだ。「彼は極めて非人道的だ」「彼は人殺しの独裁者だ」「帝国を再建しようとする独裁者により、自由が奪われる事はない。ロシアがウクライナに勝つ事はない」(※要約)など、外交問題になりかねない言葉を吐く。

○不滅の連隊
・2015年5月9日モスクワの「赤の広場」で「対ドイツ戦勝記念式典」が開かれる。この戦いをロシアは「大祖国戦争」とし、しかも戦勝70年の節目だった。ところがクリミア併合により、日米欧の首脳は式典に参加しなかった。一方軍事パレードの後に「不滅の連隊」の行進が行なわれた(※詳細省略)。
・これと連動していたのだろう、4月30日プーチンは珍しく私生活を明かしている。第2次世界大戦中父は内務人民委員部(NKVD)の破壊工作部隊に配属され、橋・線路などを破壊した。父はある村で包囲され、部隊の28人中24人が戦死する。その後父は軍に編入され、レニングラードで戦う。手榴弾で脚を負傷したため、凍結したネヴァ川を渡るのは困難だった。ところが偶然近所の隣人に会い、ネヴァ川を渡る事ができた。その後隣人は再び戦場に戻った。1960年代父は偶然その命の恩人に再会する。

○父親の影
・プーチンの手記を続ける。父は入院するが、自分の病院食を食べず、見舞いに来た妻に与えた。ところが父が倒れ、これがバレて、妻は出入り禁止になる。さらに3歳の息子(※プーチンの兄)は飢えから救うため、当局が連れ去る(※その後どうなったのか。ロシアではこのパターンが少なくなさそう)。父が退院し家に戻ると、衛生兵が死体を運び出そうとしていた。しかしそれは衰弱した妻だった。その後母は生き延び、41歳でプーチンを生む。※その戦争を自分がやっている。

・1941年6月22日独ソ戦が始まり。7月末レニングラード州党委員会がパルチザン部隊を創設し、NKVDに従属させている。プーチンの父もこれに参加したのだろう。NKVDはKGBの前身のため、父はKGBにも関係したかもしれない。プーチンは映画『盾と剣』を見て、KGB職員を目指したとされる。彼は「1人の諜報員が軍1千人の運命を決める事に感動した」と述べている。だが父の影響もあっただろう。

<3.醜聞ビデオ>

○中庭のごろつき
・プーチンの古い友人は「彼は誰とでも喧嘩した。侮辱されると瞬時に相手に飛び掛かった」と言う。1952年彼はレニングラードで生まれる。彼は多くの時間、アパートの間の中庭にいた。そこでは仕事をしない人が酒を飲んだり、不良少年がたむろした。彼がピオネール(共産主義の児童組織)に入るのは遅く、素行が悪かったと思われる。その後ソ連の格闘技サンボや柔道に巡り合い改心し勉学に励み、レニングラード大学法学部に入学し、KGB職員になる。

○二流の諜報員
・彼は友人にKGB職員である事を明かさなかった。先妻にも最初は刑事部で働いていると言っていた。彼はKGBでエリートではなかった。しかしここでの経験が人生に大きく影響する。1996年レニングラード第1副市長を辞し、大統領府総務局次長に就く。彼は「忠誠心が厚い」とされ、大統領府副長官/第1副長官と昇進し、1998年KGBを引き継ぐFSB長官に就く(※KGBはソ連の機関で、その国内部門を引き継ぐのがFSB)。そこで期待された任務がエリツィン・ファミリーを救う工作だった。

○スクラトフ事件
・当時アジア通貨危機があり、大統領府と議会は首相(連邦政府議長)の選任で対立した。そんな中でエリツィン・ファミリーの汚職疑惑が起きる。政府関係の建物の改修を行なったスイス企業が、大統領顧問タチアナ・ディアチェンコ(エリツィンの次女)などに多額の賄賂を渡した疑惑だ。この捜査に積極的だったのが検事総長ユーリー・スクラトフだった。1999年3月17日大統領側が彼を解任させようとしたが、議会が否決する。同日夜、国営テレビがスクラトフに似た人物が売春婦と密会する映像を流す。これをプーチンが本物とし、結局スクラトフは解任される。

・この経緯をスクラトフが語っている。17日上院で彼の解任動議が否決される。翌朝彼はエリツィンの入院先の病院に呼ばれる。病室にはエリツィン/プリマコフ首相/プーチンがいた。エリツィンは「あなたが辞表を書けば、テレビ局に放映を止めさせる」と言う(※既に放映されているのに)。彼が疑惑の当事者の名前を列挙すると、エリツィンは「あなたとは一緒に働けない」と言う。彼は辞表を書くが、捜査を続けたいので日付を4月5日とする事で合意する。彼が病室を出ると、プリマコフが追い駆けて来て、「彼らと一緒に働けない。私も辞める」と言った。この「スクラトフ事件」でプーチンはエリツィンを救い、首相/大統領代行と異例の出世をする。

<4.疑惑の砂糖袋>

○大統領の後継者
・エリツィンが次期大統領にしたかったのは、次女タチアナと結婚した大統領府長官ワレンチン・ユマシェフだった。(※第1副首相ボリス・ネムツェフも紹介しているが省略)。一方エリツィンは内政・外交で存在感を見せるプリマコフ首相を警戒した(※エリツィンとプリマコフは結構対立したみたい)。1999年5月エリツィンはプリマコフを解任し、第1副首相セルゲイ・ステパシンを首相に任命するが、3ヵ月で解任する。そこで信頼が厚いプーチンを首相代行に任命し、1週間後議会の承認で正式に首相に就く。エリツィンはプーチンが自分の改革路線を引き継ぐと考えていた。※詳しくないが、この頃大変政情が不安定そう。

○アパート連続爆破事件
・プーチンは首相に就き、大統領の後継指名を受ける。当時彼の知名度は低く、大統領選(2000年3月)での当選は不透明だった。1999年9月8日モスクワの9階建アパートで大爆発が起きる。当初はガス漏れと考えられていたが、TNT火薬200Kgに相当する大爆発で、犠牲者が100人近くになった。9月13日にも9階建アパートで大爆発が起き、犠牲者が120人を超える。

・エリツィンはこれをチェチェン武装勢力によるテロとする。ソ連末期チェチェンは独立宣言するが、エリツィンは認めなかった。そして1994年軍事進攻に踏み切る。1996年停戦合意し、独立問題は5年間棚上げとなる(※1994~96年、第1次チェチェン紛争)。ところが1999年8月チェチェンが隣国ダゲスタン共和国に進攻し、ロシア軍が空爆などを再開する。アパート爆発事件は、この時期に起こった。ところがチェチェンの指導者は関与を否定している。
・爆発事件は各地で起きる。9月4日ダゲスタンで5階建アパートが爆発(犠牲者64人)。9月16日ロストフ州で9階建アパートが爆発(犠牲者19人)。捜査当局は「何れもチェチェン武装勢力による犯行」とする。9月24日プーチン(当時首相)は怯える国民に、「便所までも追い詰め、ぶちのめしてやる」と庶民の言葉で述べる。その後本格的な軍事行動を開始し、彼の支持率は高まる(※1999~2000年、第2次チェチェン紛争。ただし非組織的な抵抗は続く)。

○リャザンの怪
・彼の会見2日前、奇妙な事件が起きた。リャザン州のアパートに何者かが大きな袋を持ち込んでいた。地元警察が調べると、地下室に時限爆破装置とヘキソーゲンと見られる高性能の爆発物と見付かった。専門機関が調査するとなり、これらはモスクワに移送される。9月24日彼の後任のFSB長官パトルシェフも会見し、「この件は地元の警戒心を喚起するための訓練で、爆破装置は偽物で、袋は砂糖袋だった」と述べる。
・このリャザン州のアパートは中低層向けのアパートで、爆破された他のアパートも同様だ。もしチェチェン武装勢力が計画するなら、富裕層が住むアパートを標的にするはずだ。元FSB職員リトビネンコは、「これは自身を強く見せるためのプーチンの仕業」とした。この2年後米国で同時多発テロが起きる。プーチンは真っ先にブッシュに電話し、国際テロとの戦いで協調しようと呼び掛ける。ところが肝心のロシアの一連のアパート爆破事件の真相は不明のままだ(※自作自演/マッチポンプかな)。なおリトビネンコは英国に亡命するが、毒殺されている(※この件は何となく記憶にある)。

<5.ノルド・オスト>

○10分で占拠
・2001年10月23日夜ロシア初のミュージカル専門劇場で『ノルド・オスト』のロングラン公演が始まる(※大変詳しく説明しているが省略)。初演から1年後も大盛況だった。第2幕が始まった直後、機関銃を持った戦闘員が舞台に上がり発砲し始める。起爆装置を体に巻き付ける女性もいる。劇場が占拠され、900人以上が人質になる。
・プーチンはベルリンでメルケルと会談していたが、直ちに伝えられる。テロリストはチェチェンの武装勢力だった。3年前のアパート爆破事件により、チェチェンはロシア軍の攻撃を受けていた。テロリストは人質解放の見返りに、ロシア軍の攻撃停止・撤退を要求する。

○催涙ガス
・歌手・反政権派・ジャーナリスト・元首相などが劇場に入り、テロリストを説得する。政府は人質を全員解放すれば、ロシア領から無事に出国させると伝える。内相は人命救助を最優先する姿勢を示す。ところがクレムリンでは特殊部隊の強行突入が決定していた。テロリストは「26日6時までに要求を受け入れなければ、人質全員を射殺する」と最後通告する。
・26日未明、劇場内に催涙ガスが散布される。FSB特殊部隊が劇場に突入し、テロリストを射殺する。午前10時作戦成功がプーチンに報告される。多くの人質が催涙ガスで意識不明になる。ガスの種類が伝えられなかったため、病院での治療ができなかった。犠牲者は174人(公式130人)で、テロリストによる射殺は5人だけだった。

○最後通告の有無
・26日夜プーチンは犠牲者が出た事を謝罪するが、「何百人も救う不可能な事を成し遂げた。ロシアを屈服させる事はできない」と豪語する。実はテロリストの最後通告は嘘で、その日は交渉する予定だった。テロリストは人質の多くを解放し、残りの人質と共に中東に逃れ、そこで残りの人質を解放する計画だった。政府がこの交渉を拒否した。※簡略化。

