『100年前から見た21世紀の日本』大倉幸宏(2019年)を読書。
今の日本と100年前(大正時代)の日本を比較。
当時の日本人は短気で感情的。今の日本人は幾らか合理的で忍耐強くなったかな。これに第2次世界大戦と高度経済成長が大きく影響していると思う。
日本人の性格は大きく変わっていないと思うが、将来を担うミレニアム世代/Z世代などを含め、少しづつ変化しているかな。
教育・女性・報道などの問題は継続しているかな。
100年前の文章は難読。またテーマが抽象的で難解。
お勧め度:☆(難読)
内容:☆☆
キーワード:<はじめに>混乱期・発展期・安定期、言葉、<プロローグ>浮調子、長所・短所、国民性、<働く人へ>労働生産性、勤勉、長時間労働、教員、役人、物品、情実、忍耐、重役、<指導者へ>人格、政治家、島国根性、有権者、自由教育運動、体罰・暴力、<日本人へ>女性問題、与謝野晶子/平塚らいてい、新聞、プライバシー、弾圧、フェイクニュース、関東大震災、詐欺、電報・電話、<若者へ>堕落、修養、学生、読書、<100年後>飛行機/ロボット、政治・経済・社会
はじめに
・「今の日本は戦前と似ている」「大正時代(1912~26年)と平成時代(1989~2019年)は似ている」と言われる。確かにバブル後の不景気や大震災があった。「時代は繰り返す」と言われるが、そのまま再現される事はない。明治・大正・昭和を「混乱期」「発展期」「安定期」と捉える事もできる。混乱期は秩序維持に重点が置かれ、発展期は目標に向かって突き進む。ここまでは細かな課題に注意が向けられない。それが安定期になると改善が求められる。そして発展期で奮闘した世代は、安定期の世代にもどかしさを感じる。この安定期が今の日本であり、100年前の日本だ。
・本書はこの2つの時代を対比する。その手掛かりとして、100年前の論者の言葉を借りる。彼らは様々な問題に対し、様々な意見を述べている。この意見は当時の人に対して述べているが、今でも参考になるし、当時の世情を知る指針にもなる。本書は彼らの言葉から現在を読み解くが、それを4つのテーマに分けて行う。
・本書は歴史的視点で現在を捉えるのが目的で、その視座を100年前の大正時代(※以下大正)とした。参照する言葉は、書籍・新聞・雑誌などから得ている。内容を重視したため、著名人でない人の言葉も多くある。
プロローグ 100年前の日本人
○戦争を知らない日本人
日清日露戦争により日本は一等国になった。両戦争は海外で行なわれ、連戦連勝のため、国民は軍の苦労を知らない。そのため愛国家は屍山血河を知らず、提灯行列や祝勝騒動しか連想していない。国民は「浮調子」になった。(本多数馬)
※引用文は全て簡略化。引用元/発表年も省略。
・本多数馬は海軍中佐で、第1次世界大戦後国民に苦言を呈している。国内最後の戦争は西南戦争(1877年)のため、多くの人が戦争を知らなかった。続ける。
戦争は血肉骨の争いだ。座上の大和魂は役に立たない。提灯行列の万歳式愛国心も価値はない。
・第2次世界大戦後に生まれた人も「戦争を知らない世代」だ。田中角栄は「戦争を知らない世代が政治の中枢になると危ない」と言っている。第2次世界大戦も「浮調子」の者が主導したのかも知れない(※満州事変(1931年)/日中戦争(1937年~)など海外戦争は断続的に行なわれている)。戦争体験者が戦争を引き起こす事例もあり、体験者が必ず戦争を忌避する訳ではない。ただ100年前は「浮調子」「平和ボケ」だったと言える。
○視野の狭い日本人
・日本は第1次世界大戦の戦勝国になり飛躍的に経済成長し、五大国になる(※欧州は戦場になったからな)。ところが国民は大国として視野を持っていなかった。1921年宮内庁書記官の二荒芳徳が日本人について述べている。
今の日本人は「力み過ぎ」だ。負け惜しみが強く、余裕もない。欧州人に支邦人に間違えられ、憤慨する日本人が多い。
・そんな日本人は今でも多い。それなのに日本人は欧州人の出身国を見分ける事ができない。当時の日本人は欧州人に劣等感を持つが、アジア人は民度が低いとして中国人・朝鮮人に対し優越感を持っていた。続ける。
日本人が考えているほど日本は大国ではない。日本人は自惚れ、独りよがりになっている。高校を出た者が山村に入り、政治・経済・工業・農業を語り、田舎老人を煙に巻いている感じだ。本を読んだだけで、西洋を知っている気でいる。
・今の日本人もバブル期に豊かさを謳歌し、世界の頂点に立った錯覚を抱いた。当時も同様で、第1次世界大戦後の好景気で成金となった人が世の春を謳歌した。3度の勝利で大国になったと錯覚していた。続ける。
日本人は他国民に親しく交わり、世界の平和/人類の福祉のために働く襟度が必要だ。学校教育などで日本人の長所短所を学ばなくなり、「力み過ぎ」になった。
・彼は襟度(他国民に対する寛容さ)を失ったと指摘する。その原因を日本人の長所短所を学ぶ事を怠ったからとした。教科書に日本の美点や改善点が記述されていない訳ではない(※当時の教科書は国粋主義かな)。しかし海外に行く機会は少なく、入手できる情報も少なかった。日本人の意識は強まったが、それを客観的に捉える事はできなかった。
○日本人の長所・短所
・日本人の長所・短所を記述する書物もあった。元官僚で社会学者の永井亨が日本人を論じている。
日本人は創意に欠け、理想に乏しい。これが弱点だ。現実に捉われ、理想に生きようとしない。その代わり感受性に富み、模倣性が高く、同化性が強い。そのため哲学・宗教には不向きだ。一方科学・道徳は発達した。
日本人は感情に長じるが、利害の打算に乏しい。教育を受ければ、理性は発達する。無教育者に迷信は多いが、神秘的ではない。保守思想が多いが、進歩思想を受け入れるのも早い。感情が発達しているため、感激性・感傷性も強い。智・情は足るが、意が足りない。
・帝国大学で初めての哲学教授となった井上哲次郎は、『国民道徳概論』(1916年)で国民性を13点挙げている。
現実性・・高遠な推論より現実。
楽天性・・楽天的に考える。
単純性・・単純を好む。
淡泊性・・淡泊を好む。
潔白性・・物質的にも精神的にも清潔を尊ぶ。
感激性・・感激し易い。
応化性・・変化に順応し易い。
統一性・・外来の文明を取り入れる。
短気性・・気が短い。
依頼性・・依頼心が強く、独立心が乏しい。
浅薄性・・探求心・忍耐力が乏しい。
鋭敏性・・物事を直ぐ了解する。
狭小性・・何事も規模が小さい。
※江戸っ子を思わせるが、祖父・父はこんな感じだった。
・永井・井上の指摘は共通点が多い。短所が多いが、日本人を卑下していない。短所が多いのは、改善を望んでいるからだ。
・社会事業家の山下信義と村田太平が、『一事貫行真髄』で国民性を論じている。
日本人は武勇に富む。祖先を大切にし、礼儀を重んじ、機敏/潔白/優美/繊功だ。それは日本武尊/菅原道真/織田信長/乃木大将に現れる。この長所はどこの国にも負けない。
・これは国粋主義者の見解だ。続いて短所についても書いている。
熱狂的排外的で、自負心が強く負け嫌い、小規模で軽率、飽き性で気が短い、親の脛を噛む、楽隠居が手柄、功名心は強いが、独立心は弱い。長所も短所も多い。
特に猛省すべきは、持続力の欠乏、粘着力の不足、花火的・一時的。折れやすい木で、粘り強い竹ではない。
・この「持続力の欠乏、粘着力の不足」は井上の指摘にもあった。今の日本人は東日本大震災にあった様に「粘り強い」と言われ、この点は変わった様だ。
○国民性とは
・多くの論者が国民性を論じている。大筋は一致する。これらの言葉は占いで使われる。また特定の国民だけに当てはまると思える言葉もあれば、他の国民にも当てはまると思える言葉もある。誰にでも当てはまる言葉を自分の特徴と誤認する現象を「バーナム効果」「フォアラー効果」と言う。ただしこれらは論者の主観であり、他国民と実際に比較した訳ではない。
・これらの指摘は当時の政治・経済/社会環境/国際状況/風評を映し出す時代像でもある。今でも変わらないもの/変わったものがあり、100年間の社会変化が浮かび上がる。
第1章 働く人へ
<1.働き方改革>
○メリハリのない仕事振り
日本人は時間が来てもダラダラ何かしている。時には日曜でも出勤している。これは日本人特有の虚飾虚礼だ。時間が定められているのに、全てがだらしない。(飯田旗郎)
・100年前は「欧米列強に追い付け」だったが、労働者がその思惑で仕事をしていた訳ではない。フランス文学者の飯田を続ける。
ダラダラ働くのを喜ぶ上役もいる。働く時は大いに働き、休む時は大いに休む。これが能率向上の秘訣なのに、日本人は反している。
・この風潮は今でも変わらない。労働生産性に拘らない人は今より多かった。2016年安倍政権は「働き方改革」を掲げ、それに「労働生産性の向上」が含まれる。100年前もこれが問われていた。政治家・評論家の野依秀一も日本人を批判している。
欧米人は日本人の様に遊んでいるか働いているか分からない様な事はない。彼らは「時は金なり」で存分に働き、遊ぶ時は思い切って遊ぶ。
・東洋汽船で取締役を務めた白石元治郎も同じ指摘をしている。
西洋人は遊ぶ時と働く時を明確に区別する。一方日本人はその区別が曖昧だ。日本人は勤務時間に煙草を吹かしたり、雑談している。これは常識が発達していないからだ。
・日本人と欧米人の違いで休日、特に仏人のバカンスが引き合いに出される。今の仏国では5週間の有給休暇が法律化されている。当時は法律化されていなかったが、富裕層はバカンスを楽しんでいた。一方日本では日曜日の休日も習慣化していなかった。※武士は年中無休で出勤時間も曖昧。庶民も農家/商家など公私が一体化していた。
○仕事と休暇の考え方
・欧米の働き方を見て、日本は改善が必要と感じる論者はいたが、多くの日本人は自覚していなかった。職場にいる時間が重要で、質は気にしなかった。「友人が集まると、『近頃忙し過ぎて』『朝から晩まで働かなければ』などと不満を漏らしている」(荻野仲三郎)。「人を見れば忙しそうにしている。そして『忙しくて困る』と言っている。本当にそんなに忙しいのか」(青柳有美)。日本人は「忙しい」と言いながら、仕事をダラダラしていた。
・日本人と欧米人では休憩時間の使い方も違った。陸軍中将の村岡恒利が述べている。
欧米人は時間に厳重で、労働時間は余所見すらしない。食後の休憩時間は勉強したり、運動したり、聖書を読んだりする。一方日本人は浮世話などで1時間を費やす。
・日本人の方が休憩時間を無為に過ごした様だ。当時の日本人は仕事以外に興味を持つ事は少なかった。休憩時間を有意義に過ごすとか、仕事と生活の調和などは考えなかった。日本は当時からワーク・ライフ・バランスで遅れていた。
○欧米の労働者との比較
・編集者の酒井不二雄が日本と欧米の労働生産性を比較している。この数値は調査に基づくものではなく、国民性を表したものだろう。
人間工学で6時間分の仕事に必要な時間を日米英独仏で測ると、怠けがちな日本人は8時間必要になる。米国人は4時間で仕上げ、2時間運動する。英国人は5時間で仕上げ、1時間修養する。独人は6時間で仕上げる。仏人は4時間で仕上げ、2時間は酒を飲む。
・明治学院教授から外交官になった小松緑も述べている。
帝国ホテルの米国人技師が大工などの労働時間を6時間に定めた。林支配人が「西洋並みに働かせたいなら、8時間にすべし」と言うと、彼は「彼らは気力がなく、遊び半分で働くので、6時間が妥当」と答えた。
・労働生産性の低さは外国人からも指摘されていた。一方日本人自身はそれを自覚していなかった。大正デモクラシーをリードした吉野作造が労働者から聞いた話を残している。
