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『官房長官と幹事長』橋本五郎(2018年)を読書。

内閣を解説する場合、首相だけを淡々と解説すると味気ない。ところが官房長官や幹事長と一緒に解説すると内情が分かって面白い。

第4章は米国/英国と比較しており、これも参考になる。

本書は触れていないが、副総理/副総裁の役割も知りたい。

お勧め度:☆☆
内容:☆☆

キーワード:<はじめに>二階博、野中広務、<大黒柱>官房長官、後藤田正晴、菅義偉、幹事長、二階俊博、参議院、<官房長官>実力者型/後藤田正晴・野中広務、忠臣型/藤波孝生、野心型/武村正義、総理への階段型/宮沢喜一・福田康夫、<幹事長>総・幹分離、ライバル型/石破茂、総理への階段型/安倍晋三・橋本龍太郎、独立独歩型/金丸信、消費税、野田佳彦、<米国・英国・ドイツ>大統領制/院内総務/首席補佐官、議院内閣制/党幹事長、参議院、<人・組織を動かす>私を捨てる、信念、弱者、鎮魂、心、<おわりに>政治

はじめに 強い政権に優れたナンバー2

・2018年2月26日予算案の年内成立が迫っていた。働き方改革関連法案の審議で厚労省が不適切なデータを出し、野党が予算案の審議拒否していた。夜8時半、衆議院常任委員長室に与野党の幹事長・書記局長が集まった(※常任委員長室=両院協議室。ここで重要な会議が行われる)。立憲民主党の福山哲郎は審議のやり直しを求めた。自民党の森山裕国会対策委員長/林幹雄幹事長代理は与党による事前の打合せ通り強行採決に進もうとした。ところが自民党幹事長・二階俊博(※任2016年8月~21年10月)は立ち上がらなかった。
・予算案は衆議院で議決されると、参議院で議決されなくても、30日経つと成立する。また委員会や本会議を開くには前日までに決定する必要がある。休憩後再会談となるが、やはり二階は動かなかった。27日午前0時になり、27日の予算案衆院通過はなくなった。同日予算委員会理事懇談会で河村健夫・予算委員長の職権で、翌28日予算委員会採決すると決める。28日予算案は予算委員会/本会議で可決され、年度内の成立が確実になる。
・結局強行採決が1日延びただけだが、大きな意味がある。野党にとっては1日延ばした事でメンツが立った。安倍政権(※2006年9月~07年9月、2012年12月~20年9月)には、その後の国会運営がスムーズに進んだ(※法案の国会審議が順調に進んだかな)。これを二階が計算していたかは分からないが、安倍政権の心強い後方支援になった。。

・野中広務は小渕内閣(※1998年7月~00年4月)の内閣官房長官(以下官房長官。※任1999年1月~10月)だった。小渕内閣は最初から低支持率で、参議院は与党が過半数を割り、大変苦労した。米国からは「冷めたピザ」と揶揄された。
・そこで彼は不倶戴天の敵で自由党の小沢一郎との連立を画策する。彼の著書『老兵は死なず』に「個人的感情は別として、法案を通すためなら、小沢さんにひれ伏してでも・・」とある。しかし彼は自由党だけとの連立ではなく、公明党も加えた「自自公」の大連立を視野に入れていた。自自が連立する事で、公明党が入り易くなる。そして小沢の影響力を抑えられる(※今の高市政権とそっくり。自維連立後、国民民主が加わりそう)。小渕内閣は「3日持つか、3週間持つか、3ヶ月持つか」と言われたが、発足8ヶ月後に支持率が不支持率を上回る。

・官房長官と幹事長の1例を紹介した。本書はこの両ポストの仕事振りを振り返る。官房長官は総理大臣の右腕だ。幹事長は党のナンバー2だが、総裁は行政に専念するため、実質は党の最高責任者になる。総理・総裁のリーダーシップは重要だが、政治は1人の力で動かない。長期政権には名官房長官や凄腕幹事長がいた。

第1章 政権を支える大黒柱

・第2次安倍内閣以降、菅義偉は官房長官として政権を支えた。幹事長・二階俊博は安倍総裁の3選を真っ先に支持した。彼らを振り返る前に、その役職を説明する。

1.官房長官

○官房長官の仕事
・菅義偉が現れるまで、中曽根康弘内閣の官房長官・後藤田正晴が最強の官房長官と思っていた。藤田のエピソードを紹介する。ある時彼は昭和天皇に認証官の説明を行なった。そこで天皇から「忙しそうだね。ところで官房長官は何をやっているの」と聞かれる。官房長官は毎日記者会見しているが、多くの国民はその仕事を分かっていない。