・被害者家族がプーチンの対応を批判し、欧州人権裁判所に提訴する。2011年裁判所は「突入は合法」とするが、死者の多くはガスによるもので、医師にこれに関する情報提供がなかったとして、「人質救出作戦は不適切」とする。
・2018年特別番組『プーチン』が事件を振り返っている。テロリストが人質を「赤の広場」に連れ出し、そこで射殺すると知り、プーチンは「そんな事はさせない」と激怒する。FSB長官パトルシェフがガスを使った突入作戦を提案する。突入当日パトルシェフは彼に「ガスを注入できない」と電話する。彼は「特殊部隊はそれでも突入するか」と訊ね、パトルシェフは「命令すれば、突入します」と答え、彼は「作戦を開始して下さい」と命じる。

<6.他人の血>

○ベスランの悲劇
・2004年9月1日新学期が始まるこの日、北オセチア共和国ベスランの小学校でも校庭で始業式が行なわれていた(※北コーカサスの中央から東に、北オセチア共和国/イングース共和国/チェチェン共和国/ダゲスタン共和国が並ぶ)。小学生・教師・家族など1千人が集まっていた。そこにチェチェン武装勢力のテロリスト約30人が軍用トラックから降り立つ。彼らは生徒達を体育館に押し込めた。出入口に爆弾を設置し、窓は催涙ガスに備え割った。
・テロリストは、北オセチア共和国/イングーシ共和国の両大統領との面談、チェチェンからのロシア軍撤退、逮捕されている仲間の釈放などを要求する。交渉は直接ではなく、携帯で行なわれる。政府が食料・水などの提供を提案するが断る。

・3日テロリストは初日に銃撃され放置された遺体の回収を許可する。回収作業するバスが体育館に着いた時、体育館で爆発が起こる。特殊部隊が体育館に突入し、テロリストは人質を乱射する。体育館は出火し、焼け落ちる。

○強行突入の有無
・学校占拠事件は悲惨な結果になった。犠牲者は350人を超え、内186人が子供で、負傷者は800人となった。最初の爆発や銃撃の原因は分かっていない。翌日プーチンはベスランに入り、病院を見舞う。さらに作戦本部で、「多くの犠牲者を出したのは残念だ。強行突入は計画していなかった。事件の責任はテロリストにある」と述べる。
・被害者家族は真相究明を求めた。1年後プーチンは被害者家族と面談する。家族代表は「私達がどれ程苦痛か分かりますか。この罪は首長のあなたが負うべきです。ベスランの人は皆、あなたが悪いと思っています」と述べる。劇場占拠事件でも学校占拠事件でもプーチンは人命を守らず、自分に逆らうテロリストを「便所までも追い詰め、ぶちのめしてやる」事に執心した。反体制派のジャーナリストは「彼は自分を宣伝するため、他人の血が流れる事を厭わない」と述べている。

○暗殺相次ぐ
・劇場占拠事件(2001年)で仲介役を務めたジャーナリストのポリトコフスカヤは、学校占拠事件でもベスランに向かうが、その飛行機の中で気を失う。一命を取り留めるが、2年後に射殺される。彼女はプーチンを激しく批判していたが、ロシア国内より西側で有名だった(※詳細省略)。他にも著名人の暗殺が相次いでいる。前述の「アパート爆破事件は特殊機関の犯行」とした元FSB職員リトビネンコは、2006年毒殺されている。
・野党勢力の中核で元第1副首相ネムツォフは、2011年下院の不正選挙を批判するが、2015年2月銃撃される。同じくこれを批判した弁護士アレクセイ・ナワリヌイは、2020年飛行機の中で意識を失う。ドイツの病院で一命を取り留めるが、帰国すると刑務所に収監される(※2024年2月刑務所で亡くなる)。他にも反体制派指導者・活動家/ジャーナリストが暗殺・襲撃されている。

<ミニ解説4 チェチェン紛争>

・チェチェンは人口130万人の共和国で、大半がイスラム教徒だ。激しい抵抗の末、1859年ロシア帝国に併合される。第2次世界大戦中スターリンは裏切りを恐れ、チェチェン人を中央アジア/極東シベリアに移住させた。1991年11月大統領ドゥダエフが独立を宣言するが、エリツィンは認めなかった。
・1994年12月ロシア軍がチェチェンに軍事進攻する(第1次チェチェン紛争)。1996年4月大統領が死亡し、停戦合意する(ハサビュルト合意)。この合意で独立問題は5年間棚上げとなる。穏健派の軍事参謀マスハドフが大統領に就くが、独立強硬派が分裂する。※チェチェンの歴代大統領は全員殺害されている。中には携帯で和平交渉中に居場所を知られ、殺害された人もいた。

・1999年8月強硬派の武装勢力が隣国ダゲスタン共和国に進行し、ロシア軍がチェチェンに進攻する(第2次チェチェン紛争)。この時期ロシア国内ではテロ事件が頻発する。大統領選でプーチンに投票するとした人は9月1%、10月15%、11月30%と急増する(※アパート爆破事件は9月)。これは彼がチェチェン攻撃を主導した事による。
・一方彼は独立指導者でイスラム教の高位聖職者アフマト・カディロフをチェチェン大統領に任命する(※任2003年3月~04年5月)。彼はカディロフに資金援助し、独立強硬派を排斥する。2004年5月アフマトは暗殺される。その息子ラムザン・カディロフが跡を継ぎ、独裁体制を築くが、ロシアの傀儡政権になる(※任2007年2月~)。2022年ウクライナ侵攻が始まると、ラムザンは民兵部隊を送る。2023年3月ラムザンの長男アフマトがプーチンと面会している。

第5章 裸の王様

<1.踏み絵の安保会議>

○SVR長官の動揺
・2022年2月21日クレムリンで最高政策決定機関の安全保障会議が公開される(※プーチンとSVR長官セルゲイ・ナルイシキンの会話が記されているが省略)。ウクライナ東部ドンバス(ドネツク州、ルガンスク州)の独立承認がテーマだった。プーチンは一人ひとりを立たせ、その賛否を聞く。多くが「独立支持」を即答するが、ナルイシキンは一家言を持っていたのか躊躇する。この3日後にウクライナ侵攻が始まる。

○ドンバスの争乱
・ドンバスは石炭の産地で、ソ連時代は炭鉱・製鉄・冶金が発展した(※北九州みたい)。ロシア系が移民し、人口の4割を占める。そのため欧州との接近を望む西部地域と異なり、ロシアとの関係強化を望んでいる。

・クリミア併合と同時期(2014年3月)、東部地域でマイダン革命(※同年2月)に反対する勢力がデモ・集会・暴動を起こす(※マイダン革命/クリミア併合/東部紛争はほぼ同時に起きた感じ)。クリミアで暗躍した元FSB大佐イーゴリ・ストレルコフ(※ギルキンが本名みたい)などの義勇兵がハリコフには続々と入る(※ハリコフはロシア語、ウクライナ語はハルキウ。ハリコフはドンバスの北にあるハリコフ州の州都)。ウクライナの大富豪リナト・アフメトフや前ヤヌコビッチ政権を支えた財界人が反マイダン勢力を支援する。同年4月12日ストレルコフの武装勢力が警察署を占拠するが、これが東部紛争の端緒になる(※これはドネツク州スロビャンスクで起きた)。

○主権国家宣言
・同年4月親ロ派武装勢力が「ドネツク人民共和国」「ルガンスク人民共和国」の創設を宣言する。5月「独立を支持するか」の住民投票で賛成多数となり、「主権国家」を宣言する。しかしプーチンは独立を承認しなかった。もっとも武装勢力に軍事物資の供給は続けた。かってロシア軍をウクライナに越境させた事もあり、2022年が最初の侵攻ではない。武装勢力とウクライナ軍の戦闘は激化する。※7月マレーシア航空機撃墜事件を説明しているが省略。

・9月ベラルーシの首都ミンスクで停戦協定「ミンスク1」が合意されるが、守られなかった。翌年2月ロシア/ウクライナと独仏により「ミンスク合意」が結ばれ、包括的な停戦/重火器の撤収/外国部隊の撤退/国境管理の回復/親ロ派の自治権強化(特別な地位)/地方選挙などが合意された。結局ロシアはこれを破って、ウクライナに侵攻するが、その必要があったのか。侵攻直前の安全保障会議でナルイシキンが回答を躊躇したのは、「対話すべき」と言いたかったのだろう。

<2.ミンスク合意>

○国民の僕
・2019年5月20日ゼレンスキーが新大統領に就く。彼は俳優・コメディアンで、人気テレビドラマ「国民の僕」の主役を演じた。これは高校教師が大統領になり、腐敗と闘う筋書きだ。本人も当選に自信はなかったが、4月21日大統領選で現職ポロシェンコに大差で勝利する。プーチンはマイダン革命で大統領に就いたポロシェンコを正式な大統領と認めず、常に敵対した。ゼレンスキーの勝利を「ポロシェンコの政策の完全な失敗」とし、両国関係の回復を期待した。

○国民の反発
・同年10月ロシア/ウクライナ/欧州安全保障協力機構(OSCE)/東部2州の親ロ派代表が戦闘停止で合意する。「特別な地位」を「シュタインマイヤー方式」で進展させる事も合意される。東部2州で地方選挙を実施し、「特別な地位」を付与する法律を発効するとなった(※特別な地位の具体的な説明が欲しい)。ところがウクライナ国民はこれらの譲歩に反発し、ゼレンスキーの支持率が急落し、結局彼はロシアに強硬姿勢で臨む事になる。
・同年12月メルケル/マクロンが仲介し、4者会談が開かれる。東部2州での停戦・撤退、捕虜交換が合意されるが、自治権付与(※特別な地位?)には踏み込まれなかった(※同じ内容の合意の繰り返しかな)。合意後の会見でプーチンは「ミンスク合意以外に選択肢はない。この実現に全力で取り組むべきだ」と述べる。一方ゼレンスキーは「ウクライナは独立国家で、政治は国民が決める。東部を引き離す妥協はない。東部もクリミアもウクライナの領土」と述べる。