その妻が働いていた紙漉き工場が火事になり、自宅で請け負う事になった。朝8時から夕方6時まで掛っていた仕事が4時間で終わった。工場では怠けていた訳ではないが、手を緩めていた。
・これを心理学で「社会的手抜き」「リンゲルマン効果」と言う(※出社しているが、何もしていない人は多い)。続ける。
10時間働いても4時間分の能率しか挙げられないのでは、雇主にも国にも浪費だ。労働時間を短縮しても労働者の休養にならないし、能率向上にもならない。弊害の根源は賃銀制度にある。
・彼は「賃銀制度を出来高制に改めるべし」とした。当時は日本は明らかに労働生産性が低かった。ところが1970~80年代でそれが高まる。1979年社会学者エズラ・ヴォーゲルは日本の労働生産性が英国を上回ったと指摘している。しかしその後は低下し、2016年では、OECD35ヵ国中21位で、G7最下位になっている。
○日本人は勤勉か
・日本人は勤勉とされる。その契機が江戸時代後期の「勤勉革命」だ。これは歴史学者の速水融が唱えた説だ。18世紀平野部は開墾し尽くされた。そのため平地でない土地を家畜ではなく人手で深耕する様になる。これにより勤勉が文化になった。※この説は知らなかった。
・1963年民俗学者の宮本常一が農村について述べている。
農村は人が多過ぎる。機械化などをすると、人が余ってしまう。そのため不合理な生産を続ける必要がある。不合理な生産をしているのに気が付いていない。勤勉だけが求められた。※避妊の遅れも関係しているのかな。
・これにより6時間分の仕事を8時間でする風潮が生まれた。勤勉が重要で、労働生産性を高める事は要求されなかった。この人達が工業・サービス業も担う様になった。その非合理な労働慣行が今も存続している。少子高齢化で労働力不足に陥っている今こそ、労働生産性を高める必要がある。
<2.長時間労働の抑制>
○工場や商店の労働者
東京モスリン(※社名)は11時間制と言っているが、実際は12時間制だ。同社は夜業の1時間を希望者だけと公表している。こんな会社は欧米にはない。(細井和喜蔵)
・長時間労働は本人の意識によるが、強いられているケースも多い。今はドライバー/飲食店の長時間労働が問題になるが、100年前は工場だった。この記述は紡績会社のルポで、細井和喜蔵による。「三百有余日」とあり、休日も少なかった事が分る。1916年「工場法」が施行される。しかし職工が15人以上の工場で、しかも対象は15歳未満の子女に限定された。この法律は最長時間を12時間とし、休憩と休日(月2回以上)も規定していた。
・医学士の佐野克己がデパートの事例を記述している。
クリスマス前の1・2週間は毎夜12時近くまでデパートに引き留められる。そして婦人胴着を縫うため、朝7・8時に出社する。彼女らは回復する事なく、疲労を蓄積させる。
・労働時間を短縮する動きもあった。当時を代表する百貨店「白木屋」の社長・西野恵之助が述べている。
旧式商店で朝から晩まで17・8時間働かせても成績は上がらない。工場労働者に対し法律があるが、商店員にも必要だ。休息日も月2回を法で規定すべきだ。
・今の「労働基準法」では週1日以上の休日を定めている。完全週休2日制は47%、何らかの週休2日制は87%となっている。
○労働時間の短縮
・「三越呉服店」に勤めていた医学士の半田勇も述べている。
小僧番頭は人間扱いされていない。病気になると郷に帰されたり、解雇される。
・工場労働者は「工場法」で「労働者」として規制された。しかし商店では「丁稚奉公」として扱われる年少者が多かった。彼らは主人に奉公する小僧として扱われ、給与などは与えられなかった(※要するに小遣い程度か)。
・1911年工場法の制定、1919年国際労働機関(ILO)第1号条約の締結により労働時間の短縮が進められる。第1号条約は労働時間を1日8時間/週48時間に制限するが、日本は批准しなかった。経営者は「短縮すれば収入が低下する」「労働者が堕落する」などを主張した。先述の佐野がある評論家の言葉を記している。
閑暇は堕落の淵に沈むべき疑惑に過ぎない。労働時間の短縮は堕落の機会を与えるに過ぎない。
・こうした暴論に彼は「工場における過労の有害・危険に対し、冷淡・無知である」「労働時間の短縮は、むしろ生産・賃金を増加させる」と反論している。また休養の必要性を訴えている。続ける。
健康を破壊する要因の第1に労働時間の長さがある。これに対する救治策は近くにあり、法律により労働時間の短縮が可能だ。
・法律で定められても、空文化されている職業が多かった。その代表が教員だ。
○教員の勤務実態
・今日「残業代が支払われない」「休日に部活動がある」「昼に給食指導がある」など、学校は「ブラック職場」とされる。しかしこの勤務実態は100年前から問題視されていた。教育家の西川三五郎が訴えている。
小学校教員は勤務中に余裕が全くない。このままでは教員の活力・精力が衰える。教員の体格が劣っているのはそのためだ。
・愛知県で教鞭を執っていた石黒あさも記している。
教員は一時も休む暇がない。授業は3時に終わるが、その後教授案/統計表/道具制作などがあり、帰宅する頃は暗くなっている。そのため倦み疲れ、自己の修養などもできない。日没前に帰宅するのは視学から譴責されるため、雑談して時間を空費している。
・視学とは教育の指導監督する行政官で、人事権などを持つため、勤勉な姿を見せる教員もいた。これは典型的な日本人の労働者だ。
・玉川学園を創設する鯵坂国芳も現状を問題視している。
元気な青年教師が多端な事務で2年で亡くなった。下らぬ仕事で勉強する暇はない。魂が抜けた状態で教壇に立っている。
・青年の死因は「過労死」だろうが、これは今も起きている。厚労省の白書では、教職員の最大のストレス・悩みは「長時間勤務」(43%)で、「人間関係」(40%)「保護者・PTA対応」(38%)を上回る(※それ程差がないかな)。中学校では「休日・休暇が少ない」(42%)「部活の指導」(42%)も高くなっている。※いじめなどの生徒対応は低いのか。要するに避けているのかな。
○教員が多忙な理由
・私立小学校を創設した教育者の西山哲治は多忙の要因を「表簿」(雑多な書類)の作成としている。
教員は雑多な書類の作成のため教授の準備ができず、修養もできない。これにより教育力が衰退している。
・彼は「教員は規定の1・2時間前に出勤し、残業もするため、10・11時間働いている」とした。ただ長時間労働の要因に、校長の顔を伺う風潮もある。
最も無意義なのは、校長が下校するまで学校に居ないといけない。精勤者と思われるために、1時間で済む事務を数時間掛けてやっている。
・これは石黒あさが訴えた視学と同じパターンだ。さらに彼が嘆いている。
今の小学校は授業参観/職員会議/学年会などで居残りせねばならぬ。それなのに一般人は教員は楽と思っている。校長は毎日残業を強いている。
・教員は教える能力だけでなく、倫理観・規範意識も求められる。戦前は「同盟休校」があった。これは生徒が自分達の要求を通すため、授業をボイコットする。戦前は教師は尊敬の対象ではなく、反抗する生徒もいた。教師にはそんなプレッシャーもあった。鈴木画一郎が教員の扱いを批判している。
教育現場に昔の美風はない。生徒はストライキをし、父兄なども雷同している。教育に盲目な連中は不肖の生徒の罪を責めず、教員を批判する。これは最大の弊害で、国の識者は何を見ているのか。※モンスターペアレントの問題は今もある。
・「長時間労働に対し、待遇を改善すべし」との意見もあったが、実際給与は少なかった。
○役人の仕事振り
・学校と同様に、官公庁の勤務実態も知られていない。一般的に「仕事は楽」と思われている。また「お役所仕事」「役人天国」と厳しい目が向けられる。元大蔵官僚の添田壽一が述べている。
朝定時に出勤しても仕事する時間は短い。行政整理が言われるが、それは行なわれない。仕事をする観念は変わらない。
・新聞には以下が投稿された。
近所の詰所のお役人は、10時頃に集まり始め、雑談をして、4時になると帰って行く。
・これは関東大震災の復興局の話だ。労働生産性と無関係の職場のため、そのような職場もあった。
・一方真面目に働く者もいた。元文部官僚の澤柳政太郎が余裕のない現状を伝えている。
役人は耳から知識を得ているが、書物・雑誌を読む暇がない。来訪者の対応に忙しく、職務上の書類さえ読めず、盲判を押している。この様な状況なので読書も考える事もできない。
・彼はこの現状を「国家の深憂」とし、「役人に余裕余暇を与え、読書・熟考させるべし」とした。官僚が多忙なのは知られている。しかも残業代は一部しか支払われていない。
・先述の二荒は「教員と官僚の待遇を上げるべし」とした。教員は薄給だったが、官僚は当時でも官民格差が指摘された。待遇面はともかく。労働時間の改善は必要だった。今日「働き方改革」がメディアに取り上げられるが、大企業がばかりだ。中小企業や自己責任の個人事業主は注目されない。教員・役人も後者に含まれるだろう。それらの職業に改革が及ぶかが重要になる。
<3.仕事に対する意識>
○物品を粗末に扱う労働者
日本人は物の取り扱いが荒く、破損させる事が多い。ドイツ人が嘆いていたが、工場の機械・道具が破損しがちだ。(村岡恒利)
・「働き方改革」も重要だったが、別の意味の働き方も問われていた。先述した村岡は機械・自動車・電灯・時計などの扱いも問題視していた。鉄道での荷物の扱いや工場での材料の扱いも指摘している(※これは短気な性格によるのかな)。
日本人が原料を粗末に扱っているため、損益に影響している。無駄に減耗させないのが原則だ。日本はこれが行き届いていない。
・彼は工場を事例にしているが、これは事務系の職場でも同様だった。実業之日本社の創業者の増田義一が「物品に対する観念」を述べている 青年は自分の物でないと粗末に扱う。気が大きいため、会社の物でも官省の物でも濫費する。
・自分の物は大切にするが、会社や公共の物は無駄遣いを厭わない。
○物を粗末にする習慣
・物を粗末にするのは労働者だけでない。先述した野依秀一はこれを日本人に共通する悪弊とした。
日本人ほど物を粗末にする。切端詰まった状況にないため、物の有難味を分かっていない。米国は物資が豊富だが、無駄遣いしていない。日本の無駄遣いは、汽車の弁当の残りを見れば分かる。「勿体無い」と言って全部食べると、「あいつはケチ」となる。
・当時の日本は「欧米列強に追い付き追い越せ」で、前近代的な悪弊の改善が求められた。そのため彼の主張も啓発の意味が込められていた。
・今では「勿体無い」の言葉が海外でも使われる。これはノーベル平和賞を受賞した環境保護活動家のワンガリ・マータイが使った事による。しかし日本人は昔から物を大切にしていた訳ではない。「勿体無い」は仏教用語で、「恐れ多い」「不都合」などの意味だ。歴史的に物を長期に使ったり、再利用した事例も多々ある(※建物の再利用は多いかな)。東西を問わず、物が限られた環境では、物を大切にした。
○情実という悪弊
・実業家の関守造は「日本ほど情実が行われる国はない。ほとんど全ての事にこれが行われている」と述べ、「全てに情実(個人的感情)が絡んでいる」とした。
情実は政府・政党・取引・会社など、あらゆる場所で行なわれている。これにより贈賄収賄などの法律違反が醸成された。
・彼は「人事に限らず、商取引においても情実が行われている」とし、そのため「約束より情実を重んじるため、外国人との商取引が円滑に行なわれない」とした。道徳心を欠いたため、日本の商取引の信用度は低水準に留まった。※つけとかもある。
・首相に就く高橋是清が日銀総裁時に労働者の欠点を述べている。