○いくつもの顔
・官房長官はまずは「内閣のスポークスマン」で、1日2回記者会見している。米国はホワイトハウスの報道官、中国は外交部の報道官が行っている。日本の内閣はナンバー2がやるので、大変重視している。官房長官は総理に最も近く、他の閣僚を束ねるため「内閣の大番頭」と言える。さらに大事な役割として与野党や立法府(国会)との調整を行っている(※具体例が欲しいが、おいおい出てくるかな)。

○けんかの仲裁?
・法律(国家行政組織法)では、各省庁を指揮監督するのは担当大臣だ。総理にあるのは閣僚の任命・罷免の権限で、間接的に指揮監督する仕組みだ。では官房長官は省庁を指揮監督する権限を持つのか。2001年省庁再編で大きな内閣府が作られる(※前身は総理府)。官房長官は総理を補佐する職務になり、各省庁に跨る事柄を調整したり、管轄が判然しない問題などを担当する様になる。後藤田はこれを「纏め役」「けんかの仲裁」と称した。

○三原山噴火
・1986年11月伊豆大島の三原山が噴火する。当時は中曽根康弘内閣(※1982年11月~87年11月)で後藤田(※任1982年11月~83年12月、1985年12月~87年11月)が官房長官だった。約1万人の島民・観光客がいたが、溶岩が住宅地に流れ込んだ。災害は国土庁が担当するが、関係省庁が集まり災害対策本部が設置される。ところが一向に対策が打てない。そこで後藤田に権限を集中させる。彼は南極に向かう途中の「しらせ」を救助に向かわせ(文部省管轄)、民間の東海汽船にも救助に向かわせる(運輸省管轄)。

○政治家の個性・力量
・三原山噴火は後藤田の積極的な行動で救われた。一方阪神大震災は酷かった。当時は村山富市内閣(※1994年6月~96年1月)で、五十嵐広三(※任1994年6月~95年8月)が官房長官だった。官房長官の個性・力量で対応が大きく変わり、それが政権の強さになる。

○安倍一強を支えた菅
・第2次安倍晋三内閣以降(※2012年12月~20年9月)は「安倍一強」と言われる。それまでの第1次安倍内閣/福田内閣/麻生内閣/鳩山内閣/菅内閣/野田内閣は最初は支持率が高いが、直ぐに落ち、支持率と不支持率が「X」を描く(※先日もテレビで説明していた)。第2次安倍内閣はどうだったのか。発足して3年(2015年)、安保法案で交わるが、ほどなく回復する。さらに2017年森友学園問題・加計学園問題で交わるが回復する。この現象は珍しい。この要因の1つにアベノミクスの成功がある。そしてもう1つの要因に、国論が二分する問題に挑戦した事がある。特定秘密保護法/安全保障関連法/テロ対策特別措置法/集団的自衛権に堂々と取り組んだ。さらに菅義偉・官房長官(※任2012年12月~20年9月)の存在があり、彼の省庁掌握力を忘れてはいけない。

○力の源泉
・菅の「力の源泉」は何だったのか。第1は総理との一体感だ。安倍は第1次内閣で失敗し、絶望の淵にあったが、彼は安倍の背中を押し、総裁選に立たせた。この信頼関係が一体感になった。
・第2は彼がナンバー1を目指さなかったからだ。多くの官房長官は総理を見据え、官房長官をステップと見ている。この意識があると無事大過なく任務を全うしようとする。出世を目指していないと誰にでも強い事を言えるし、国のため/総理のためと言える。

・第3は彼は内閣人事局を活用し、省庁を完全把握した。国家行政組織法の趣旨だと、事務次官以下は大臣が指名し、閣議で決める。ところが縦割り行政を除去し、官僚主導から政治主導に転換させるため内閣人事局が作られた。これに「忖度が生まれ、行政がゆがんだ」と批判する声があるが、間違いだ。内閣が新しい課題に取り組む時、各省庁に従ってもらわないと進まない。そのため人事権は不可欠になる。制度は常に一長一短がある。問題はその制度をどう運用するかだ。モリカケ問題はやり過ぎだったかもしれない。いずれにせよ彼が人事を掌握した事が「力の源泉」になった。