○時間稼ぎ
・2020年2月プーチンは『プーチンへの20の質問』で、ウクライナに関し「ゼレンスキーはミンスク合意を見直さなければと言っている」と不満を漏らす。そのため何度かウクライナ国境に兵力を集結させる。2021年10月逆にウクライナが親ロ派の拠点をドローン攻撃する。ロシア/ウクライナと独仏の高官協議は続けられるが、結局プーチンは東部2州の独立を承認し、ウクライナに侵攻する。

・2022年末メルケルは「ミンスク合意はウクライナの軍事力を強化する時間になった」と述べ、これにプーチンは「残念だ。皆が騙していたのか。なので特別軍事作戦は正しかった。誰もミンスク合意を履行する気はなかった」と述べる。ミンスク合意は国際的に承認された合意文書で、しかもロシアに有利な内容だった。プーチンに粘り強く交渉する方法はなかったのか。しかも東部で紛争が続けば、ウクライナはNATOに加盟できない。それなのになぜウクライナ侵攻に踏み切ったのか。

<3.強まる孤立>

○長い机
・2022年2月27日プーチンは10mある机の端から国防相ショイグ/軍参謀総長ワレリー・ゲラシモフに「西側はロシアに対し非友好的な行動をしている。非合法的な制裁だ。NATOの高官もロシアに対し攻撃的な発言をしている。軍に特別警戒体制を命じる」と、核兵器を使用できる体制を命じる。これは彼らには突然だった様だ。※これも映像を見るが、そんな内容だったのか。
・これに対し米欧のメディアは「プーチンは孤立している。彼に真実が伝わっていない」などと報じる。また駐ロ大使を務めた米中央情報局(CIA)長官は、「プーチンは孤立している」「彼はウクライナ/西側の行動する意識を見誤った」「ロシア軍の能力の低さに動揺している」などと議会で証言する。

○新型コロナの余波
・2020年以降ロシアでも新型コロナが猛威を振るった。2020年3月24日プーチンが病院を視察するが、その案内役が感染していた。そのため4月より彼が参加する全ての会合が原則オンラインになる。この状況は2022年ウクライナ侵攻まで変わらなかった。コロナ前彼とショイグは公私において親密だったが、コロナ期には遠ざけた。そのため軍事作戦の詳細を詰め切れなかった。彼は「キーウを2日間で制圧できる」と確信していた。

○FSB第5局
・2022年3月上旬プーチンがFSB第5局の局長・次長などを逮捕する。同局は旧ソ連諸国を勢力圏に留める工作を担う部局だ。カラー革命(オレンジ革命など)が起き、2004年独立した部局になる。諜報活動や親ロ派指導者の支援をした。第5局はウクライナを最重視していたが、ウクライナ侵攻の正しい分析ができていなかった(※詳細省略)。さらに同局の職員150人が解雇・追放される。
・プーチンの矛先は軍部にも向けられる。黒海艦隊の司令官、西部・東部・南部・中央の各軍管区の司令官、国防次官などの更迭・解任が相次ぐ。2023年1月ウクライナ侵攻の総司令官はセルゲイ・スロビキンから参謀総長ゲラシモフに替わる。

<4.インナーサークル>

○ロシアの一市民
・かつてプーチンは「あなたは何者ですか」の質問に、「大統領になった一市民」と答えている。ゴルバチョフ/エリツィンは党第1書記/党中央委員会書記などに就き、政治家としての帝王学を学んでいる。一方彼はKGB出身で、しかもエリートでない。1998年彼はFSB長官だった時、自分の解任の噂に対し「次の大統領はFSB長官に私ではなく、有能な人物を据えるだろう」と言っている(※その大統領に自分が就くとは)。彼が大統領に就き、真っ先に行なったのが側近を固める事だった。その人材は自分が所属したKGBと出身地サンクトペテルブルクから集められた。

○政治局
・ソ連には「政治局」があった。プーチンも同様にこれを形成する。最も近い側近が政治局員になり、その次は政治局員候補になる。彼に近い人物が9人いる(2021年時点)。★はKGB人脈、☆はサンクトペテルブルク人脈。※生年月日は省略。
 ①ニコライ・パトルシェフ★・・安全保障会議書記、元FSB長官。
 ②ドミトリー・メドベージェフ☆・・安全保障会議副議長、元大統領、元首相。
 ③セルゲイ・チェメゾフ★・・軍需企業ロステックCEO。
 ④イーゴリ・セチン★・・石油大手ロスネフチCEO、元副首相。
 ⑤セルゲイ・ソビャーニン・・モスクワ市長、元大統領府長官。
 ⑥セルゲイ・ショイグ・・国防相、元非常事態相。
 ⑦ユーリー・コルバチュク☆・・大富豪、ロシア銀行株主、ナショナル・メディア・グループ創設者。
 ⑧ゲンナジー・ティムチェンコ☆・・大富豪、天然ガス大手ノバテク株主。
 ⑨アルカジー・ローテンベルク☆・・大富豪、建設業を展開。
※サンクトペテルブルク人脈4人、KGB人脈3人。民間の重要な産業(軍需、エネルギー、金融、メディア、建設)を押さえている。大雑把に見ると、KGB出身の政治家と経済の重鎮だな。

○昔の仲間
・①パトルシェフはKGBレニングラード支部でプーチンと共に働いた。③チェメゾフは東独ドレスデンでプーチンと共に働き、アパートが一緒だった。②メドベージェフはプーチンがサンクトペテルブルク市の対外関係委員会議長の時、同会議の法律担当顧問だった。④セチンもサンクトペテルブルク市で、プーチンの秘書だった。実業家の⑧ティムチェンコ/⑨ローテンベルクは、プーチンが10代前半で始めた柔道の練習仲間だった。※独裁を敷くには、強固な側近が不可欠かな。

・政治局員候補もKGB人脈かサンクトペテルブルク人脈だ(※紹介しているが省略)。プーチンは政権を発足させると、政治・治安・経済・財界に「昔の仲間」を配置し、強固なインナーサークルを形成した。彼らはエネルギーなどの国有資産を私物化し、金儲けの利権を得た。そのため汚職・腐敗の噂は絶えない。

<ミニ解説5 メドベージェフの変身>

・2009年3月米国務長官ヒラリー・クリントンとロシア外相ラブロフが会談する。ヒラリーは「米ロ関係をリセットしましょう」と述べ、手製のボタンをラブロフに渡す。しかしボタンに記していた「リセット」のロシア語訳が間違っていた(※詳細省略)。

・2010年4月オバマとメドベージェフ大統領(任2008年5月~2012年5月)が「新START」に署名する。彼はプーチンと同じくレニングラード大学法学部を卒業し、重量挙げの選手だった(※プーチンは柔道、彼は重量挙げか。重量挙げはロシアらしい)。趣味はハードロック鑑賞で、英国のグループが好きだ。
・1990~95年彼は改革派のサプチャク(※レニングラード大学講師で、プーチンや彼の恩師)の下で顧問を務め、プーチンと共に働く。1999年プーチンが首相に就くと、その下で働く。2008年大統領選は2人の第1副首相(彼とKGB出身のセルゲイ・イワノフ)が候補だったが、プーチンはリベラルで西側志向の彼を後継にした。2012年以降首相を務めるが、人気はなかった。
・2020年安全保障会議副議長に就く。ウクライナ侵攻後は核兵器使用など刺激的な発言をしている(※詳細省略)。この変身はプーチンの後継として再度大統領に復帰するためと思われる。

<5.利権と恩恵>

○サリエの告発
・1992年3月サンクトペテルブルク市議会の食糧委員会委員長マリーナ・サリエは同市対外関係委員会議長プーチンと会い、不正・汚職疑惑の真相を問いただそうとした。ソ連崩壊によりロシアは混乱し、政府は自治体に石油・木材・非鉄金属などを海外に売り、食料を調達する事を許可する。取引の違法性(※詳細省略)に気付いた彼女は検察に捜査を依頼するが、捜査は行なわれなかった。そのため彼女は直接会う事にしたが、面談は数分で終わり、最後に「あなたには良くない事が起きる」と言われる。結局彼女は食糧委員長を解任される。この取引には後に側近になる人物、特に⑧ティムチェンコが深く関わっていた。

○オーゼロ
・1996年プーチンは高級別荘地を協同組合「オーゼロ」から共同購入する。このオーゼロに出資していたのがロシア銀行の大株主⑦コルバチュクだった。彼はプーチンの「金庫番」と呼ばれている(※元新体操選手アリーナ・カバエワの話は省略)。④セチンは「プーチンの下僕」と呼ばれている。彼は2012以降、国営石油会社ロスネフチのCEOに就いている。⑨ローテンベルクもプーチンと太いパイプを持つ。彼はクリミア橋を受注している(※詳細省略)

・2021年1月反体制派指導者ナワリヌイはドイツでの療養を終え、ロシアに帰国するが、空港で逮捕される。その2日後、彼の調査チームが暴露動画『プーチンのための宮殿』をYouTubeに流す。これは黒海沿岸の保養地にあり、モナコ公国の39倍の広さで、カジノ・劇場などがあり、建設費は1400億円とされる(※都市だな。一般市民は入れるのかな)。この動画により、プーチンの汚職・腐敗を非難する抗議デモ・集会が行なわれる。

○プーチン・システム
・プーチンはこの所有を否定する一方、デモを弾圧する。しかし疑念を払拭できなくなり、⑨ローテンベルクが「自分が所有している」と名乗り出る。政治学者パブロフスキーは、この政財界関係者がプーチンを支える権力構造を「プーチン・システム」と名付けた。この利害関係者はプーチンに苦言する事はなく、この権力構造の維持に執心している。
・強権統治で抵抗勢力を潰し、イエスマンに囲まれたプーチンは「裸の王様」だ。反体制派の評論家は「彼は自分をガンジーや鄧小平と同水準と思っている。ロシア帝国時代の領土を取り戻す気でいる」と言う。パブロフスキーは、「プーチン・システムの利害関係者はソ連末期と90年代の大混乱期を生きており、大国ロシアの復活を志向している」と言う。プーチンは反米・大国主義の①パトルシェフ/親友コバルチュクから大きな影響を受けた(※詳細省略。トランプの側近にもそんな人がいる)。