日本の使用人は公私の観点に乏しい。会社でも家でも遊び半分で仕事している。そのため同僚間での同情に欠け、会社の利益を増進させる気がない。会社に対する不平、各々の欲望を満足させるなどの同情はあるが、公心の発動に対する同情はない(※組織に対する忠誠心かな)。
・日本人は私的な利害に関心があるが、会社・組織の利益増進には関心が薄かった。※当時は就職の流動性が高かったが、戦後低くなり、変わったかな。
・「日本人は真面目、親切、誠実、義理人情に厚い、和を尊ぶ、集団を重んじる」とされるが、違ったようだ。自分を中心とする範囲(世間)ではこれらの言葉が通用するが、他では態度が変わったようだ(※簡略化)。近代化により村から外に出る様になると、村では勤勉に働くが、他人ばかりの会社・組織では、その特徴は発動されなかった。ところが時代が下ると都市人口が増え、会社が世間と思われる様になると、その特徴が発動される様になる。高度経済成長期になると、それが強まり、大きな力になった。
○労働者に必要な心掛け
・多くの論者が、粗雑な物の扱いや情実を指摘している。特に第1次世界大戦以降は海外との商取引が増え、悪しき習慣の改善が課題になる。これらは当時の「ビジネス書」「自己啓発書」にも記された。労働者が心掛けるべき事柄を紹介する。先述の鈴木画一郎が「出世の秘訣」を説いている。
皮肉で人に報いたり、理屈で人と争うと昇進しない。俸給生活する上で同僚・上長と衝突していては、勝った技術を持っていても出世の望みはない。※何か忖度だな。
・当時は上司を皮肉・理屈でやり込めようとする青年が少なくなかった。彼はこれが実業界だけでなく、政治でも見られるとした。彼は「日本人は圭角があり、感情に走り、反感・誤解を招く挙動が多く、社交的訓練が必要」としている。
○失敗を避ける方法
・商学士の鈴木易三が「失敗を避くる秘訣」を説いている。
何事かを成そうとする場合、利害関係のない友人先輩を10人選び、その可否を尋ねるべきだ。反対が3人以上いれば、着手すべきでない。独断は失敗の基だ。公平な判断ができないのが人の弱点だ。
・第1次世界大戦による好景気で多くの者が新事業に着手したが、戦後の不景気で淘汰された。当時は個人が入手できる情報が少なく、他者の知見が不可欠だった。これは今でも十分通用する。これは起業に限らず、会社組織にも当てはまる。また昨今企業の不正が多いが、この問題に対し第三者の意見を取り込む風土が必要になる。続ける。
日本人は早急性が強い。これには善悪があるが、致富(※営利かな)においては欠点になる。投機市場では成功する事もあるが、容易に得た物は容易に失う。※当時の日本人はスピーディだったのかな。
・彼は「一獲千金主義」を日本人の国民性とするが、「一業専心主義」の方が成功するとしている。先述の山下信義/村田太平も同様の「一事慣行主義」を説いている。
真の成功は最後の5分に来る。ここまで耐え忍ばなければ成功しない。日本人は器用・機敏だが、大忍がない。純重・大量・長持になり、持久・意志を持たなければいけない。
・2人は日清・日露の短期的な戦争ではなく、長期的な戦争にも勝てないといけないと考えていた。しかしこの姿勢が悲劇を生む事になった。
<4.出世しても驕らず>
○企業幹部への批判
会社の重役は横着、我儘、働かないのに多くの報酬を得ている。才智・勤勉もいるが、多くは我儘で、驕慢児だ。(石山賢吉)
・100年前労働者に働き方や仕事に対する意識改革が求められたが、幹部に対しても同様だった。ダイヤモンド社を興した石山賢吉は重役を横着・我儘と非難している。またその高い報酬も非難した。大戦景気で成金が生まれ、当初は称賛されたが、次第に軽蔑され、怨嗟の対象になる。続ける。
彼らが机に向かうのは1・2時間だ。広い部屋は無駄だ。一方社員はすし詰めで働いている。
・先述の関守造も重役について語っている。
重役・主人は言行を慎むべきなのに、白昼から風俗店に出入りしたりしている。しかもその敏腕を誇負するなど、言語道断だ。
・出社は遅く、昼間は長時間外出し、夕方には退社する。彼らは長時間勤務とは無縁で、庶民から指弾された。
○不正に手を染める重役
・仕事を怠けるだけでなく、地位を利用して金儲けする者もいた。先述の高橋是清が述べている。
近頃の重役は会社の利害など全く念頭になく、会社を利用して私服(※私腹?)を肥やしている。この本末転倒は非常識で、無責任だ。
・石山も同様に重役を非難する。
現今の重役は地位を利用して金儲けしている。これは現今に限らずあったが、現今は露骨にやっている。
・今でもこの指摘があり、100年前から続いている。ただ「露骨」の言葉が示す様に、不正しやすい社会環境だった。高橋が述べている。
失態が露呈するが、それは制裁が弱いからだ。その人が悪いだけでなく、社会に責任の観念がない。社会が責任を自覚し、無責任に対し厳しい制裁を加える様にならないと、この悪風はなくならない。
・私服を肥やしていたのは重役に限らず、様々な人が行っていた。社会的制裁は緩やかで、庶民の規範意識も育っていなかった(※人権などの意識も徐々に高まったかな)。商業道徳も低く、諦念に似た感情もあった。
○出世を目標にしない
・重役は批判の対象になったが、それに憧れ、立身出世を目指す若者は多かった。それを高橋が戒めている。
立身出世の機会のため、その手段を選ばない事をして立身出世しても、それに価値はない。その様な機会を作るべきでない。
・高い地位は目指すのではなく、自然と訪れるとした。彼は「謙虚さを持った人が上に立つべし」と考えていた。1913年彼は首相と立憲政友会総裁に就く。この地位は彼が望んだものではない。彼の行動は言行一致していた(※詳細省略)。
・宝塚歌劇学校の教師になるジャーナリストの青柳有美も人の上に立とうとする人を批判している。
とにかく人の上に立ちたいと心掛けている輩が多い。彼らは大馬鹿者だ。人の上に立って敬われている人は、他人から戴かれて上に立っている。
・高橋も青柳も上を目指そうとする人を批判する。だが身分制から解放され、多くの人が出世のために奮闘した。そしてそれが国が発展する原動力になった。
○肩書を尊ぶ風潮
・高い地位を得ようと躍起になる人を批判する一方、立身出世を称賛する風潮も強かった。先述の澤柳政太郎が述べている。
今の世の中は階級はなく、実力が運命を決める。しかし実力より肩書を尚ぶ風潮がある。例えば大臣に学識・人格・抱負がなくても、人は彼を偉い人とする。また著書においても肩書がある人の著書であれば、内容に拘わらずよく売れる。
・今でも大臣は尊敬されるが、学識・人格・抱負がないと判断されると罷免される。当時はメディアが発達しておらず、大臣の肩書は格段威厳があった。また著書においては今でも肩書・知名度が高いと大いに売れる。
・先述した鈴木画一郎も地位・肩書に触れている。
近頃は各地に銅像・記念碑がある。例えば九州に行けば耕地整理の記念碑があり、そこに知事・村長などの名が刻まれている。これは無能の輩により寄付金が強要され、建立された無益の記念碑だ。銅像・記念碑の多きは、亡国の兆しだ。
・日本は各地に無駄な銅像・記念碑がある(※同感)。それは現世で得た地位・肩書を後世に残す事を名誉と信じているからだ。※被災の碑もあるが、日清・日露戦役の記念碑は多い。
・日本は高い地位を得た指導者によって近代化が牽引された。その指導者にどの様な資質・姿勢が必要なのかを次章で見る。
第2章 指導者へ
<1.品性を高めよ>
○立派な人物の欠乏
学校が毎年卒業生を送り出しているのに、社会に立派な人がいない。(澤柳政太郎)
・「日本人が小粒になった」「世の中に大人物がいない」などをよく聞く。これは100年前も同じだ。先述の澤柳政太郎を続ける。
政治が混乱するのは、中心たる人物がいないからだ。二流の人材も物足りない。彼らの中から一流になりそうな人もいない。人物の不足は実業界にも及ぶ。軍人・学者・教育家・宗教家も同様だ。
※1901~13年は桂園時代で、桂太郎と西園寺公望が交互に首相に就いた。その後山本権兵衛/大隈重信/寺内正毅が就き、1918~21年原敬が就き、その後高橋是清/加藤友三郎/清浦奎吾/加藤高明/若槻礼次郎と続く。
・幕末維新の指導者を理想とし、当時の人材欠乏を嘆く声があった。その原因を教育としたのも共通する。一方維新から半世紀経ち、求められる指導者が変わったとする論者もいた。初代宮崎市長となる大迫元繁だ。
当時の指導者は命令者・号令者・専制者で、傲慢不遜で、それで済まされた。しかし今の指導者は、民衆の声を聞き、彼の声は民衆の声でなければいけない。そうでないと治まらない。
・大正になっても依然薩長が強い力を持っていた。そのため彼らへの反発が強まり、民主主義を求める運動が活発になった。そんな中、大迫は「かつての賢人政治では、民衆に服従はあるが、自覚はない。盲従はあるが、理解はない。彼には主義思想の変化があっても、民衆には進歩がない」と述べている。そのため「指導者は民衆を偉大にする手腕が必要」と説いている。
○独善的な指導者
・新しい指導者が必要とされたが、現実は旧態依然の指導者が幅を利かせた。実業家の広岡浅子が述べている。
私は指導者が遅れているのを気の毒に思う。指導者が進めば若い人は従うと思う。
教師は酒を飲み、野卑な話をする一方、後継者には多くを注文する。親は自分の人格を吟味せず、子女の行為を責める。
・自ら範を示さず、指示するばかりなので、誰も従わない。この傾向は今も変わらない。国文学者の山崎藻花が述べている。
社会の先輩は青年を放逸と非難し、空想的で実務に適さないと責める。彼らは着実・従順・正直を求める。青年は不謹慎な態度はできないし、ハイハイと畏まっていないといけない。青年に活気がないと言われるのは、注文通りの行動をするからだ。
・青年の活気を奪う指導をしておきながら、それを非難する。自分が若かった頃の品行を棚に上げ、青年に注文を並べている。彼はそんな指導者を非難する。続ける。
先輩の言葉に従うのは、後輩の義務かもしれない。しかし先輩には非凡人も凡人もいる。特殊でない人の言葉には従わなくて良いと思う。
・後輩が先輩の言葉に従わなくなると社会は乱れる。そのためこれは先輩への戒めだろう。
○人格を高める必要性
・南満州鉄道総裁に就いた後藤新平も上に立つ者の人格の重要性を説く。
人を使う者は部下の反対抗議を受け入れる度量が必要だ。その様な部下でないと仕事はできない。これを抑制すれば、ただの機械になる。
・彼の意見は先述した鈴木画一郎の「理屈を並べて絶えず同僚・上司と衝突していては、出世はできない」と関連する。出世するには上司と円満でないといけないが、たまには衝突する気概が必要だ。
・ここで重要なのが上司の部下に対する姿勢となる。農業教育者で衆議院議員・貴族院議員の山崎延吉が青年団の指導者についいて述べている。
青年や青年団を愛するなら、己を反省し、身の程を知るべきだ。指導者に推されても、内省し、辞退する覚悟があるべきだ。
・青年団は村社会にあった若者組の延長で、全国的な組織になった。上に立つ者は、高い品性・見識を持ち、リーダーに推されても辞退する謙虚さが必要とした。
・当時、人格向上を訴える修養書が多く出版されていた。特に指導者にそれが求められた。部下を育てるテクニックより、人格向上が求められた。一方今は人格とテクニックの両方が求められている。当時は「指導者は育成するものでなく、その資質を持った人物がなるべし」(リーダシップ資質論)との考えだった。一方今は育成できるとの「リーダシップ行動論」が主流だ。※ところで人格って何だろう。多数の観点があるかな。
<2.政治家は腐敗堕落から脱せよ>