○失言の少なさ
・第4は彼の失言の少なさだ。第1次安倍内閣(※2006年9月~07年9月)は、年金記録問題や官僚の不祥事や失言が相次いだ(※詳細省略)。この時官房長官・与謝野馨(※任2007年8月~07年9月)は記者会見で「なぜ身体検査をしなかったのか」と訊かれ、「森羅万象、全て分かっているものでない」とけむに巻く。
・失言は愛嬌にもなるが、内閣の命取りにもなる。菅の失言の少なさは、彼の半生にもよる。彼は秋田県の農家の長男に生まれるが、高校卒業後上京し、段ボール工場でアルバイトし、法政大学に入学する。卒業後小此木彦三郎・衆議院議員の秘書になり、横浜市議会議員になり、国会議員になる。この下積みにより、失言が少なくなった。

○圧倒的な情報量
・第5は圧倒的な情報量だ。官房長官は内閣調査室や警察庁を使って情報を集め、閣僚の身体検査ができる。しかし彼の情報量の多さはそれだけでない。彼は朝5時に起き、テレビ各局のニュースを見る。そしてホテルで朝食会を開き、有識者・専門家の話を聞く(※これは凄いな)。役所は自省の利益になる話しかしない。ところが様々な方面から情報を集めていると、その真偽が判断できる。彼には庶民感覚があり、役所の言う事を鵜呑みにしない(※乾通りの一般公開の話は省略)。

○官房長官の4つのタイプ
・総理も官房長官(佐藤内閣、田中内閣)も務めた竹下登は、官房長官は「実力者型」「忠臣型」の2種類とした。1つは副総理格で、緒方竹虎(吉田内閣)/保利茂(佐藤内閣)を挙げた。おそらく後藤田/梶山静六も入り、「実力者型」だ(※菅もかな)。もう1つは秘書官並みに使い易いタイプで、竹下登/藤波孝生(中曽根内閣)/小渕恵三(竹下内閣)が入り、「忠臣型」だ。私はこれに「野心型」「総理への階段型」を加え、官房長官には4つのタイプがあると考える。

2.幹事長

○強大な力
・幹事長も政権を支える強大な力だ。幹事長は党内ナンバー2だが、総裁は行政に専念するので実質ナンバー1だ。その「力の源泉」は、「金」「ポスト」「選挙」の3つだ。「金」では、自民党の予算を握っている。2018年自民党の政党交付金は175億円あった。また自民党の政治資金団体「国民政治協会」への企業・団体献金が23億円あった。幹事長はこれらを管理・分配する権限を持つ。
・閣僚の「ポスト」は自民党各派の意見を聞き、総理が決める(※派閥が解消され、今はどうなっているのか)。ただ小泉純一郎は独断で決めた。しかし副大臣・政務官や党内の青年局長・選挙対策委員長など、約800の人事は幹事長が決める。
・「選挙」は政治家の生殺与奪を握る。公認や政治資金の権限は幹事長にある。幹事長は強大な権限を持ち、力のある政治家が多い。小沢一郎は「神輿は軽く、パーが良い」と言っている。

○総・幹分離体制
・かつては総理・総裁の側近が幹事長に就いた。幹事長が力を持つ様になったのは大平正芳内閣(※1978年12月~80年7月)からだ。福田赳夫と大平による「40日抗争」で党が分裂し、総理・総裁と幹事長は別の党派から出すのが慣習となる(総・幹分離)。この流れは田中角栄内閣後の三木武夫内閣(※1974年12月~76年12月)から始まるが、完全な総・幹分離は大平内閣から始まる。※大平内閣時、幹事長には斎藤邦吉(任1978年12月~79年11月、宏池会・大平派)と桜内義男(任1979年11月~81年11月、政策科学研究所・中曽根派)が就いている。
・そのため総理を目指す人は幹事長に就くようになった。この点からすると今の幹事長・二階俊博(※任2016年8月~21年10月)は特異だ。1つは年齢・経歴から総理・総裁を目指す人ではない。