<6.三権分立の形骸化>

○翼賛議会
・2023年2月22日ロシア連邦議会の下院(定数450)が「新START」の履行停止を賛成401/反対0/棄権0で採択する。前日プーチンが年次教書演説でこの履行停止を表明していた。下院の議席は、与党「統一ロシア」321、「ロシア共産党」57、中道左派「公正ロシア・真実のために」28、極右「ロシア自由民主党」23、改革派新党「新しい人々」15となっている。野党は全て「体制内野党」で、政権を批判しない「翼賛議会」になっている。
・2022年2月プーチンはルガンスク(東部2州)の国家独立を承認し、軍事支援要請に応えて、ウクライナに侵攻する。プーチンが国家独立を主導したのに、先に下院で独立を認める法案の承認をプーチンに求める決議を採択させている。

○政権与党作り
・(※度々時間が戻る)この政権与党作りは、1999年8月プーチンが大統領後継として首相に就いた時に始まる。これを発案したのはプーチンではなく、政商ベレゾフスキーだ(※ベレゾフスキーの話は第3章5項で前述。2001年亡命)。ゴルバチョフもエリツィンも議会対策で苦労した。エリツィンは憲法問題で議会と対立し、1993年10月議会を軍に砲撃させ、多数の死傷者を出している(※そんな事もあったか)。

・当時(※1999年かな)は元首相プリマコフを次期大統領に擁立する中道連合「祖国-全ロシア」と与党「統一」が対立していた。そのためベレゾフスキーは自らが支配する全国ネットのテレビ局でプーチンや彼が率いる政党(※統一かな)を賛美し、一方でプリマコフらを悪評した。1999年12月下院選で「統一」は「祖国-全ロシア」に僅差で勝利し、「ロシア共産党」に次ぐ2位になる。
・当時大統領府で「統一」を躍進させるため奔走したのが、内政担当副長官ウラジスラフ・スルコフだ。彼はKGB人脈でもサンクトペテルブルク人脈でもないが、プーチン体制を支える理論家になる。彼の「主権民主主義」は有名で、「強権的な統治体制も民主主義」とし、プーチン体制を正当化している。彼は副首相/大統領補佐官などを歴任し、2020年辞任している。

○中央集権の強化
・2001年12月「統一」は「祖国-全ロシア」と統合し「統一ロシア」になり、2003年12月下院選以降は第1党になる。政党法により少数政党は下院選に参加できなくする。また批判的な政党は選挙から排除する。さらにプーチンは「自分を支持する政党には責任を持つ」とし、「体制内野党」にする。
・地方自治改革も行なう。2000年5月全国を7連邦管区(行政管区)に分け、各管区に大統領が任命する「大統領全権代表」を配置する(※満州や中国みたいだ)。連邦議会の上院では、自治体首長の兼任を禁止する。2004年ベスラン学校占拠事件を受け、自治体首長を大統領任命制にする(後に公選制に戻す)。中央集権化を進め、全国が「総与党化」する。司法にも圧力を掛ける。プーチン体制は下院議長ビャチェスラフ・ウォロジンの経歴を見れば分かる(※詳細省略)。彼は「プーチンがいるからロシアがある。彼がいなければ、ロシアはない」と言っている。

第6章 しぼむ大国

<1.独裁帝国の表裏>

○批判恐怖症
・政商ベレゾフスキーは「プーチンは批判されるのを大変恐れる」と言う(※ベレゾフスキーの話は第3章5項で前述。2001年亡命)。2000年春ベレゾフスキーはプーチンに、民主改革を不可逆にするため反体制派を育成する様進言する。しかしプーチンは真逆の事をし、権力基盤を強め、延命にも取り組む。それが2020年の憲法改正だ。
・2019年12月彼は「連続2期の連続を削除しても良い」「憲法は社会発展の水準に合わせるべきだ」と述べる。当時の憲法では、連続2期大統領を務め、一旦退き、再度連続2期大統領を務める事ができた。実際2012年大統領に復帰し、2018年から2期目に入った。当時の憲法では2024年大統領選に出馬できなかった。「連続」を外すのは院政のためと憶測された。2020年1月彼は年次教書演説で政治システム改革のための憲法改正を提案する。これにより議会で改憲案の審議が始まる。

○テレシコワ提案の怪
・2020年3月下院で突然修正動議が持ち上がる。与党「統一ロシア」のワレンチナ・テレシコワが壇上で、「大統領任期は撤廃すべきだ。国民が望むなら、現職大統領が再び出馬できる様にすべきだ」と提案する。急遽プーチンが下院に呼ばれ、提案に同意を示す。結局改憲案は大統領任期は2期までとなるが、改憲前の任期は含まない「ゼロ条項」が盛り込まれる。国民投票で78%が賛成し、彼は2036年まで大統領を務める事が可能になった(※2024年+6年×2期だな)。

・このテレシコワ提案には疑惑がある。彼女は当日の朝、提案する様に言われ、本人の意思ではない。同年1月プーチンも退陣の意向を示していたが、テレシコワ提案後は続投の意思を示している(※詳細省略)。この流れは恐らく政権が予定していたものだろう。そんな中で2022年2月ウクライナ侵攻を決断する。戦争に勝とうが負け様が、健康不安を除いて大統領を辞する気はない。

○ユーコス解体
・彼は反体制派を恐れ、政界だけでなく、財界にも圧力を掛けた。標的になったのが民営化で大儲けした大富豪(オリガルヒ)だ。彼は財界に「政治に介入しなければ、邪魔しない」とした。2000年5月大統領就任直後から、メディアを支配するグシンスキー/ベレゾフスキーを標的にする。※グシンスキーの「独立テレビ」(NTV)の話は第3章5項で前述。ベレゾフスキーの「ロシア公共テレビ」(ORT)の話も第3章5項で前述。

・同年7月大企業のトップを集め「企業が国家機関・治安機関を使う事は許さない」「政権は民営化の結果を見直す事はない」と伝える。ところが石油最大手ユーコスのミハイル・ホドルコフスキーが標的にされる。彼はプーチンの首相任命に反対する。それは「プーチンは管理能力が欠如していたから」と振り返る。2003年10月彼は脱税容疑で逮捕される。彼はロシア共産党や改革派野党に資金提供しており、首相・大統領への布石と疑われた(※ロシア版石油メジャーになる話などは省略)。また同年2月国営石油会社ロスネフチの汚職を糾弾した件も原因とされる。
・結局ユーコスは解体され、その資産の多くをロスネフチが引き継いだ。そしてロスネフチのトップに「プーチンの飼い猫」セチンが就いた。2005年ホドルコフスキーは懲役9年の実刑判決で収監される。2013年恩赦され、国外に逃れる。

<2.歪んだ歴史観>

○第2次世界大戦の開戦責任
・2021年7月プーチンは論文『ロシア人とウクライナ人の歴史的一体性について』を発表する(※以下ウクライナ論文)。その中に「ウクライナの主権はロシアとのパートナーシップで可能になる。我々の精神的・人的・文明的関係は数百年に亘って形成され、同じ源から発している」とある。彼はなぜこれを書いたのか。ウクライナ侵攻のためでなく、ウクライナを自陣に引き寄せるためだったと思われる。論文発表の前、彼は第2次世界大戦に関する歴史論文も発表している。これは米欧の歴史観と大きく異なり、反響が大きかった。この成功体験から「ウクライナ論文」を発表したのだろう。

・反響となった歴史論文はどの様な内容だったのか。まず2019年9月欧州議会が『欧州の未来に向けた欧州の記憶の重要性』を決議する。これは1939年8月ソ連とナチスが結んだ「モロトフ・リッベントロップ協定」を開戦の引き金とした。これは不可侵条約と秘密議定書からなり、ポーランド分割や東欧・バルト地域における独ソの勢力圏を画定している。この翌月ナチスがポーランドに侵攻し、英仏がドイツに宣戦布告する。要は開戦責任はソ連にもあるとした。

○CIS首脳に講義
・これにプーチンは反発する。同年12月CIS首脳会議がサンクトペテルブルクで開かれ、彼は延々と歴史観を話し続ける(※「独立国家共同体」(CIS)はソ連崩壊時に旧ソ連諸国が結成)。それは「第2次世界大戦の原因はベルサイユ条約で、ドイツに重い賠償金を課したため」「独ソ不可侵条約の前、ポーランド・英仏などがドイツと同様の協定を結んでいた。ソ連は反ファシスト連合を組成しようとしたが、拒否された」「チェコスロバキアの解体(※1938年9月ズデーテン割譲に始まる)がナチスの東方拡大の起点になった」と主張した。2020年6月彼はこの歴史観を『第2次世界大戦から75周年の真の教訓』として米誌『ナショナル・インタレスト』に発表する(※内容は主張と同様なので省略)。

○過去を美化
・ロシア国内では、この歴史論文はドイツ・東欧の公電・外交記録も併せて発行される。その記録にはドイツとポーランドによるユダヤ人移住計画もあった。結局は「ナチズムに勝ち、全世界を救ったのはソ連」を主張したかったのだろう。※彼の2009年時点の歴史観も説明しているが省略。

・2014年クリミアを併合し、ロシア国民は熱狂する。彼は「大国ロシアを率いる強い指導者」としての自信を深める。彼は「歴史は政治の道具になる」と考えているのだろう。ただし歪曲した歴史観は、国際的な孤立を強める。

<3.論文の功罪>

○古代ルーシの子孫
・では「ウクライナ論文」はどんな内容だったのか。主な内容を説明する。①「ロシア人、ウクライナ人、ベラルーシ人は古代ルーシの子孫」。古代ルーシとは、9世紀に誕生した欧州最大の国「キエフ公国」(キエフ・ルーシ)を指す(※ルーシは北欧から侵略して来たノルマン人らしいが)。この指導者ウラジミル1世が公国を正教に改宗させた。そのためこれらは同族である。
・②「ウクライナは古代ロシア語『オクライナ』」。「オクライナ」は12世紀の文献に出てくる。これは境界を守る人を指した。13世紀キエフ・ルーシはモンゴルにより崩壊し、その後リトアニア大公国(現ポーランド)が支配する。
・③「今のウクライナはソ連の産物だが、大部分は歴史的なロシアの産物」。1917年ロシア革命が起き、1922年ソ連が創設され、ウクライナ・ソビエト社会主義共和国も構成される。レーニンは「連邦は対等の共和国で構成される」とした。1939年ポーランドが奪っていた地域、1954年クリミア半島などがウクライナ領になる。ただしクリミア半島は法的規範に違反する。今のウクライナ領の大部分はロシアのものだ。これは17世紀ロシアに再統合された時とソ連から離脱した時のウクライナ領土の差を見れば分かる。※17世紀時点のウクライナは小さかったのか。同族と言っているのに、領土にはうるさい。