○国民を顧みない政治家
いかなる時代も政府が傾倒する問題は政権の維持で、国民生活ではない。野党・貴族院・元老院とかには必死になるが、国民の問題になると「目下調査中」「漸次改良する」と冷々淡々となる。政治家には物価高騰/失業問題より、内閣の寿命を延ばすのが最重要になる。(望月潔)
・指導者で特に注目されるのが政治家だ。彼らには高い資質と真摯な姿勢が求められる。望月潔は雑誌『事業と広告』の編集長だ。彼は政治家が最も重視するのは政権の維持で、国民生活は二の次とした。当時は民主主義を求める機運が高まっていた。
・讀賣新聞の社説にもある。
日本の政治家の体たらくは酷い。山県の政党懐柔、星の議員操縦、原の党勢拡張。(※省略)結局成功した政治家は、人の弱点を利用するのに勇敢だった者だ。
・維新の英雄と異なり、その後の政治家は政局に明け暮れた。晩年まで影響力を持った山県、政界で手腕を発揮した星亨、立憲政友会を拡大させた原敬を論難している。
・先述の大迫は「昔の指導者は命令者・号令者・専制者」とした。ところがデモクラシーの時代になると、様々な意見に耳を傾け、周囲の支持を得ないと政策を実現できなくなった。法政大学教授の高木友三郎が述べている。
今は維新時代と異なり、人材が払底した観がある。偉人が号令しても事は進まない。これは各方面が民本化したからだ。木戸・大久保・西郷・伊藤・山県・大隈は今の政治家を抜く。しかし彼らが今現れても上手くいかないだろう。それは民衆が変わり、自己の意欲を満たそうとするからだ。それ以上に政治家が民衆に引きづられている。
・彼は「政治家の資質が低下したのは、時代の変化による」と冷静に分析した。
○国会での野次・乱闘
・讀賣新聞の社説は当時の政治家を批判した。実際当時の国会には、今では考えられない様な政治家がいた。社説を続ける。
政治家の言葉が美談として残る時代から、それを隠さないといけない時代になった。これが次代の国民に悪影響すると思うと、寒心に堪えない。
・当時の国会は不適切な野次が多かった。衆議院議員の菊池謙次郎が当時の野次に触れている。
私は学生時代に時々帝国議会を見物した。当時は設立当初で、下劣な野次を飛ばす人はいなかった。今は当時の厳粛さが全くない。議会の堕落は、政界の堕落に相応している。
・政治家が指導力を失った原因を時代の変化に求める事はできる。しかし下劣な野次は議員の資質に問題がある。「憲政の神様」と呼ばれる尾崎行雄が1925年2月に起きた乱闘事件について述べている。
議員の失態醜態乱暴狼藉が増えている。国民が衆議院に絶望しており、これは立憲政体の破滅だ。かつてより失態醜態は多かったが、甚だしくなっている。守衛を殴打した者は懲罰されたが、同僚議員を殴打した者は処罰を受けていない。
・衆議院議員の田淵豊吉も乱闘事件後に述べている。
国民を代表する議員が国政を議論する際、国民の要求を夢想せず、私利私欲・党利党勢だけで奔走している。党勢のために反対し、反対党のために反対し、ついには腕力で訴える。この腐敗堕落は言語道断だ。
・当時は乱闘が多く、負傷者も出た。そしてそれは党利党略が目的だった。
○出る杭を打つ
・敵対する政治家を誹謗中傷するのも日常茶飯事だった。衆議院議員の田川大吉郎が述べている。
議会では各党が相手の欠点を探り出し、揚げ足を取っている。いかなる人物も三文の価値もないと批判する。大隈は外国では偉人とされているのに、日本では様々な欠点を挙げて中傷した。これでは日本の代議政治は発達しない。
・他人を誹謗中傷するのはどこの国でもあるが、日本人はそれが強い。「出る杭は打たれる」にある様に、集団から突出するのを良しとしない。
・同志社英学校の開設で駆け付けた倫理学者の中島力造が「島国根性」を使って述べている。
日本人は小理屈が多く、島国の卑屈根性だ。成功者を四方八方からいじめる。学校でも、商売でも、官吏でも、学者でもそうだ(※詳細省略)。この島国根性をなくし、広い心を持ちたい。
・今でもそうだが、当時は抜きんでると潰された。かつては個人・家より共同体が強い力を持ち、人の行動を規制した。共同体の横並びが重視され、多数派に同調する事が求められた。そのため非凡な才能を持つ者は叩かれた。これが文化になり、近代にも引き継がれ、近代化の足枷になった。野党が政敵を批判し、政権奪取するのは当然で、その手段に誹謗中傷は必要だ。しかし国民はそれを望まず、権力闘争に明け暮れる政治家に批判的だった。大正デモクラシーの時代、政権争いが激しく、スキャンダルの暴露合戦になり、マスコミもそれを煽った。国民の政党に対する期待は失望に変わり、これにより軍部が台頭する。先述の田淵豊吉が述べている。
国会開設から50回に及ぶが、議員の腐敗堕落しか見えてこない。彼らに国事を任せられない。新日本は目覚めた青年に委ねるしかない。
・実際この時(1925年)の青年が、戦後の「新日本の建設」の担い手になる(※戦前ではないのか)。腐敗堕落した議員の多くは一線から退き、民主主義体制が整った。だがその新日本も腐敗堕落から抜け出せていない。
○有権者にも問われる責任
・政治が悪いのは議員によるが、社会にも問題がある。首相となる犬養毅が述べている。
これを社会が黙過している。これを新聞も煽る。初期の議員と比べると質において低廉となった。知識は優れたが、道徳において下落した。これは社会全体の罪だ。
・特に重要なのが有権者だ。彼らが権利行使し、政治に意思表明する事が重要だ。先の讀賣新聞の社説にも「選挙が政治を変える好個の機会」とある。
政治は政治家の利益のためにあるのではなく、市民の生活や幸福の増進のためにある。ならば自己の利益を求める候補者は市政から排斥すべきだ。
・選挙により腐敗堕落した政治家を排除できる。選挙権は限られた人しか持たなかったが、それでも投票にいかない有権者がいた。東京市牛込区の議会議員の宮田暢が「1920年衆議院選挙での棄権者が知識階級(官公吏、会社員、教員)だった」とし、彼らを「無識階級」と批判し、「彼らが変わらないと政治は発展しない」とした。
選挙は義務であり権利なのに棄権者が多い。その棄権者が市政や役人を罵っている。その棄権者こそ非国民だ。
・今でも選挙権を放棄しながら、政治に文句を言う人は多い。第14回衆議院選挙(1920年)の投票率は87%で、明治・大正の投票率はおおよそ80%台だ。一方今の投票率は50%台に留まる。当時の選挙権は国税3円以上納める25歳以上の男性に限られた。1925年普通選挙制になり、納税条件は撤廃される。当時は選挙権を得るため、多くの人が奮闘した。先述の吉野作造もその一人だ。彼の「民本主義」は普通選挙運動の指針となった。
<3.教育者は人格を向上させるべし>
○批判にさらされる教師
以前小学校で「教師」を文題に作文させると、「教師は生徒を叱る道具」との文章があった。今なら「人の子に害毒を注入する器機」と書かれるかもしれない。(高島米峰)
・これは東洋大学学長となる社会教育家の高島米峰の言葉だ。この表題は「教育家」で、これは教師だけでなく、演説家/文筆家などを含む。彼は「金を払えば何でも通ると考えている不心得者を真人間にするのが俺の天職」「教師が機械視されており、俺が必要になる」と語っている。※自信家だな。
・当時は工業化が進められており、学校を工場、教師を器機(機械)に例えて皮肉った。この原因は教育制度にあった。戦後の学校教育も批判され、時には戦前の学校教育が美化される。しかしそれが優れていた訳ではない。またその方針も時とともに変わった。大阪市立大学学長となる経済学者の福井幸治が述べている。
維新以降、教育は知育に偏し、徳育は封印された。人格を伴わないため、学校は不良少年製造所になった。これに引き換え、昔日の教育は徳望人格が目標だった。読み書きを第二とし、人格徳望を慕った。※武士が儒学を重んじたからかな。
・当時は修身科が筆頭教科だった。今では修身科は忠君愛国を植え付けたとして批判されるが、他人を思いやる心などの規範意識を高めるのも目的だった。これは暗記重視だったが、双方向性を重視する試みもあった。しかし彼が「徳育は封印された」と述べた様に、制度上は重視されても、現場ではそうでなかったのだろう。また彼がそう感じたのは、少年の非行・犯罪・自殺などが多かったからだ。現在道徳の教科化で、イジメなどを減らそうとしている。しかしこれは過剰の期待で、教師のプレッシャーになっている。※学校教育だけで知育・徳育を両立させるのは難しいかな。
○求められる人格の修養
・世の中には「教育は教師次第」と考える人が多い。彼もその一人だ。続ける。
学校を見れば、男女教師が密通したり、男教師が女学生と私通したり、給料を上げさせるため生徒を休ませたりしている。これが将来日本を背負う国民の教師では困る。
・これは一部の教師だが、「教師の質の低下」が指摘されるのは今も昔も変わらない。また彼は「教師を棍棒で殴打したり、教師に汚物を浴びせる生徒もいる」と述べている。生徒の悪行を教師の責任にするのは酷だが、「生徒の態度も教師次第」との考え方も根強い。
・女学校の教師をした先述の石黒あさも、教師の人格について述べている。
理想の教師は様々だが、高尚なる人格に包含できる。教師の一声一笑が生徒に影響するため、教師は常に精神修養に努める必要がある。
・当時も人格を向上させる修業書が多く出版されていた。人格向上は教師以外にも求められたが、特に人を教え導く教師には強く求められた。教師の悪態を批判した福井は、「不人格者が教師になるくらいなら義務教育を廃止し、昔の村学研・寺小屋で教えた方が純真な国民を養育できる」と述べている。これは飛躍した主張だが、近代教育を否定する意見も多かった。
・教育評論家の志垣寛も近代教育を批判している。
教育改革が行われた。一斉的器機的大量生産し、人格的教育も行なった。人には優劣賢愚があるが、それらの個性を抹殺して行なった。教育は工業であり科学だ。個性・感情を棚に上げ行なった。これにより教育は進歩・普及した。
・彼は「教育は工業」とした。また「教員は器機のごとく働くのみ」「鐘が鳴れば教壇に上がり、鐘が鳴れば教壇を降りる。年期が来れば、生徒をトコロテンの様に押し出すのみ」とした。※これは批判かな。
・『貧乏物語』を書いた経済学者の河上肇も述べている。
教育家は自分が彫った仏を拝む彫刻師だ。彼らは自分より偉き者を仕立て、老いていく。彼らより偉くなった者が彼らを軽蔑するのは言語道断だ。教わった恩師だけでなく、全ての教師を尊敬すべきだ。
・彼は「国民全てが教育家を助けるべきだ」とした。
○教育制度に対する批判
・社会運動家・評論家の佐野袈裟美も教師を擁護し、教育制度を批判する。
教育家を責めるのは無理がある。それは教育制度が誤っているからだ。教育家には自由が与えられるべきだ。
・医師・教育者の三田谷啓も同様に近代教育を批判する。
日本の教育は「詰め込み主義」「鋳型主義」「丸呑み主義」のため、教育家も学生も自由がない。まるで人形を造る様に考えており、人の本性を全く考えていない。これでは教育が進歩しない。
・これらの指摘は当然認識され、教育制度の改善は常に行われてきた。これは戦前も戦後も同様だ。特に「詰め込み教育」は批判され、「ゆとり教育」が実施されたが、批判され回帰した。大正期にも画一的な教育から個性・自発性を重視する「自由教育運動」が高まった。先述の澤柳は1917年、個性を尊重する成城小学校を開設している。しかしこの動きは一部に留まった。当時国が国家主義的な道徳教育を強化しており、それには限界があった。※黒柳徹子はトモエ学園。