○経済パートナー
・「ウクライナ論文」はソ連崩壊後のロシアとウクライナの関係も重視している。④「ロシアとウクライナは相互補完できる経済パートナー」。ロシアはウクライナに天然ガスを供給し独立を支えた。2014年までは数百の合意・共同計画があった。貿易は依然盛んなのに、ロシアを侵略国とした。
・⑤「ウクライナは着々と地政学の危険なゲームに巻き込まれた」。2014年前から米欧はウクライナにロシアとの経済協力の縮小を促した。ロシアはウクライナ/EUとの3者協議を提案したが、拒否された。米欧にはウクライナを橋頭堡にする目的がある。

・⑥「ミンスク合意に代わる案はない」。ウクライナ政権は「反ロシア」を進めるが、国民の数百万人はこれを拒否する。そのため東部2州では内戦が避けられなくなった。ミンスク合意が結ばれるが、政権はこれを無視しており、東部2州は要らないと思われる。
・⑦「ウクライナの多くの人は『反ロシア』を受け入れていない」。「反ロシア」を受け入れられない数百万人の人は意見を言えないし、脅迫され殺される事もある。ロシアはロシアの歴史的領土が奪われたり、近隣の人々が「反ロシア」に利用されるのを容認できない。ロシアはウクライナとの対話に常に前向きだ。ウクライナの主権はロシアとのパートナーシップの上に成立する。

・「ウクライナ論文」は、「両国関係を悪化させているのは米欧」としている。この論文はウクライナ語でも発表された。ウクライナの人々はこの論文をどう感じたのか。1930年代ウクライナではスターリンの圧政で農業集団化と大飢饉が起きた。これをプーチンは「本来は共通の悲劇だったのに、ウクライナ民族の大虐殺に書き換えられた」と非難している。※ロシアのウクライナに対する思いは、中国の台湾に対する思いと少し似ているかな。

○暗躍ラスプーチン
・ウクライナ侵攻でロシア軍の指揮の低さが指摘されている。それは多くの兵士がその目的を理解していないからだ。プーチンは独自の歴史観があるが、それを軍幹部に説いた形跡はない。

・ロシア軍の不甲斐なさに呆れ、独自の兵士を送っているのが、チェチェンの首長ラムザン・カディロフと実業家エフゲニー・プリゴジンだ。カディロフは民兵部隊「カディロフツィ」を送り、プリゴジンは軍事会社「ワグネル」で雇った兵を送っている。2人はロシア軍幹部を批判する事もある。プリゴジンはレストランの経営者になり、そのレストランをプーチンが愛用し、親しくなる。その後大統領府とケータリング契約を結んでいる。
・2016年彼が運営する「インターナショナル・リサーチ・エージェンシー」(IRA)が米大統領選に介入し、彼の名が世界に知れ亘る。IRAは900人近くを雇用し、内90人位が米国担当で、SNSでトランプを支援する情報工作を行なった(※詳細省略)。
・彼はウクライナ侵攻では刑務所の受刑者を積極的に兵士にして前線に送り出している。彼は傭兵1万人/受刑者4万人を送ったとされる。ロシアの評論家は「彼はニコライ2世時代のラスプーチン」と評している。ラスプーチンは帝政末期、皇帝一家に取り入り、国政を混乱させた。2023年6月彼は国防相ショイグらを批判し、モスクワに進軍するが、ベラルーシ大統領ルカシェンコの仲介で反乱は収束する。※2023年8月飛行機事故で死亡。

<ミニ解説6 ネオナチとバンデラ主義>

・2022年5月9日「赤の広場」で第2次世界大戦戦勝記念日の軍事パレードが開催された。そこでプーチンは「我々はナチズムを倒した人々の記憶を守る義務がある」「ネオナチ/パンデラ主義者との衝突は避けられない」「ウクライナ侵攻は唯一の正しい決定」と演説する。彼は以前から「ゼレンスキーはネオナチの徒党」とし、「ウクライナの非ナチ化」をウクライナ侵攻の理由とした。※彼にすれば西からの攻めは、全てナチズムかな。
・「マイダン革命」(2014年)もネオナチの極右民族主義者の仕業とした。第2次世界大戦前後、ウクライナ独立をステパン・パンデラが主導した。彼は戦前はポーランドからの独立、戦後はソ連からの独立のため武装闘争・テロ活動を行なった(※彼は知らなかった)。彼は独立のためナチスと協力した事もあり、ソ連・ロシアはパンデラ主義者をネオナチと批判した。一方ウクライナではネオナチとせず、英雄視する傾向にある。
・ロシアでは「ネオナチ/パンデラ主義者の排除」がウクライナ侵攻の正当な理由になっている。ソ連は第2次世界大戦で3千万人の犠牲者を出した。未だにナチズムへの反感は根強い。しかしゼレンスキーはユダヤ系なので、この理屈には無理がある。そこで2022年5月ラブロフ外相が「ヒトラーにもユダヤ人の血が入っている」と発言したため、プーチンがイスラエルに謝罪している。

<4.裏庭の離反>

○新年の指輪
・2022年12月旧ソ連諸国が参加するCISの首脳会議がサンクトペテルブルクで開かれる。プーチンは各首脳に金・白金を使った指輪を贈った。ところが会議でそれを着けているのはルカシェンコ大統領だけだった。2023年2月23日国連総会でウクライナ侵攻を非難する決議が141ヵ国の賛成で採択される。ロシア/ウクライナ/バルト3国を除く旧ソ連10ヵ国だと、ベラルーシだけが反対、ジョージア/モルドバが賛成、残り7ヵ国は棄権した。

・当初ロシアは旧ソ連諸国に同等の主権を認めていた。「カラー革命」が起きた2003年頃から、プーチンはこれらを米国による地政学的な侵略と見做す。ロシアの極右思想家アレクサンドル・ドゥーギンも「米国はロシアとCIS諸国を切り離し、反ロシア連合を創設しようとしている」と論じる。プーチンは米国に対抗するため、2008年ジョージア、2014年ウクライナに軍事介入する。また軍事同盟の「集団安全保障条約機構」(CSTO)をロシア主導で強化し、経済面では「ユーラシア経済同盟」を創設する(※前者は6ヵ国、後者は5ヵ国しか加盟していない。アルメニアは共に加盟している様だが、直近でもそうかな)。プーチンは「盟主」として振る舞う様になり、「対等」は「主従」に変わった。

○噴出する不満
・2022年6月サンクトペテルブルクで「国際経済フォーラム」が開かれる(※同フォーラムはロシアへの投資が目的。1997年から毎年開催)。ここでカザフスタン大統領カシムジョマルト・トカエフは「ドネツク/ルガンスクの国家独立を認めない」と発言する。カザフスタンは同年1月燃料価格の高騰で争乱が起き、CSTOの軍事支援を受けた。それにも拘わらずだ。同年9月サマルカンドで「上海協力機構」(SCO)の首脳会議が開かれる。この時プーチンとキルギス大統領の会談が行なわれたが、プーチンが立ったまま数分間待たされる。同年10月カザフのアスタナでロシアと中央アジア5ヵ国の首脳会議が開かれる。この時タジキスタン大統領が「我々に敬意を払ってほしい。ソ連時代の様に扱って欲しくない」と述べる。
・同年11月アルメニアの首都エレバンでCSTOの首脳会議が開かれる。この時アルメニア首相は「アゼルバイジャンに侵略の青信号を出す様なものだ」とCSTOの対応を批判する。アルメニアとアゼルバイジャンはナゴルノカラバフの領有を巡って紛争が続いている。ロシアは両国の調停に介入したり、ロシア軍を紛争地に派遣していたが、ウクライナ侵攻で縮小される。※2023年10月アゼルバイジャン勝利となったかな。アルメニア首相が長々とロシアを批判する映像を見た気がするが、それは最近の話かな。また紛争地を失った事で、アルメニアは新米欧・反ロシアに転換したと思うが。

○先輩と後輩
・2023年2月17日ルカシェンコ大統領がモスクワを訪れ、プーチンと会談する。その冒頭のやり取りには棘があった(※会話は省略)。彼が大統領に着いたのは1994年で、大統領ではプーチンより先輩で、「欧州最後の独裁者」と呼ばれる。反体制派を弾圧し、6選を果たした2020年の選挙では各地で抗議デモ・ストライキが起きた。この選挙でプーチンは早々に当選を祝福し、抗議デモに対しロシアの治安部隊を派遣している。
・両国の結び付きは強く、ベラルーシはロシア産エネルギーに大きく依存する。そのためウクライナ侵攻を支持するが、加担は避けている。ベラルーシはロシアと共同軍事演習したり、短距離弾道ミサイル「イスカンダル」や戦術核を配備し、ウクライナ侵攻を全面的に支援しているが、参戦は避けている。

・ウクライナ侵攻に対する旧ソ連諸国の対応は様々だ。しかし米欧による制裁によりロシアが劣勢になれば、ロシア離れは加速するだろう。そんな中、2022年9月習首席は中央アジアを訪問し、2023年5月陝西省で中国と中央アジア5ヵ国の首脳会議を開く。2023年2月米国もブリンケン国務長官がカザフスタン/ウズベキスタンを訪れる。米中は虎視眈々と旧ソ連諸国での影響力拡大を狙っている。

<5.制裁のボディブロー>

○マイナス2%
・2023年2月21日プーチンは一般教書演説で「西側は我々と軍事・情報だけでなく経済面でも対抗するが、逆に物価高・失業・企業閉鎖・エネルギー危機に見舞われている」「ロシア国民を苦しめ、社会を不安定にしようとするが、ロシア経済は強固だ」と述べる(※簡略化)。この根拠がマイナス2.1%の経済成長率で、マイナス20~25%の予想と大きく異なった。

・日米欧は当初からロシアに経済制裁を行なった。金融面では中央銀行・大手銀行との取引停止、資産凍結、SWIFTから排除した。産業・貿易面ではハイテク製品(半導体、通信装置など)の対ロ輸出を禁止し、エネルギー分野への制裁にも踏み込んだ(※詳細省略)。ロシア経済は一時的にパニックになり、1ドル=75ルーブルが1ドル=120ルーブルまで下がった。ところが1ヵ月経つと、元の水準に戻る。2022年6月プーチンは「ロシアに対する制裁は成功しなかった」と述べる。

○ノルドストリーム悲話
・2005年9月8日ロシアのガスプロムとドイツのエーオン/BASFが、海底ガスパイプライン「ノルドストリーム」の建設で合意する。10日後に独連邦議会選挙があり、大急ぎで行なわれた式典にはドイツ首相シュレーダーやプーチンが出席する。しかし18日の選挙で社会民主党(SPD)は敗れ、メルケル率いるキリスト教民主・社会同盟(CDU・CSU)が勝利する。シュレーダーはノルドストリームの運営会社の会長に就く。
・1973年ロシアのガスが初めて欧州に供給される。これは西独首相ブラントとソ連書記長ブレジネフの合意による。ノルドストリームが開通すれば、安価て安定的にガスを調達できる。2011年1本目、2012年2本目が開通し、欧州が輸入するガスの4割がロシア産になった。2021年にはノルドストリーム2が開通する(※クリミア併合後だ)。

・ところがウクライナ侵攻後は欧州各国が削減に向かう。ノルドストリーム2は認可されず、稼働していない。2022年9月ノルドストリームが破損し、供給できなくなる。侵攻前、ロシアのガス輸出の8割、石油輸出の5割が欧州向けだった。米国は早々にロシア産原油・石炭・ガスの輸入を禁止する。EUも段階的に輸入禁止する(※詳細省略)。ロシアのエネルギー戦略は見直しを求められる。※中印が大量に買っているので問題ない。

○マクドナルドの撤退
・ロシアを直撃しているのは制裁だけでない。米欧の大手企業が撤退し始める。2022年5月マクドナルドは撤退を表明する(全850店)。1990年1号店をオープンさせ、冷戦終結の象徴だった。他にスターバックス/コカ・コーラ/ダノン/アップル/マイクロソフト/オラクル/IBM/ウォルト・ディズニー/メルセデス・ベンツ/フォード/フォルクスワーゲンなども撤退する。
・エネルギー分野でも英シェルがガス事業「サハリン2」から、米エクソンモービルは「サハリン1」から撤退する。英BPはロスチネフの株式(約20%)を売却し、ロシア事業から撤退する。

・ロシアでは自動車は買えなくなり、電子機器は価格が高騰し、家電製品の販売も落ち込んだ(※その状況を解説しているが省略。何れも中国が製造しているが)。エネルギー分野だとメジャーの撤退で新規開発や設備更新が難しくなる。欧州の信用を失った点は大きく、戦争が終結しても欧州の需要は回復しないだろう。戦争が長期化すれば財政赤字が恒常化し、制裁はボディブローとなるだろう。

<6.侵攻の代償>

○核の脅威
・2023年2月20日バイデンはキーウを電撃訪問する。ポーランドから列車で入る、異例の訪問だった。その翌日プーチンは年次教書演説する。「我々はウクライナと戦っているのではない。西側がウクライナの政治・軍事・経済を支配し、天然資源を略奪している」。そして「新START」の履行を停止する(※第5章6項で前述)。新STARTは戦略核弾頭/戦略爆撃機/ICBMの運搬手段の配備数を制限する条約で、2011年に発効した。核弾頭は米ロが9割を保有しており、画期的な条約だった(※詳細省略)。2002年ブッシュがABM制限条約から脱退し、2019年トランプにより中距離核戦力(INF)廃棄条約が失効し、新STARTは唯一残る核軍縮条約だった。これにより世界の核軍縮は危うい状況になる。

○中印の警告
・2022年9月サマルカンドで「上海協力機構」(SCO)の首脳会議が開かれる。この時プーチンは中印首脳と会談する。彼は「我々は戦闘を止めようとしているが、ウクライナが対話を拒否している」(※簡略化)と述べるが、モディ首相は「今は戦争の時代でない。民主主義・外交・対話は重要な手段。将来に平和が不可欠」と苦言を呈す。この前日、中ロ首脳会談が行なわれている。彼は冒頭で「中国の友人の立場を評価する。あなたが疑問・懸念を抱いている事を理解している。今日の会談でも詳細に説明する」と述べる。これは事前に調整し、彼から言わせたのだろう。ウクライナ侵攻後、中印はロシアから原油を大量に輸入し、良好な関係を維持しているが、ウクライナ侵攻に対し警告を発している。

・2022年2月彼は北京冬季五輪の際に訪中し、習と会談し「NATOの拡大反対」などで合意している。しかしウクライナ侵攻は伝えていない。2023年2月中国は戦闘停止/直接対話/核使用反対などの「仲裁案」を発表する。3月20日習はロシアを訪問し、4月26日ゼレンスキーと電話会談し、仲裁をアピールする。しかし停戦の兆しはない。米欧が中国の対ロ軍事支援を強く警戒しており、習はロシアを一方的に支持していない事を示したかったのだろう。

○交通事故と酔っ払い
・2022年11月プーチンは「特別軍事作戦」に参加する兵士の母親達と面談する。彼は「ロシアでは交通事故で3万人が亡くなる。アルコールも同数だ。人生は多様だ。人生はどう生きたかだ」「息子さんは正しく生きた。彼の死は無駄でない。有意義な人生を送った」と述べる。母親はルガンスクから来ており、息子が義勇軍に志願した経緯などを話す。彼は「戦死には価値がある」としたのだ。しかしこの発言に違和感を持った人も多いはずだ。
・違和感は年末恒例の新年の挨拶にも伺われた(※新年の挨拶を年末にするんだ)。12月31日プーチンは「2022年は勇敢・英雄的行為と裏切り・臆病を明確に分けた」「重要なのはロシアの命運です。祖国防衛は祖先と子供に対する責務です」(※簡略化)と述べる。彼はウクライナ侵攻を「特別軍事作戦」として開始するが、国民には他人事だった。ところが2022年9月部分動員した事で、動揺が広がる。2023年2月世論調査では、戦争継続派43%、和平派50%となる。24歳以下では61%が和平派だった。彼への不満/戦争反対/徴兵忌避が見られた。100万人に及ぶ若者が国外に脱出した。人材の流出は経済発展を阻害するだろう。

第7章 日ロ関係

<1.非友好国>

○米欧と共同歩調
・ウクライナ侵攻が始まると岸田首相(※任2021年10月~24年10月)は迅速に対応する。米欧に同調し、経済制裁を表明する。資産凍結/ビザ発給停止/銀行取引制限/ロシア国債の発行・流通停止/ハイテク製品の輸出禁止/石油精製装置の輸出禁止/ロシア中銀との取引制限/SWIFTからの排除などだ。2022年2月24日G7首脳協議で共同声明を採択する(※当日だな)。日本には北方領土問題(※以下領土問題)があり、2014年クリミア併合・ウクライナ東部紛争では米欧と距離を置き、経済制裁しなかった。領土問題が全く進展しない中でウクライナ侵攻が始じまる。

○不気味な示威行動
・これにロシアも対抗する。3月5日日本・米国・EU・英国などを「非友好国」に指定する。3月10日にはユーラシア経済同盟などを除き、通信機器/医療機器/農業機械/鉄道車両/コンテナ/タービンなど200品目以上を輸出禁止にする。日本には軍事的な示威行動を繰り返す(※詳細省略)。北方領土では地対空ミサイルの発射訓練を行なう。日本はロシアの軍事的脅威を再認識する。

○領土交渉も停止
・3月24日ロシア外務省が「日本政府の決定に対する対抗措置」を発表する。「領土問題を含む平和条約締結交渉」は打ち切られ、元島民がビザなしで訪島できる「ビザなし交流」(1991年合意)や元島民が簡素な手続きで訪島できる「自由訪問」(1999年合意)を停止する。安倍政権下で進められた「北方領土での共同経済活動の対話」も停止する。さらに4月27日駐ロ外交官8人が国外追放し、5月4日岸田首相を始めとする閣僚・国会議員・教授・メディア幹部など63人を入国禁止にする。

<2.ポスト・エリツィン>

○G8デビュー
・2000年7月21日沖縄でG8首脳会合が開かれる(※1998~2013年はG8)。初日のワーキングディナーで初参加のプーチンが口火になる。訪日前に訪朝し、首脳会議後に共同宣言を発表していた。彼は北朝鮮が条件付きでミサイル開発を停止すると吐露する。G7首脳はその条件とされる「人工衛星打ち上げ技術の提供」を彼に確認しようとする。ともかく彼は引っ張りだこになる。この頃彼はまだ無名で「プーチン・フー?」だった。特に日本は北朝鮮の核・ミサイル開発を警戒しており、森首相(※任2000年4月~01年4月)は彼の訪日を高評価する。

○一本背負い
・彼は日程を終えると沖縄県志川市の体育館を訪れ、子供達と柔道をする(※詳細省略)。彼はボクシング/サンボをやり、10歳頃から柔道を始めた(※詳細省略)。訪日前にも柔道への思いを語っている(※詳細省略)。

○消えた2000年決着
・7月23日日ロ首脳会議が開かれ、9月にプーチンが訪日する事が決まる。森首相は「クラスノヤルスク合意」の実現を求めるが、彼は断る。「クラスノヤルスク合意」は1997年7月エリツィンと橋本首相の間で合意されたもので、「2000年までに平和条約を締結する」とした。1998年4月両者は川奈で会談し、橋本は「北方領土4島を日本の領土とするが、当面ロシアが施政する」を提案する。同年11月小渕新首相が訪ロするが、ロシアはクラスノヤルスク合意/川奈提案を拒否する。
・2000年9月プーチンは訪日する。森はクラスノヤルスク合意/川奈提案への同意を再度求めたが、彼は拒否する。共同声明では「これまでの諸合意に基づき、平和交渉締結の交渉を継続する」となる。クラスノヤルスク合意/川奈提案はエリツィンが合意したもので、彼は「日ソ共同宣言」(1956年、※以下56年宣言)が有効とした。これは「平和条約締結後に歯舞諸島・色丹島を日本に引き渡す」としている。