・「自由教育運動」「ゆとり教育」は「詰め込み教育」への批判から生まれたが、共に元に回帰した。教育関係者は「不完全」な制度の下で理想の教育を模索してきたが、正解は見えない。しかしそんな中でも様々な才能が芽生え、輝かしい業績を残す人物は育った。
<4.教育現場に体罰は不必要>
○1915年の事件
法令で学校での体罰は禁止されているが、実際は体罰する教師がいる。法令が誤りなのか、教師が誤りなのか。(石黒あさ)
・昔の学校では、体罰が行われていた。しかし「教育令」(1879年)「小学校令」(1890年)では禁止されている。1915年ある事件により体罰に関する議論が起きる。東京市の小学校の訓導(教師)が生徒の髪を掴み、引き倒し、生徒にケガをさせる。父兄が告訴し裁判になり、世間の耳目を集める。最終的に教師は罰金刑を受ける。告訴された時、同志が文部省・司法に檄文を提出している。
国は小学校令で体罰を禁止しているが、これは反動的立法だ。一方骨肉の親にはこれが与えられている。児童を薫陶する教員にも、これを与えなければいけない。
・民法では親の子に対する懲戒権を認めていた。親に認められている権利が教師に認められない事に、現場の教師が反発した。
・東京高等工業学校の教師の飯塚正一も、この事件に触れている。
教育上懲罰が必要なのは教員だ。教員には人格で信頼される者もいるが、教養を委託するのに適さない者もいる。体罰権は高尚なる者に与えられる。
・彼は「法令で禁止するのは大いなる恥辱」とし、「体罰権の行使は現場に委ねるべし」とした。彼も体罰を容認する立場だ。
○体罰を肯定する意見
・文部官僚・教育家で東京女子高等師範学校の校長になる湯原元一も事件について述べている。
この事件を法律で決するのは悲しいが、法治国家なのでやむを得ない。法律で傷害となった以上、弁護できない。
・これは学校内の問題であったが、これを機に社会的な問題になり、しばしば刑事事件となる。続ける。
学校内の問題は徳義問題のみにして、法律問題にはしたくない。子弟間の徳義問題を否認するのは、教育に悪影響だ。児童の悪癖を矯正するのは自己に不利益と考える様では困る。
・「体罰を処罰するのは教育に悪影響」とする考え方は今も根強い。小学校教師の樋渡廣は一時的な体罰を否定するが、合理的な体罰は肯定している。これは「愛の鞭」論だ。
合理的な体罰は理智に働く愛情によるため、千万語に勝る教訓になり、教師の人格が無限に生徒に生きる。
・小学校教師の斎藤薫雄も体罰を肯定している。
教育者は子供にとって他律の力で、干渉拘縛は排斥できない。ロマンチックな教育思想は、これを峻拒する。子供の現実は楽観すべきでなく、性悪説も真理だ。そのため私は干渉拘縛する。体罰を肯定する訳ではないが、特定の子供には許される方法だ。
○体罰を否定する論理
・多くの教師は体罰を容認したが、先述の石黒あさは否定している。
教師の行動は忿怒の破裂で、無定見で、父母の様な温情はない。そのため生徒の頭を薬瓶叩くなどの話をよく聞く。従って体罰は許可できない。
・彼女は体罰を忿怒(キレる)・無定見(一貫性がない)とし、体罰を否定した。続ける。
体罰せず、無制裁でも教育は完了する。フランスは体罰を用いない。日本もそうなるべきだ。
・歌人の与謝野晶子も体罰に触れている。
私は4人の子を小学校に託しているが、体罰に反対する。いかなる場合も肉体への虐待は野蛮な行為と思う。かつては行なわれていたとしても、人権の尊厳を自覚した今は反省すべきだ。罪人には体罰を科すが、学業品行の優劣で懲罰すべきでない(※この対比は面白いな)。あくまでも愛・威厳・道理で当人に自省させるべきだ。
・明治より体罰は禁止されている。しかし現場では行われており、否定・肯定の議論が続いている。体罰と暴力の線引きが常に論点になる。教師は「愛の鞭」と思っていても、生徒は暴力と感じているかもしれない。生徒がケガ・死亡する様では言うまでもない。
・暴力は連鎖する。先生から生徒、指導者から選手、先輩から後輩、上司から部下。受けた者は自分が上になると、これを繰り返す。石黒あさは「体罰を振るう教師は生い立ちに問題がある」「残酷に遇した者はそれが習慣になり、人に対しても無慈悲になる」とした。村社会では規範に背いた者に制裁が加えられた。その暴力は「指導」「教育」として容認された。
・体罰の禁止は100年以上に及ぶ。理想としての体罰否定と、現場での体罰容認は今後も続くだろう。死刑を廃止し終身刑を導入すべしとの議論もある。中には、罰を与える事自体が誤りとの主張もある。体罰の代替手段を示すのも難しい。
第3章 全ての日本人へ
<1.女性の権利の尊重>
○女性に対する不道徳行為
今は女性が精を出して働いている。直接は咎めないが、密かに嘲笑する。中には口汚く罵る者もいる。久しい習慣は急にはなくならない。(三宅雪嶺)
・今でも「男女平等」「女性の活躍」などが叫ばれるが、法的に十分と言えない。これはジャーナリストの三宅雪嶺の言葉だ。女性の勤め先は主に工場だったが、第1次世界大戦後は様々な職種に拡大する。
・交通手段も発達し、女性も都市・遠方に出向く様になる。これにより女性への犯罪も増える。先述の与謝野晶子は「初めて東京駅・上野駅に来た地方の女子が車夫に貞操を汚され、訴えずに終わる事が多くある。あるいは不良青年や色情狂の不良壮年もいて、卑猥な行為をしている」と述べ、女性に対する性暴力を許さない社会を訴えた。
○男性に甘い風潮
・讀賣新聞の記事にもある。
暖かい季節になると列車内で猥らな間違いが起こる。相当の紳士でも出来心から失態してしまう。神奈川県は列車内の取締りを強化した。婦人は自分の姿態に十分注意されたい。
・記事には「出来心」などの表現があり、犯罪との認識はない。もちろん世間は被害者に同情するが、加害者に責を負わせる意志はない。
・医師の河村碧天が述べている。
多くの女性が凌辱されているが、女性側にも欠陥があるのでは。抵抗したとしても、何らかの言うべからざる原因があるのでは。凌辱が和合的・妥協的であっても、女性に不利な場合と、それを糊塗するため偽り欺き、凌辱沙汰にする場合もあるのでは。
・性暴力に至らなくても、悪ふざけする事例が茶飯事だった。教育学者の石井満が女学校の教師から聞いた話を残している。
人手が多い場所に女学生を引率するのは世話が焼ける。修身の尊厳も礼式の講義も価値がない。女学生の入浴中に男子が飛び込んで来た。列車では学生が押し寄せ、猥雑な歌を歌っていた。無礼無知にも程がある。
・彼は他にも日常における男性の下品な言動を嘆いている。この頃は「セクハラ」が溢れていたが、その根底に女性を蔑む差別意識があった。
○声を上げる女性
・性犯罪を容認する風潮や、働く女性を嘲る男性に声を上げる女性が現れる。自由民権運動家の安芸喜代香が述べている。
女子の中には「女子は男子と等しき脈を搏っていない」と思っていたり、学者にも「女子は毛が三本足りないので人に成り得なかった」と考える人がいる。女子は低脳のため、高尚な教育は無益と考える教師もいる。今のデモクラシーは人格の認識から始まり、土方でも牛屠しでも紳士と差別はないとする。それなのに女子だけ卑下されるのは許容できない。
・デモクラシーの時代になっても、女性の人格を否定する風潮が残存していた。彼女の様に男女平等を訴えるのは、中流以上の者であった。しかし一般庶民の人権概念は、男女とも希薄だった。そのため女性論者は制度を変える事だけでなく、庶民の啓発も急務と考えた。共立女子大学の創立者で教育者の鳩山春子は、女性自身が変わる必要があると考えた。
外国では女性が一生懸命働いている。それなのに日本は「女は何もしない方が良い、役に立たない方が良い」となっている。しかし日本も女が器械である時代は終わり、強壮しなければいけない。男子に頼らならければ生きていけない様では、国は滅びる。
・安芸/鳩山などが女性の地位向上を訴えた。平塚らいていは女性解放運動の草分けで、その象徴だ。1911年彼女は『青鞜』に「元始、女性は太陽だった。真正の人だった」と書いている。しかし多くの男性は彼女の主張を受け入れなかった。先述の青柳有美が述べている。
平塚らいていが「私は太陽」と言い始めた。確かに女は動物以下で、熱と光だけで生命がない。追々そうなるとの自白だろう。
・彼はこの記事で、「女は人間と猿の中間」などと女性を侮蔑している。しかし彼は女性差別主義者ではない。女性雑誌の編集者で、女性問題の理解者だった。
○女性の自立、その難しさ
・当時女性の人格尊重や社会進出が活発に議論された。そんな中、先述の与謝野晶子は「自立」を強調する。彼女は「男も女も労働が生活の基礎」とし、「女性の社会進出を受け入れる環境が必要」とした。彼女が述べている。
男子は実力競争を主張するが、女子が実力を養う機会を与えていない。また女子は職業の範囲を制限されている。また給料は男性の1/10だ。
・今でも賃金格差があるが、当時はもっと露骨だった。平塚はこの与謝野の主張と異なる見解を示している。※二人の論争は有名だな。
職業的婦人は社会的位置/経済的独立を得るが、それに価値はない。彼女らは物質の前に尊い人間生活を投げ出した。そのため彼女らにあるのは、疲労・空虚・寂寥・死滅だけだ。これは人格なきものだ。※平塚は母になって、この考え方に変わったらしい。
・彼女は職業婦人を否定した。彼女は母としての使命を重視し、「国は妊娠・出産・育児を保護すべし」とした。一方与謝野は異なる考え方を持った。
平塚さんは「現にある事」と「あるべき事」を混同している。今の女性が独立していないからと言って、いつまでもこの状況が続く訳ではない。私は未来を理想のものにしたい。女性が妊娠・分娩・育児を国に頼る様ではいけない。
・これは1918年の論考だが、この頃から『婦人公論』で二人が持論を展開し、「母性保護論争」が巻き起こる。
○女性の生き方
・「母性保護論争」から100年経ち、経済評論家の勝間和代と精神科医の香山リカが同様な問題で論争した。勝間は年収を上げる事が重要とした。彼女の主張は支持され、多くの「カツマー」が生まれた。彼女の見解は与謝野に近い。一方香山は「努力しても幸せになれるとは限らない」「その先には疲労・寂寥・死滅があるだけ」とし、平塚の見解を主張した。二人の論争は女性だけが対象でないが、与謝野と平塚の論争を彷彿させた。
・女性の生き方に関する論争は常に起きた。これらのテーマは社会進出と結婚・出産・育児・家事の相克だ(※広く見ればワークライフバランス)。これらの主張は個々の境遇に大きく左右される。平塚も元は与謝野と同じく「良妻賢母主義」(男は外で働き、女は家庭で家事・子育てする)を批判した。平塚が述べている。
女は種の保存のために犠牲になるべきでない。結婚して妻・母になるだけが天職ではない。女性の門戸は限りなくあり、その選択も自由でなければいけない。
・これに続き、「一個人として意義ある女の生活のため、精神教育(※何だろう)を要求する」「経済的な独立がない事による不安・障害を除去するための職業教育も要求する」と述べている。※今は給与面での不利は小さいかもしれないが、職業選択の不自由は余りないかな。
・その後彼女は主張を転換させる。その切っ掛けが結婚・出産だ。女性の権利擁護は変わらないが、方向が変わる。彼女を変えたのは立場・境遇で、そのため様々な立場で方向が異なり、考え方を一致させるのは難しい。男性も様々で、内助の功で成功した者は、女性の社会進出に積極的でないと思われる。それが議員の発言なのだろう。そもそもこの問題は「個人がどう生きるか」であり、それぞれを尊重すべきだ。そのため国・社会はそれらに対応した仕組みにしなけれないけない。2018年これに反する出来事が起こる。
○男女平等の実現