<3.困難な言及>

○56年宣言
・2001年3月イルクーツクで日ロ首脳会談が開かれる。その会談前プーチンは「我々は平和条約の締結を望んでいる。これに国境の画定も含まれる。56年宣言にはソ連がが2島を引き渡すと明記されている」と述べる。彼は会談で「56年宣言に触れた事は、ロシア首脳として『困難な言及』」と述べる(※大幅な譲歩の意味かな)。会談後の「イルクーツク声明」には、「56年宣言が平和条約締結の出発点である事が確認された」と明記される。
・1960年日米が「新安保条約」を締結する。これに対しソ連は「日本からの外国軍隊の撤退」を要求する「対日覚書」を通告する。日本は「対日覚書」の撤回を求めてきたが、応じていない。ところが彼が「56年宣言が有効」とした事で、日本は「対日覚書」は撤回されたと認識する。※彼の考え方は分かり易いな。

○解決への突破口
・ロシアの専門家は「彼は本気で北方領土問題の解決を望み、56年宣言を突破口にしようとした」と言う。彼は譲歩を示し、解決しようとした。ただしイルクーツクでの会談後、「第9項にある歯舞諸島・色丹島の命運には、両国専門家による追加作業が必要」とし、この条件次第で引き渡しが決定する。経済協力・極東開発・安全保障などの条件が一致すれば、解決できただろう。彼は就任当初から各国との国境画定に意欲的だった。中ロとの国境は2004年までにほぼ画定させる(※詳細省略)。

○2島先行論
・当然日本に対しても同様の考えだった。それで56年宣言を「切り札」にした。ただしこれは歯舞諸島・色丹島だけが対象で、国後島・択捉島には触れておらず、2島の対処だけで領土問題は解決するとしていた。
・一方日本は1993年細川首相(※任1993年8月~94年4月)とエリツィンの間で合意された「東京宣言」を柱にしていた。これは4島を対象にした(※詳細省略)。プーチンも日ロ首脳会談(2000年9月)/イルクーツク声明(2001年3月)で東京宣言の明記に同意していた。そのため2島を先行させ、その後残る2島の帰属を解決し、平和条約を締結する「2島先行(返還)論」が浮上する。これを機に伝統的な「4島一括(返還)論」と「2島先行論」の対立が始まる。

<4.消えた東京宣言>

○並行協議
・当時「2島先行論」を主導したのが自民党総務局長・鈴木宗男だった。彼はロシアと太いパイプを持ち、ロシアと度々交渉していた(※詳細省略)。2001年3月イルクーツク首脳会談で森は「並行協議」を提案する。これは歯舞諸島・色丹島と国後島・択捉島を同時並行で協議する案だ。プーチンはこれを否定せず、持ち帰る。※森の父親の遺骨がイルクーツクに分骨されているが、その話は省略。
・しかしこの翌月森は退陣し、小泉が首相に就く(※任2001年4月~06年9月)。外相には田中真紀子が就くが、両者とも「4島一括論」で、「2島先行論/並行協議」は消滅する。

○見送られた共同声明
・この小泉の強硬な「4島一括論」により北方領土問題は10年間停滞する。2005年7月ロシア外務省が「日ロ関係における平和条約の問題について」を発表する。これは1955年以降の交渉を示し、「双方が受け入れ可能な解決策はなく、原則的な違いがある」とした。また「南クリール諸島(北方領土)は第2次世界大戦でソ連の領土になった」とした。
・同年11月プーチンは訪日するが外務省の発表を展開し、共同声明も見送られる。これはプーチンが東京宣言(1993年)の明記を拒んだためとされる(※エリツィンの弱気な外交を全く否定している)。

○許しがたい暴挙
・小泉首相以降の自民党政権でも民主党政権でも日ロ関係は変化しなかった。ロシアでは2008年5月メドベージェフが大統領に就く。2010年11月彼は国後島を訪れるが、これはソ連以降で初めての元首の訪島になる(※詳細省略)。当時の菅首相は、「許しがたい暴挙」と非難する。これにロシア大統領補佐官は「ロシアの主権はこれからも見直される事はない」と発表する。その後もメドベージェフは北方領土訪問を続けている。

<5.シンゾーとの仲>

○引き分け
・2012年5月プーチンが大統領に復帰する。同年3月彼は「日本との北方領土問題の解決を望む。これは『引き分け』の様なものだ」「領土問題は二義的で、経済・人的交流により『真の友人』になる必要がある」と述べる。また56年宣言については「2島以外は領土問題はない。また日本に引き渡しても、主権はどちらにあるか記されていない」と述べる。2001年「56年宣言を有効としたのは困難な言及」と述べたのに、彼にすれば「日本の反応はなかった」となる。大統領復帰前のこの発言は、より良い経済協力を引き出す方便だったのか。しかし「引き分け」発言により日本は交渉の進展を期待し、「面責等分」「2島+α」などが議論される。

○共同経済活動
・同年12月自民党は衆院選で圧勝し、第2次安倍政権が発足する(※任2012年12月~20年9月)。安倍は領土問題の解決に意欲を示す。2013年4月首相として10年振りにロシアを訪問する。共同声明には2プラス2の立ち上げなどが明記されるが、「東京宣言」は明記されなかった。ただし事務方の努力により、「これまでに採択された全ての文書・合意に基づき平和条約締結交渉を進める」となった。彼は首脳会談を重視し、事ある毎にプーチンと会談する。2014年2月西側諸国がソチ冬季五輪参加を見送るが、彼は開会式に出席し、首脳会談も行なう。ところが翌月クリミア併合/ウクライナ東部紛争が起きると交流も控えられる。

・2016年5月彼は交渉を再開させ、ソチを非公式訪問する。この時「経済協力」などの「土産」を持参する。この「経済協力」は医療・健康、都市作り、エネルギー開発、産業多様化・生産性向上、産業振興・インフラ整備などの8項目だ。さらに「ロシア経済分野協力担当相」の新設も決める。もう1つの「土産」が北方領土での「共同経済活動」だ。これは1996年ロシア側が提案したもので、その後も提案してきた(※詳細省略)。北方領土に工場を建設する場合、どちらの法律に従うかなどの「主権」が問題になる。彼は「2島+α」を想定し、「新たな発想に基づくアプローチ」で平和条約交渉を加速させる。※経済協力は国家間で、共同経済活動は北方領土限定だな。

○空振り
・安倍はプーチンと個人的な信頼関係を築く。2016年9月彼はウラジオストクで開かれた「東方経済フォーラム」(※ロシア極東の開発が目的)に参加する。同年12月プーチンが山口県を訪れ、2日後会談場所は東京に移される。会談後両者は別々に会見し、北方4島での「共同経済活動」の協議開始、「自由往来」の拡充を発表する。「共同経済活動」は、漁業・海面養殖・観光・医療・環境などになる。ただどちらの法律を適用するかは決まらなかった。領土問題は空振りになり、日本は落胆する。プーチンは来日前、「領土問題はない」と述べていた。

<6.袋小路の領土交渉>

○奇手妙手の応酬
・「共同経済活動」の協議が進められる。具体的に観光/海産物養殖/温室野菜栽培/風力発電/ごみ削減が選定される。そんな中プーチンが癖玉を投げる。2018年9月「東方経済フォーラム」の全体会合で彼は「我々は平和条約を結びたい。今思い付いたが、年末までに条件なしで平和条約を結び、その後係争問題を解決しよう」と述べる。前日に首脳会談した時は、この提案はなかった。日本の方針は領土問題の解決後に平和条約を結ぶので、彼の提案を断る。
・同年11月今度は安倍が攻勢に出る。シンガポールでの日ロ首脳会談後、「領土問題を解決し、平和条約を結ぶ。私とプーチンの間で、これに終止符を打つ。56年宣言を基礎に交渉を進める」と提案する。

○領土割譲禁止
・日本の「東京宣言」(4島返還)から「56年宣言」(2島返還)への路線転換はプーチンを動揺させる。彼は会見で、「56年宣言には引き渡す2島の主権に触れていない。慎重な検討が必要だ」と述べる。彼は強硬になっていく。2019年12月「北方領土に米国の攻撃兵器が配備されるかもしれない」と述べる(※1年後だな)。2020年憲法改正案に「領土割譲の禁止」が盛り込まれる。同年7月国民投票で78%が賛成し、憲法が改正される。これに応じ領土を割譲する行為が処罰の対象になる。

・2020年9月安倍は退陣する。彼は27回プーチンと会談するが北方領土問題は解決しなかった。その後も進展はない。

○未来への布石
・2023年3月21日岸田首相(※任2021年10月~24年10月)がキーウを電撃訪問し、ゼレンスキーと会談する。会見後ウクライナ侵攻を「国際秩序を揺るがす暴挙」と批判する。岸田や林外相がロシア入国を禁止されている状況では、平和条約交渉を進めようがない。安倍政権は北方領土を「主権を有する島」としていたが、岸田政権は「日本固有の領土」とする。国家安全保障戦略でも「インド太平洋地域において、ロシアに強い懸念がある」とする。2022年3月ロシアは免税特区法を成立させ、中国・韓国企業などに北方領土への進出を促す。プーチン下での平和条約交渉は困難になる。

・歴史を振り返る。日本は第2次世界大戦で敗れ、1951年9月「サンフランシスコ平和条約」に署名する。これにより千島列島の全ての権利・請求権を放棄した。この時吉田首相は「国後島・択捉島は帝政ロシアが認めた日本の領土。歯舞諸島・色丹島は北海道の一部」と述べている。それでは「放棄した千島列島」はどの範囲なのか。1951年10月外務省条約局長は「国後島・択捉島は含まれるが、歯舞諸島・色丹島は含まれない」との政府見解を述べている。
・ところが1956年外務政務次官が「国後島・択捉島は日本の領土で、返還は当然」と政府見解を変える(※東西冷戦で強固になった)。当時日ソ平和条約交渉が行なわれており、前年ソ連が2島の返還を提案していた。ところが親米・反ソ派により2島返還は拒否される。結局共同宣言で「平和条約締結後に、歯舞諸島・色丹島を日本に引き渡す」となる(56年宣言)。

・ソ連崩壊後エリツィンは「4島の帰属問題の解決」に同意する(東京宣言)。プーチンは「56年宣言の有効性」を認める(2001年イルクーツク声明)。その後も公的文書で継承された。しかし2018年シンガポールでは「56年宣言を基礎にした平和条約交渉」は共同声明にならず、翌年6月大阪での首脳会談のプレス発表に盛り込まれただけだ。

・領土問題が解決に近づいた事は幾度かある。1992年3月ロシア外相が訪れ、まず2島を引き渡し、その後4島の帰属を画定し、平和条約を結ぶ提案をしている。1998年.には「川奈提案」もあった。プーチンの大統領就任直後も可能性があった。ウクライナ侵攻によりロシアは孤立し、国力は衰えるだろう。ロシアがソ連崩壊直後の様になれば、可能性は高まるだろう。プーチン後を見据えれば、「東京宣言」に回帰するが、柔軟な対応が必要になる。

エピローグ

○百年の孤独
・2018年4月プーチン体制を支えたスルコフ(※第5章6項でも解説)は、論文『混血の孤独(14+)』を発表する。彼は2020年に政権を去るので、大統領補佐官時代にロシアの将来を予測して書いた事になる。歴史を振り返ると、13世紀には「タタールのくびき」があり(タタール/モンゴルによる支配)、17世紀末から18世紀は西欧化の時代がある。彼はこれを「4世紀に亘り東に向き、4世紀に亘り西に向いたが、いずれも根付かなかった」「20世紀末には国を縮小させ、西側に受け入れられようとしたが、それもできなかった」と書く。そして「2014年クリミア併合により『西側の家族』になろうとした旅は終わった」「2014年以降『東西の混血の国』は数百年の『地政学的孤独』に入った」と書く。ただし「孤独は孤立ではなく、貿易・投資は続ける。戦争も交流の1つ」と書く。
・いずれにしてもクリミア併合・ウクライナ東部紛争は、2022年ウクライナ侵攻に繋がり、ロシアの命運を変えた。2015年プーチンは米国にシリアでの共同対応を打診するが、米国はロシアとアサド政権の結びつきが強い事から拒否し、ロシアと西側の亀裂はさらに深まる。

○今こそ、聞くべきだ
・スルコフが論文を発表する直前(3月1日)、プーチンが異質の年次教書演説を行なう。(※以下大幅に簡略化)「ソ連崩壊によりロシアは領土/人口/GDP/工業力/軍事力などを半減させた。しかし基礎科学/教育/研究力/技術力/産業力を維持し、ICBM/無人潜水艦/巡航ミサイルなどの新型兵器を開発した」「一方米国は2002年ABM制限条約から脱退し、ロシアを標的にするミサイル防衛システムを構築してきた。そのため我々はNATOに、この防衛システムの脅威を中立化するよう呼びかけた」「我々は経済/財政/軍で問題を抱えるが、偉大な核大国であり続けた。それなのに誰も我々と話そうとしない。今こそ我々の声を聞くべきだ」と述べる。彼のこの発言は、西側との決別だったのだろう。

○西側の裏切り
・プーチンは「ごろつき」だったが、柔道を始めて不良少年から脱する。KGBに入局するが、エリートではなかった。エリツィンの下で働かなければ、中堅官僚で終わっただろう。彼は大統領就任当初から大国主義で、「大国ロシア」の復活を目指した。しかしそれは米欧に対抗する国ではなく、米欧と協調する国だった。彼は当初から国家権力を強化したが、それはソ連崩壊後の混乱を鎮めるためだった。ソ連末期ゴルバチョフは「新思考外交」「欧州共通の家」で欧州に接近した。エリツィンも急進的な市場経済改革で西側との一体化を目指した。彼も当初は西側と協調的だった。彼は「半分は冗談、半分は本気」と言ったが、NATO加盟も模索していた。
・しかし西側はロシアを受け入れなかった。米国は国連安保理決議なしにイラクに武力行使した。「ロシアの裏庭」とされるジョージアとウクライナの民主革命を支援した。米国は「ABM制限条約」から離脱し、ロシアを標的にするミサイル防衛構想を始動させた。NATOの東方拡大も止まらなかった。
・ロシアは米欧に接近したのに、「誰も我々の声を聞かなかった」となった。プーチンの感情は憎しみ・怒りに変わっていった。それが顕著に現れたのが、2007年「ミュンヘン安全保障会議」での演説だ(※この映像もたまに見る)。

○消えぬ冷戦思考
・2013~14年ウクライナで米国が支援したと思われる「マイダン革命」が起き、プーチンの憎しみ・怒りが頂点に達する。彼はクリミア併合に踏み切り、ウクライナ東部での紛争を助長させる。彼にとってウクライナ侵攻はウクライナとの戦いではなく、ロシアを裏切った西側、特に米国との戦いだ。
・プーチンを極悪非道な独裁者にした責任は西側にもありそうだ。東西冷戦が終結しても、西側にロシア嫌いが残った。とは言え、クリミアを併合し、ウクライナに侵攻し、国際秩序を揺るがしたのはロシアだ。ロシアは米国の国連軽視を批判してきたが、ロシアも非難決議を再三無視した(※この件も重要だが、本文では触れていない)。米国は「ABM制限条約」「INF廃棄条約」から離脱したが、ロシアも「新START」の履行を停止した。ロシアは核使用に再三言及し、ベラルーシに戦術核兵器を配備した。
・何よりプーチンはウクライナでの惨劇を招いた。民間施設への攻撃、民間人虐殺、市民・子供の連行、市民への暴行・略奪・レイプ、捕虜虐待。これらの戦争犯罪/人権侵害/非人道的行為が絶えない。国際社会が彼を非難するのは当然だ。

○得られぬ戦果
・2023年2月バイデンは「プーチンなら一言で戦争を止められる。ウクライナが国を守る事をやめれば、ウクライナは死ぬ」と演説する。しかしロシアは東部2州の完全制圧さえできていない。戦闘が長期化すると、ウクライナが反転攻勢するだろう。プーチンは停戦できる戦果を得ていない(※この点は現状と異なるかな)。それなのに彼は8割の支持率がある。それは政権による情報統制と反政権運動の弾圧による。制裁による混乱も起きていない。長期戦によりウクライナで厭戦機運が高まるのを待っている。
・西側がウクライナ支援を止めれば、瞬く間に劣勢になる。しかしこれは「国際秩序を揺るがす暴挙」の容認になるため、支援を続けている。2023年5月広島でのG7サミットにゼレンスキーが来日し、首脳は軍事・財政支援を約束した。米国は戦闘機F16の供与を容認した。

○ロシアの敗北
・2023年1月米シンクタンクのランド研究所が、米国がウクライナ侵攻にどう関わるべきかの提言『長期戦を避ける』を発表する。「この戦争ではロシアもウクライナも完全な勝利はない」「戦争が長引けば、核の使用やNATOとの紛争が起こるかもしれない」「また米国は中国に備える必要がある」とし、交渉による決着を促している(※詳細省略)。
・この提言で注目されるのは米国の対応よりロシアの分析だ。「経済の損失、信用の失墜、軍の弱体化、欧州でのロシア産エネルギー削減、フィンランド/スウェーデンのNATO加盟などの代償を払っている」とし、「回復に数十年掛る」とした。ロシア市場から撤退した日米欧の企業は、簡単に再進出しない。半導体などのハイテク分野の経済制裁も尾を引くだろう。頭脳流出も経済に悪影響を及ぼすだろう。国際政治でも地位は低くなる。中国/インド/ブラジルなども全面的に助けることはない。旧ソ連諸国も距離を置く様になった。長期的に見れば、ロシアもプーチンも敗北した。スルコフの言葉を借りれば「百年の孤独」が始まった事になる。

あとがき

・私がモスクワに赴任する時、「全ての出来事を否定的に捉え、ソ連を批判する記事だけを書けば良い」と言われた。東西冷戦時は、西側は善、東側は悪だった。ロシアになってもこれが通用した。ゴルバチョフの改革は頓挫した。急進改革派のエリツィンはロシアを潰した。彼の民主改革/市場経済化で社会は混乱し、急進改革派の支持率は地に落ちた。プーチンは独裁国家体制を築き、ウクライナ侵攻を始めた。

・米ジャーナリストのヘドリック・スミスが名著『ロシア人』を書いている。「ロシア人は中央集権/序列に盲目的、外国人嫌い、知識人へのあら捜し(※この認識はない)、ロシアへの愛着、権力者に従順、支配者と被支配者との溝を批判しない」とした。これらが歴史的に根付いているなら変革は難しく、西側は受け入れる事ができない。

・私は日本経済新聞の記者としてモスクワに2度駐在した。最初はゴルバチョフ政権末期からエリツィンの新生ロシアの期間、2度目はエリツィン政権後期からプーチン政権初期の期間だ。その後も度々出張した。ところがプーチンがウクライナ侵攻するとは思わなかった。バイデンは「プーチンは侵攻を決断した」と言ったが、私は踏み留まると思っていた。その第1の理由は、侵攻しても得がないからだ。得られる領土は知れているし、ウクライナや米欧との関係が決定的になる。彼は「戦略なき戦術家」だ。
・第2は個人的な理由だが、初期政権で権威主義的傾向があったが、彼は米欧との関係改善に真剣だった。ロシアでも民主化のうねりがあり、その頂点が1991年夏だ。保守派のクーデターが失敗し、民主改革を求める市民がモスクワの中心部を埋めた。レニングラードにいた彼も民主派を支持した。そのため大統領就任当初は米欧との協調路線を進めた。ところが期待が不信になり、裏切られたと感じ、憎しみ・怒りに変わった。従って責任は西側にもある。しかし彼の蛮行は許されるものでない。

・今のロシアでは家族間でもウクライナ侵攻を話す事ができない。ロシアの知人は「我々はウクライナ侵攻に賛成していない。クリミア半島もウクライナもいらない」と嘆いた。「プーチンの戦争」はロシア社会を閉塞・陰鬱にしている。ウクライナの早期終結を願う。そしてロシアが歴史的な影響を克服し、真に民主化される事を願う。