・2018年東京医科大学が女子受験生を減点していた事が発覚する。女性は出産・育児によって離職・時短するため、女性医師を抑制するためだ。これに賛成する意見もあり、論争になる。東京医科学校(東京女子医科大学)を創設する吉岡弥生は「婦人科・小児科など女性に適した分野がある」として、女性医師を肯定している。
ただ結婚により、学術の研究ができなくなる場合がある。もし女性に十分な時間を与えられるなら、男性に劣らないだろう。
・当時は結婚により退職するのが普通で(※寿退社だな)、既婚女性が仕事を持つのは難しかった。また彼女は女性が雑用に使われのに疑問を持っていた。女性は離職の可能性が高いからと言って、医師になるのを妨げるべきでない。
・政治においても、女性の進出を否定する意見があった。「日本資本主義の父」と称される渋沢栄一が語っている。
婦人は政治に向かない。英国は婦人参政権の運動が活発だが、賛成できない。婦人にはふさわしい職分がある。
・これは当時の一般的な意見だ。「問題発言」「差別発言」の基準は、時代とともに厳しくなる。特に政治家は女性に対してだけでなく、人種・民族・障碍者などに対する発言が厳しくなり、2019年自民党は「失言防止マニュアル」を作成している。問題視された発言から、政治家の劣化、現代人のモラル低下が指摘されるが、これは歴史を歪めるだろう。
・2018年女性議員を増やすため、「政治分野における男女共同参画推進法」が成立するが、具体的な措置がなければ、実現しないだろう(※依然日本は男女格差が大きい)。2019年衆議院での女性の割合は10.2%で、193ヵ国中165位と低い。2018年世界経済フォーラムが「ジェンダーギャップ指数」を発表したが、144ヵ国中110位と低い。これは政治参加/経済参画/教育/健康で判断されるが、教育/健康は満点に近い。
・同志社英学校の卒業生で政治学者の浮田和民が述べている。
夫人の不平不満が続く様であれば、勃発する時が来るだろう。欧米は婦人が男子に甘んじない事が標榜された。19世紀は平民の貴族に対する反抗だったが、20世紀は夫人が男子に権威・人格を要求する時代だ。
・既に21世紀に入ったが、これが実現されたと言えない。セクハラを訴える「#MeToo」運動にある様に、婦人の勃発が繰り返されている。
<2.報道の真髄を見極めよ>
○新聞を読む際の心掛け
日本は新聞が勢力を有するが問題がある。国民は「新聞を読む」のではなく、「新聞に読まれる」になっている。新聞の記事には無根なものがある。また下らぬ雑報や三文小説を読んでも「新聞を読む」とはならない。(三田谷啓)
・女性解放を進めたのが雑誌・新聞などのメディアだ。1914年「讀賣新聞」に家庭面が設けられ、女性に関する問題が提起される様になる。日本は識字率が98%と高かった。新聞・雑誌は重要な情報源になり、これに対する目も厳しくなる。先述の三田谷啓は「記事の質・正確性に難がある」とし、読者に対しても「新聞に読まれている」とした。また「ゴシップ・小説は読むが、国際情勢などは読んでいない」とした。これは今日でも同様だ。
・当時の新聞の真偽は怪しい。複数の新聞を比べると、記事に違いがある。記事に誤りがあると「訂正記事」が出される。昨今は「おわび」「確認が不十分でした」などの謝罪があるが、当時は「訂正申込」の見出しで読者からの手紙を掲載した(※読者任せか)。新聞記者の小林鶯里が新聞を読む際の注意事項を述べている。
三面記事を読む時は「読まれない」事が大切だ。記事を信頼するのではなく、批判する立場で読むべきだ。中には事実でない事を記述していたりする。これは売上を上げるためだ。
・彼も「新聞に読まれない」事を重視している。「重要と重要でない部分を見分けて読めば、三面記事でも羅針盤になり得る」としている。しかし読者がクリティカルな姿勢で読んでも真偽を見極めるのは難しい。そのため記事を鵜呑みにしない姿勢が必要だ。
○劣化する新聞記事
・新聞記者の劣化も指摘されていた。雑誌『新天地』を見る。
新聞が社会の木鐸で記者が無冠の帝王だった時代は終わった。記者はいかに安価に制作し、会社を繁昌させ、顧客の御機嫌を取るかに没頭している。
・総合紙が次々創刊され、競争が激しくなった。今も同様の指摘がある。スキャンダラスな記事を書くと「退廃」とされ。同時に題材にした人物から反発を受ける。先述の尾崎行雄も新聞を批判する。
首都・地方を問わず、新聞の改善を希望する。新聞の卑猥や殺風景な文字の羅列は品性・道義を有する家庭は擯斥する。※彼の文章は難しい。
・当時の新聞は今の週刊誌の性格も持っていた。品位に欠ける記事や過激な表現の記事があった。事件報道では。被疑者でも実名・住所を明かし、プライバシーへの配慮はなかった。続ける。
人にとって名誉は最も貴重で、これを傷付けられるのは苦痛だ。新聞は無根の事実を捏造し、読者の好奇心を煽っている。一度悪徳なる新聞に呪われると、取消を申し込んでも、読者に刻まれた悪印象は消えない。
・今でも新聞による名誉棄損があり、週刊誌だと日常茶飯事だ。当時の新聞にはプライバシーに配慮する方針はなく、事実関係を確認する仕組みもなかった。
○戦前の朝日新聞
・政治家には新聞にどう書かれるかが死活問題だった。そのため新聞記事に神経質になり、時には新聞を攻撃した。特に大阪朝日新聞は批判された。
新聞の改革には記者の待遇改善と言われる。ところが大阪朝日新聞は却って腐敗・堕落・暴虐無比となった。そのため同新聞を「名誉の毀損者」「家庭の破壊者」「社会主義者」「共産主義者」「憲政会の御用記者」「言論界の暴君」「売国的新聞」「邦字外国新聞」(※これでも省略)とし、増悪・嫌忌する者が増えた。
・これは立憲青年自由党が発行したもので、同新聞を相当恐れていたのだろう。今でも朝日新聞を批判する書籍・雑誌は多い。これは「売れる」からでもある。
・1922年東京朝日/大阪朝日は申し出に対応する部署「記事審査部」を設ける。その社告を見る。
事実無根なのに多くの人が訴訟は億劫なので泣き寝入りし、新聞社も放置するケースがある。これは新聞社と公衆の間を疎隔にし、新聞の意義にも反する。
・2014年朝日新聞は福島原発事故と慰安婦問題の誤報を謝罪し、記事を取り消し、信頼回復の改革に取り組む。同様に100年前「記事審査部」を設け、改革に取り組んだ。ただしこれは掲載した記事の訂正・取消・謝罪で、制作過程での精査ではない。1928年皇室に関する記事に誤植があり、「校閲部」を創設する。ただこれにより誤報が皆無になった訳ではない。
○メディアに対する弾圧
・当時テレビ/ラジオはなく、新聞の力は絶大だった。政治を動かす原動力になるため、政治は新聞を弾圧した。警視総監の安楽兼道が訓示している。
近時の新聞雑誌記者は家庭の裏面を摘発し、記事を虚構し、富豪会社の声誉を傷付けている。新聞雑誌の反映は著大なので、発行される新聞雑誌に注意し、記者を監視して欲しい。これらの行為をする者は厳罰に処し、弊竇の廓清を計って欲しい。※会社より記者を警戒している感じだな。
・今では有り得ない発言だが、戦前は検閲が厳しく、「新聞紙条例」「讒謗律」で弾圧した。罰金・発行禁止は茶飯事で、記者も禁錮・禁獄された。『評論新聞』は記者が投獄されても、反政府的な青年を雇い、政府批判を続けた。
・2016年古舘伊知郎などのキャスターが降板し、政権からの圧力が議論され、昨今はメディアが政権に忖度しているとされる。政権を批判し続けた当時とは隔世の感がある。国際NGO「国境なき記者団」の「報道の自由度ランキング」によると、日本は180ヵ国中67位で、G7だけでなく韓国/台湾より低い。要因として特定秘密保護法や記者クラブがある。そのため情報を受け取る側は、この状況を踏まえて報道を読み解く必要がある。
<3.フェイクニュースに注意>
○虚言を吐く日本人
日本人は虚言を吐くが、意に介するところがない。地方で道を尋ねると反対を教えられる。そして密かに喜んでいる。病気でもないのに病気と言ったり、朝寝坊で遅刻したのに嘘の理由を付ける。(尾崎行雄)
・真偽を見極める必要があるのは報道だけでなく、口伝もだ。本音と建前の使い分けだけでなく、悪戯も多かった。彼は「日本人の嘘は習慣で自然に出る。これにより欧米人の信を失っている」と述べている。
・昨今フェイクニュースを耳にする。これはトランプ大統領がマスメディアに使ったものだ。これを広義に解釈すると個人がSNSで発した情報も含まれる。当時は手紙・電報・電話しかなく、口伝は大きな役割を持った。口伝によって広まった根拠不明の情報が「流言」「浮説」だ(※以下デマ)。最初は正確でも、歪められる場合もある。意図的に流された偽情報は「飛語」とも呼ばれる。
○大震災後のデマ
・1923年9月1日関東大震災が起きる。電信・電話・郵便は不通になり、新聞は東京朝日/都/報知が消失を免れるが、発行は停止する。これにより多くのデマが拡散する。「江ノ島が海底に沈んだ」「山本権兵衛首相が亡くなった」「砲兵工廠の毒ガスが発散した」「家族を亡くした人が上野公園で首を吊っている」「浅草寺が残ったのは樹が水を噴出したため」「地震は西洋が開発した地震を起こす機械による」。東京以外では「東京が全滅した」「東京に入ると熱で焼けてしまう」などが広まった。
・特に人を不安にさせたのが「囚人・朝鮮人・社会主義者が暴動を起こす」とのデマだ。「巣鴨監獄の外壁が倒壊し、囚人1千人脱走した」「市谷監獄・巣鴨監獄の囚人が解放されたので、強盗窃盗に注意」「囚人数百名が看守を惨殺して、脱走した」「警兵が社会主義者を捕まえたが、米櫃には爆弾、野菜にはピストルを隠していた」「美貌の朝鮮人が浅草寺の井戸に毒を投げ入れた」。不安に陥った住民は自警団を組織し、朝鮮人を暴行・殺害する。女学生が手記を残している。※大変長文なので、大幅に省略。
朝から朝鮮人騒ぎだった。手に棍棒を持ち、「あっちに行った」「こっちに行った」と夕方まで大騒ぎだった。これが四五日続いた。朝鮮人が射殺されるのを見た人によると、死にきれない人を殴ったりしていたそうだ。1ヶ月過ぎたが、馬鹿な事をしたと思う。今でも作り話を聞く。「来月また地震が起こる」とかもあった。
○デマを防ぐ
・2011年東日本大震災でもインターネットなどでデマが飛び交った。今日では個人が発信した情報が瞬時に拡散する。そのため情報の真偽を判断する能力・知識を備える必要がある。ジャーナリストの長谷川如是閑が対処法を述べている。
まずは「朝鮮人が暴れるかもしれない」などの生活の不安をなくす事だ。次に経験を豊富にする事だ。秘密主義を止めて、あらゆる事実を各人に伝える必要がある。社会的礼儀/官僚の道徳などで内輪を隠してはいけない。朝鮮人/社会主義者がどの様な者かを解っていれば、今度のデマは起きなかった。
・不安がデマを助長した。普段から正しい情報を得ていれば、不測の事態でも冷静に判断できただろう。
・大量の情報から必要な情報を選択・活用する能力「情報リテラシー」は欠かせない。関東大震災に限らず、現代でも人種差別発言/ヘイトスピーチに同調する人は、この能力に欠けている。関東大震災ではデマが悲劇を生んだ。これは収束に向かうが、新たな災厄(政府による言論弾圧)を生む。
○言論弾圧の動き
・震災6日後、山本権兵衛内閣は異常事態を鎮めるため「流言浮説取締令」(※以下取締令)を公布する。「出版通信を問わず、犯罪を扇動したり、安寧秩序を紊乱する流言浮説を流した者は10年以下の懲役禁錮または3千円以下の罰金に処す」(※簡略化)。混乱が収まっても、この取締令は廃止されなかった。これを東京帝国大学教授の牧野英一が批判している。
政府は秩序が回復次第、取締令を廃止するとしているが、むしろ取締令を廃止すると秩序が回復すると考える。そして政府は復興プランを明らかにするべきだ。民衆が静まるのを待つのではなく、民衆がおのずから静まる様に仕向けるべきだ。
・衆議院議員の星島二郎も廃止を訴える。
この社会秩序の維持に取締令は全く必要ない。取締令の極刑が脅威になっており、流言飛語の原因である政府の失政を予想している。また流言飛語に行動を左右される民衆の無定見を思慮し、民衆に対する無礼・侮辱だ。
・当時は厳しく言論統制され、新聞は新聞条例を引き継いだ「新聞紙法」(1909年制定)により取り締まれた。取締令は屋上屋を架すもので、罰則も厳しかった。首相となる片山哲も「国民生活を律する総括的制裁を特別法で制定するのは、法治国家としては恥辱だ」と述べている。続ける。
流言浮説を取締りたいなら、『暴徒襲来』の流言浮説を為した者を何故処罰しないのか。元を糺さないで、無知階級に適用して懲罰しようとする。この取締令は過激社会運動取締法に相違ない。
・この過激社会運動取締法は前年に成立しなかった法律で、共産主義者/無政府主義者を取り締まる法律だった。これらから彼は「取締令はあらゆる点で撤廃しなければいけない」と主張した。それから1年余り経ち、1925年取締令は廃止されるが、同時に「治安維持法」が成立する。今でも災害時に法案審議が進められる場合があり、国民は議会の動向を注視する必要がある。
<4.悪辣な詐欺師に用心>
○新聞広告を使った詐欺
何時になっても泥棒は尽きない。最近の泥棒は新聞に詐欺広告を掲載し、莫大な金を搾り取っている。(大浜孤舟)
・近代になり印刷技術の発達で、新聞・雑誌が大量に発行でき、通信技術の発達で電報・電話も普及した。これらにより多くの人に同一の情報を即時的に伝える事が可能になった。また鉄道・自動車の普及で、大量の人・物の移動も可能になった。これらの文明の利器は犯罪にも好都合だった。探訪記者の大浜孤舟を続ける。
まず3円位で新聞案内欄に無担保融資の広告を出す。応募者一人ひとりに面談し、「何百円でも融資しますが、まずは身元調査するので調査費2円を頂きたい」と伝える。応募者は「2円が数百円に」と喜び勇むが、気の毒な姿よ。
・詐欺師は応募者に「お貸し致し兼ねます」とハガキを送る。2円は今の価値で3~4千円になる。人数が増えれば、かなりの額になる。
・新聞広告は当初は薬が多かったが、明治中頃から書籍が増える。明治後期になると、新聞1面が広告になる。当時はテレビ/インターネットはなく、事業者の重要な宣伝ツールだった。これを利用し、通信販売する事業者もいた。当時でも偽物・粗悪品が送られる事例があった(※事例を紹介しているが省略)。
○相手の心理につけ込む
・貸金/商品販売の他、求人の詐欺もあった。これは今でも「副業詐欺」「在宅ワーク詐欺」がある。例えば「自宅副業写字生募集」との広告を出す。続ける。
入会金5円、手本・用紙代3円など10円近くを納めさせ、奮励努力して書き上げた物を送れば、書体が悪いなどと文句を付け金を払わず、結局ドロンする。
・始めに入会金や物品購入を求めるのは詐欺と思った方が良い。女優募集の詐欺もあった。映画・演劇が人気になり、女優を志願する女性が多かった。続ける。
地方新聞などに「女優志願者大募集」の広告を出すと、申込みが殺到した。志願者に授業料幾ら/生活費幾らみたいな案内を送ると、親の金を盗んで応募し、毒牙に掛る。
・社会経験があれば詐欺に気付くだろうが、女優志願者には新聞広告が光明に映る。同様の手口は今でも見られる。
○電報・電話も詐欺のツール
・新聞広告だけでなく、電報・電話も詐欺のツールになった。その典型が「なりすまし詐欺」(オレオレ詐欺、振り込め詐欺)だ。他人になりすまし、その家族から金銭を搾取する。2000年代になり、この手口が急増し、巧妙化・多様化している。100年前の『借金利用の妙諦』の記述を見る。
他人の勤務旅行中などに留守宅を訪れ、「主人が金を失って、困っている」などと言って、金銭を搾取するケースが増えてきた。※様々な手口を紹介しているが省略。
・このケースは電報・電話を使っていないので、原型と言える。通信手段の発達に伴い、本人になりすます事が可能になる。続ける。
東京医学専門学校の生徒の実家(高知県)に「大怪我したので、入院費150円を送れ」と電報した者がいる。まず60円を郵便局留置で送金するが、再度送金せよと電報が届く。家人が不審を起こし上京し、詐欺と分かる。警察の取り調べで、同郷の者が検挙される。
・電報であれば誰でも本人になりすませる(※電報為替の詳細説明は省略)。他に火事や病気を理由に送金を求めた事例がある。学生だけでなく、国会議員や銀行頭取にもなりすまされた。電報が多く使われたが、電話の事例もある。名古屋銀行東京支店に本店の重役から「4千円の入用が生じたので、使いに渡してくれ」と電話があった。不審に思い、本店に確認すると詐欺と分かった。現れた使いなどが逮捕された。
○被害に遭わないため
・『借金利用の妙諦』は詐欺の予防・対策について、「彼らの常套手段を知っておく必要がある」「最善策は失敗経験を広く世に知らしめるべき」「彼らの方法を知り、手段に気付き、機先を制する必要がある」と述べている。被害者の多くは情報弱者で、今でも高齢者が狙われている。今は様々な啓蒙活動が行なわれている(※詳細省略)。先述の大浜孤舟も「『正直は最後の勝利』に名誉ある栄冠を戴ける努力が必要だ」とした。「自分は大丈夫」と思っている人ほど危険で、常に警戒しておく必要がある。
第4章 若者へ
<1.大きな志>
○今どきの青年
現代の青年は志が乏しく、野心がない。進んで事に当たらず、依頼心が強い。これでは現状維持か退歩しかなく、国の前途は心細い。(澤柳政太郎)
・100年前も様々な分野が進歩し、豊かな生活を享受できる庶民が増えた。大正期は戦争もなく平和の時代で、堕落・退廃する庶民への指摘があった。その矛先の多くは若者に向けられた。先述の山崎延吉も若者を批判している。
今最も憂慮すべきは青年の堕落だ。新聞で以下が見られる。「青年の神経衰弱症」「青年の精神病や自殺」「青年の煩悶」「青年の不良や犯罪」「青年の徒食遊民」「青年の破廉恥」。
・当時の新聞を見ると、確かに若者の自殺や不道徳が見られる。しかしそれで若者が堕落していたと決める事はできない。
・詩人・評論家の大町桂月も青年について述べている。
身の回りをぴかつかせ、貴公子然とかまえ、活動写真に現を抜かし、玉突きに熱中し、卑猥な小説を読み、佚游している。罪ある金で豪遊している。この堕落で身を誤っている。※大幅に簡略化。
・彼は才能があるのに堕落で失敗したと指摘している。これは富裕層の青年で、青年全般には当てはまらない。しかし大戦景気で成金が登場すると、この主張は多くなる。
・堕落への批判と共に、楽をして成功しようとする風潮も批判された。教師の白井規一が述べている。
空想する青年は多い。学業を勤めず、生死の場を出入りせず、黄金世界を招来しようとする。夢の中での彷徨を楽しんでいる。
・空想に浸るのは、貧富を問わない。これは今の青年にも通じる。現在の努力を疎かにする姿勢を多くの論者が批判した。
○人格の向上
・当時は人格向上を説く修養書が多く出版された。この「修養書ブーム」は今の「自己啓発ブーム」に近い。青年に修養を説く言葉がある。
人間は本能に囚われる。そのため意志が強くないと邪道に走ってしまう。これは青年を誤らせ、社会に害悪を残す。諸君は修養を第一とし、欲情を抑え、誘惑に勝たねばならない。
・これは日本郵船社長の伊東米治郎の言葉だ。この修養を説く風潮に疑義を呈する者もあった。先述の増田義一は、若者への批判を誤解とした。
誤解の根本は、先輩が自己の青年時代と比較するからだ。当時は物質文明が幼稚だったのに、「当時は斯く斯くだった」と論じるのは間違っている。時勢が変わったのに、古き経験を無上の価値とし、青年を批判するのは誤りだ。
・今でも時代の変化を無視し、若者を批判する風潮がある。1902年生まれだけでも、生態学者の今西錦司、三洋電機の井植歳男、小説家の中野重治/横溝正史/住井すゑなどがいる。彼らは例外かもしれないが、青年全般への批判には疑問が残る。
・作家の樋口麗陽も既存の価値観の青年への押し付けを批判している。彼は『破青年訓』で、大隈重信/乃木希典の修養書を批判し、これを出版業者などの我利主義・金儲主義とし、「修養書ブーム」を批判した。
○色褪せない教え
・上記の様に修養書への批判は多かった。しかし中には先述の大迫元繁が説いた「現実主義」など、優れた言説もる。
将来は現在より生まれる。現在の努力に徹すれば、精神の修養と物質的成功が得られる。現在主義は日常生活を深大化させ、全ての瞬間を充実させ、理想が現実味を帯びる。
雪ダルマは転がすに従い太る。人間生活も同様だ。将来を急いだり、理想に憧れるだけではダメだ。理想や目的は作りつつ進むものだ。
・今を大切にする心掛けは、「今日は明日の2倍の価値がある」(ベンジャミン・フランクリン)、「その日その日が1年の最善の日」(ラルフ・W・エマーソン)など、多くの先人が説いている。続ける。
日本の青年は自身の力を知らず、自らを軽んじている青年は少ない。しかし日本の青年でも偉大な力を発揮できる(※前文と矛盾する気がする。「少ない」ではなく「少なくない」「多い」が正では)。旧套を脱しない旧人に日本を任しておけない。
・「高校生の生活と意識に関する調査」(2015年)によると、「私は人並みの能力がある」に対し、「とってもそう思う」「まあそう思う」が56%だった。同様の質問に、米国は89%、中国は91%、韓国は68%となっている。「若者の意識に関する調査」(2013年度)では、「自身に満足している」に対し、「そう思う」「どちらかと言えばそう思う」が46%だった。これに対し、韓国/米国/英国/ドイツ/仏国/スウェーデンは70%超える。日本の高校生は今でも自己肯定感が低い。自己肯定感が高い方が有利だが、日本はそんな若者により繫栄してきた。
・真宗大谷派の宗務総長・暁鳥敏は自己の肯定・否定の考え方を否定する。
自分を肯定・否定する人はある標準を持っている。これはつまらぬ事だ。標準に合えば賛美し、合わねば卑下するのは愚かだ。自分の道を進めば良いだけだ。
・自分の能力や満足を考えても意味はない。自分が何を為すべきかを見定め、それに進めば良い。
<2.就職活動>
○社会に出る学生へ
我々は無職の人を能力も勇気もないと思う。社会が日進月歩し、仕事は増大している。勇気があれば、何でもできる。
人には嗜好があり、適不適もある。そのため仕事を選択しようとするが、何でもやる勇気が必要だ。社会は複雑で、実際に社会に出なければ、自己の長所短所や適不適は分からない。(大隈重信)
・これは当時大蔵卿の大隈重信の言葉だが、単に精神論を説いたのではない。仕事の実態は実際に働いてみないと分からない。理想を求め一歩を踏み出せない人は、大隈の「何でもやろうという勇気」が必要だ。彼は青年に忠告しているが、これは若者全般に対してではなく、エリート(大学・高等商業学校の学生)に対してだ。
・1919年大学令が施行され大学が増加した。ところが戦前の進学率は1桁に過ぎない。「新卒採用」が始まったのは大正後期だ。またその頃から「サラリーマン」の言葉が使われる様になるが、エリートに限定された。
○学生の気質
・新卒一括採用が行われる様になると、各界の幹部が学生について述べる様になる。日本銀行理事・実業家の川上謹慎一が「明治の学生は参議になる野望を持ち、無茶な事をする気概があった」とし、当時の学生の気質を論じている。
彼らは実業界の泰斗になりたい、金の蔓にあり付きたい、順風に帆を揚げたいなど穏当になった。地位を求める場所も大会社・大銀行で、大樹を求める。しかしそれがひっくり返ると、その下敷きになる。
・三井物産の人事課長・田中文蔵も若者の気質を批判している。
近頃の学生は常識的で利巧になり、角が取れて才気走っている。その代わり消耗する事を避ける。かつては全員が外国行きを望んでいた。今は数年内地で働き、経験を積んでから外国行きを望む様になった。
・「安定志向」「内向き志向」は今の若者を表す言葉だが、当時も平和・安定がもたらされ、今の状況と似ていた。明治の学生を知る彼からすると、大正の学生は覇気がない様に思われた。
○採用選考は健康重視
・実業界は若者に何を求めていたのか。先述の増田義一が述べている。
会社が新卒採用する標準は時代で変わる。欧州大戦で好況の時は、手腕技量を重視し、才能第一だった。戦後不況になると、人格重視に変わった。
・そして具体的に「三菱銀行、①人格、②健康、③学問」「三井銀行、①健康、②人格、③学業」「安田銀行、健康・人格・意志」と述べている。勧業銀行総裁の志村源太郎も「第一は健康」と述べている。
・今は企業に健康診断が義務付けられているが、選考段階での健康確認は就職差別になるため、健康が表立って揚げられる事はない。ところが当時の平均寿命は45歳を下回っていた。これは乳幼児死亡率が高かったからで、成人を迎えた人は60歳以上生きた(※死亡率の記述は省略)。当時の死因は肺炎・結核で健康を重視せざるを得なかった。
○企業幹部が求める人材
・志村は第一を健康、第二を常識とし、第三について述べている。
第三は悪事をする方法を知っていて欲しい。お人好しは立派な実業家になれない。銀行には好手段で金を借りに来る人がいるので、これにかからぬ様にしなければいけない。
・銀行に来る人には、粉飾決算/資料改ざんする人がいたからだ。
・山下汽船の副社長・松本幹一郎が述べている。
私たちが一番困るのは、何も考えていない場合だ。実業界に入る目的がないと困る。世間を知っておいてもらいたい。
・今でも社会に出るにあたり、最低限の常識は知っておいて欲しい。そのため就職活動のマニュアルが存在する。当時もそんなマニュアルが存在した。
面会では、快活・温和・愛想・敏捷が秘訣だ。また会社員は会社員らしい服装、商店員は商店員らしい服装をしなければいけない。(各種事務員就職案内)
・書いてある内容は今と同様だが、事細かに書かれていない。今は就職活動や企業に関する情報に溢れ、学生は大変な時代になった。
<3.本を読むべし>
○本を読まない日本人
日本の実業家は本を読まなさ過ぎる。彼らは無知で、文学・哲学・芸術・科学を知らない。そして人格が低劣で野蛮だ。(佐野袈裟美)
・昨今日本人の読書離れが指摘される。「国語に関する世論調査」(2013年)によると16歳以上の男女の1ヶ月の読書量は、「読まない」が48%、「1・2冊」が35%となっている。また「読まない」の割合は増加している。「日本人は本を読まなくなった」の見方は当時もあった。続ける。
実業家に限らず、一般に読書趣味が低級だ。何も得る事がない本ばかり売れて、真面目な本は僅かしかない。真面目な本は一般民衆から見向きされない。※真面目な本が存在しない訳ではなく、それを読むメリットがそれ程ないからかな。
・彼は量だけでなく、質についても苦言を呈している。一般民衆が真面目な本を敬遠する理由を、三井信託の副社長・船尾栄太郎が述べている。
近代書物の通弊は、いたずらに冗長な書き振りをする事だ(※これは同意。理系の私が文学が嫌いなのはこのため)。また訳書には夥しい誤訳がある。我々は忙しいのだ。
・この指摘は今でも当てはまる。難文は読書離れの一因だろう。
○知識を養うため
・多くの読者が内容の貧弱な本を好む傾向があった。読書の価値について大隈重信が述べている。
社会の表面で活動する政治家・実業家・教育家は時代の趨勢に着目し、新知識を収容せねばならぬ。それには読書が必要だ。
・国会議員や東京市長を務めた奥田義人は「読書の習慣を養うべし」と述べている。
今職業に就いている者は特に読書せずとも事務をこなし、事がなければ勅任官・頭取になれる。しかしこれは物足りぬ。
・日本は産業化し、分業化した。そのため高度な知識・技能が必要とされる分野でも、所定の業務をこなす能力があれば問題ない。そのスペシャリストはやがて組織のトップになるが、いざ外部の者と交流する様になると物足りなさを感じる。彼は「ナポレオン/リンカーン/F・ルーズベルトが読書家だった」と述べている。
古典や標準的図書は余力がないと読めない。そのため纏まった書物は学生時代に読むべきだ。※学生時代は普通の勉強で忙しいし、社会人になると業務・勉強で忙しい。
・浦賀船渠の専務取締役・今岡純一郎も学問の専門化により、日本人は常識・教養が欠ける様になったとした。
日本の工業技術者は箱詰教育・専門教育を授けられるため、常識がなく、挨拶もできない。
・詩人の平井晩材は読書をしなくなると、国が衰退するとした。
読書力のない国民は文明先進国の圧迫の下で悲惨な運命を荷う。国は個人の集団なので個人の進退が国の運命に影響する。
・1924年「図書週間」(読書週間)が制定される。これについて図書館協会理事の今澤慈海は「学校にいる間に読書を趣味にすれば、学校を卒業しても読書を続ける」と述べている。
○くだらない本
・「図書週間」では、くだらない本は推奨されなかった。しかし「好ましい本」と「好ましくない本」の線引きは難しく、小説に関しては意見が割れた。道徳の教科書ではこの様にされた。
「小説を読むべし」との意見もある。ところが主人公は平凡な人/環境的な人/意志薄弱な人で、堕落を描くものが多い。そのため卑劣な感情を起こしたり、空想に耽ったりする。小説は大人に適する(※簡略化)。それなら偉人・策士の伝記や古典を読むべし。
・先述の柳澤も「小説より偉人伝を読むべし」としている。大町桂月は「小説に夢中になるな」とした。
詩歌小説を読んで情感を養うのは良いが、耽ってはいけない。意志の鍛錬にならないし、規律を嫌い、堅忍不抜が欠如する。詩人文人美術家は意志が鍛錬されていない。これは詩・文・美術には適するが、事を為すには適さない。
・小説も様々だが青少年に有害として不健全図書に指定される小説がある。この基準は当時の方が厳しかった。今では漫画・映画・テレビ・インターネットにも不健全なものがあるとしてメディアそのものを敵にする意見もある。昭和20年代頃にはラジオもやり玉に挙げられた。今ではインターネットに情報が溢れ、文学・小説を敵にする意見は少なくなった。
○寸暇を読書に
・先の「国語に関する世論調査」での「読書量が減っている」の最大理由は「読む時間がない」だ。これは当時も同様だった。日清製粉の正田貞一郎が述べている。
少し閑ができたが、手元に書物がないため無駄な時間を過ごしてしまう。そのため常に書物を携帯し、電車や事務所などで読むべきだ。
・車内で読むのは目を悪くするとの意見もあるが、読書家はこれを行なった。今では移動中にスマートフォンで読書する人も多い。彼は「自分の子供にも読書の習慣を付けさせ、十分な書物を与えている」と述べている。実際彼の子供は実業家・学者になっている。
・車内での読書は日本の読書文化を発展させた。駅の売店で新聞・雑誌が売られ、出版も発展した。ただ明治中頃までは読書習慣がトラブルを起こした。当時は書物は声を出して読むのが一般的だったからだ(※これは知らなかった)。明治末期には音読が少数派になり、黙読が一般化する。
エピローグ 100年後の日本
○21世紀の東京
100年後の東京は電車・自動車の時代ではなく、飛行機の時代になっている。(武田櫻桃)
・俳人の武田櫻桃が述べている。20世紀初頭に有人飛行が行われ、彼は飛行機の発展に期待した。続ける。
空中の機関は飛行機だけでなく、自動電気昇降機/架空索道もある。これらが広範囲に往来する。
・当時東京の人口は増え。市民が郊外に住む様になった。通勤ラッシュもあり、高層ビル・地下鉄などが開発された。続ける。
電柱もなくなる。無線電信により、架空線は不要になる。30尺を超える煙突は美観を害するが、消煙器の発明で5尺を超えなくなった。煤煙の問題もなくなり、道路樹は緑が滴る様になった。
・電柱の地中化は進んでいないが、無線電信は発達した。産業化で公害が発生したが、昭和30年代以降に減少する。煤煙問題も飛躍的に改善した。彼は同書で「ドールホテル」について述べている。これは全ての接待を電気仕掛けの人形が行なう。2015年長崎のハウステンボスに「変なホテル」がオープンしている。当時はロボットの言葉はなかったが、彼は人形が働く未来を想像していた。
○日本社会は変わる
・当時は科学技術に関する予想は多いが、政治・経済・社会の変化の予想は少ない。そんな中、大阪朝日新聞記者の岡本鶴松が『異国の華を尋ねて』で政治・経済・国際情勢・宗教・教育などの変化を論じている。
-婦人の地位-
婦人の社会的地位は男性より上になり、社会の秩序・平和を維持する様になる。婦人が優越すると戦争はなくなる。男子が優越する社会のため戦争・犯罪が起き、道徳心・公徳心が低い社会になっている。※これは面白い考え方だ。
-教育-
今の人類愛は範囲が狭い。同一民族・同一国民に対するもので、他国民には敵愾心を養わせている。新しい教育は市民としての義務を養成するのが目的になる。月給取りを造るためでなくなる。愛国の精神は拡張され、人類愛の精神になる。
学問は民衆化され、小中大学は貧民に開放される。無益の競争はなくなり、能力が節約・集中される。
-4時間労働-
1日4時間働けば、生活できる状況になる。100年後はいかなる仕事も人力から機械に変わる。
-読書界-
趣味の向上/知識の普及/道徳の進歩が読書界に影響を及ぼす。低劣な書物は淘汰される。良書のみが売れるため、それを著述すると一生の生活費が得られる。
読者は書物・雑誌・新聞の真価値を判断できる様になる。家庭の私事/政治家の動静などは読まれなくなる。その結果政治は公明正大になり、低級な政治家はいなくなり、陰謀を事とする政治家は葬られる。
・彼は「これは今の事象に立脚したもので、実現する可能性が高い」と述べている。しかしいずれも実現していない。戦後、婦人の地位(女性参政権)、教育(教育制度改革)、労働時間(労働基準法)などの改革があったが、彼の理想とはほど遠い。彼の理想は高いが、示唆に富んでいる。「婦人の地位向上が平和に繋がる」「読書界の進歩が政治を健全にする」などだ。彼はこの理想を実現する条件に「学問の機会均等」を挙げている。知識の普及で民衆が覚醒するとした。世界が彼の理想に向かって進んでいると信じたい。
おわりに
・今の日本には100歳以上が7万人いる。この100年間に戦争があり、日本は大きく変わった。科学技術は大きく進歩したが、日本人の考え方・行動は変わったのだろうか。本書を振り返れば、余り変わっていない様に思える。当時の言葉の中に時代の違いを感じるが、今の論者の言葉と全く違わない言葉もある。制度改革も行われてきたが、依然同じ問題に苦しむ人がいる。課題解決には現状だけでなく、時間を遡って捉え直す必要がある。
・最後に詩人の室生犀星の詩「百年後」を紹介する(※簡略化)。
良いものを書く人も、悪いものを書く人も、100年経てば解る。
100年後、苗の様な青白い顔をして世の中の変化を見たいものだ。そんな事を考える私を子孫は笑うだろうか。
私たちの書物はなくなり、新しい壮んな書物が賑わっているだろう。
・100年前と比べると、今は書物が格段に多い。彼は「100年後の世の中を見たい」と言った。その期待を本書が実現した。