○党人派幹事長
・二階は自民党の伝統的な幹事長、すなわち実力者を思わせる。第1の特徴は「数は力なり」を体現している。2015年2月1400人を引きつれ韓国を訪問し、朴槿恵大統領と会っている(※総務会長(任2007年8月~08年8月、2014年9月~16年8月)の時だな。総務会長は党ナンバー3かな)。2015年5月3000人を引きつれ中国を訪問し、人民大会堂で習近平と記念写真を撮る。この「数は力」は田中/金丸信を思わせ、党人派の特徴だ。
・第2の特徴は、野党への影響力・人脈だ。「はじめに」で触れたが、与党過半数なのに強行採決を1日遅らせ、野党の顔を立てた。彼は小沢一郎と共に保守党に所属するなど、野党時代が長かった(※1993~03年自民党を離れている)。そのため野党と人脈を持ち、また野党の顔を立てる事ができる。

○勝負勘
・第3の特徴は、リスク覚悟で流れを作れる。2017年8月幹事長を留任する。その後安倍の総裁3選を支持する。これは党内で反発の恐れがあったが、先手を打った。2018年4月モリカケ問題から野党が審議に応じなかった。国会対策委員長・森山裕が「解散もあり得る」とゆさぶりを掛けた。これに二階が「幹事長の知らない解散はない」と火消しする。先陣を切るのはリスクを伴う。しかし共に安倍を代弁し感謝された(※総理と打合せ、彼が発言したのでは)。

○火中の栗を拾う
・第4の特徴は、「落ち穂拾い」「火中の栗を拾う」をやる。二階派(※志帥会)は玉石混淆、いや石が多い。どこの派閥も受け入れない議員が多い。そのため所属議員の不祥事も多い(※宮崎謙介、神谷昇、今村雅弘の話は省略)。彼らを引き受ける事で、他派閥に貸を作っている。

○政治は弱い者のため
・第5の特徴は「土着的リベラリズム」だ。森喜朗内閣(※2000年4月~01年4月)の時、野中広務が幹事長(※任2000年4月~12月)だったが、野中と二階はこの点で似ている。野中は著書『私は闘う』で「国会議員は地方議員を経験すべき」と書いている。二階は県会議員を経験しており、「県会議員を経験し、地方の人々の気持ちが分かる」と述べている。また彼は「政治は弱い者のためにある」とも述べている。また彼は衆議院議員・遠藤三郎の秘書を経験している。遠藤は農林省出身の官僚型政治家で、彼は議員立法を手伝い、政策に精通した。

○巧まずして、上手い人事
・こうして見ると、安倍体制は副総理に麻生太郎、官房長官に菅義偉で足元を固め、党では憲法改正を高村正彦が担い、国会対策・党務を二階が担っている。これは巧まずして、上手い人事だ。彼らは総理・総裁に極めて協力的・献身的だ。

○参議院幹事長
・参議院幹事長のポストも忘れてはいけない。青木幹雄は参議院幹事長として強い権限を持った(※任1998~04年。正確には自民党参議院幹事長)。1998年参院選で自民党は惨敗し、その後ねじれ国会になり、国会運営に苦労する。「参議院に価値はない」「参議院は盲腸」と言う人がいるが、日本ほど参議院が強い国はない。そのため野党とのパイプが必要になる。参議院は衆議院に対抗意識があり、この点で結集できる。
・青木/竹下登の所属は平成研究会(田中派、経世会)だったが、同会派が強い力を保てたのは、参議院を上手く使ったからだ(※これも具体例が欲しい)。1993年竹下派(田中派)から小沢一郎/羽田孜らが袂を分かつ。彼らが自民党を出たのは跡目争いで小渕恵三に敗れたからだ。この時参議院の多くの議員は小沢に付いて行かなかった。

第2章 官房長官

・官房長官には「実力者型」「忠臣型」「野心型」「総理への階段型」がある。それぞれについて見ていく。

1.「実力者型」官房長官

・「実力者型」の典型が後藤田正晴だ(※田中派→無派閥。1985年田中派分裂で無派閥に)。彼は中曽根康弘内閣(※1982年11月~87年11月。中曽根派)で2回官房長官に就いている(※任1982年11月~83年12月、1985年12月~87年11月)。中曽根内閣は田中派の彼が官房長官、秦野章が法務大臣に就き、田中派が支配した内閣だ。彼を官房長官にしたのは田中角栄とされるが、そうでない、中曽根は総裁選以前から彼に打診していた。

○打診されていた後藤田
・中曽根内閣の前は鈴木善幸内閣だ。その時中曽根は行政管理庁長官、彼は自民党の行財政調査会副会長で、行政改革で意見交換していた(※2人が会話し、中曽根が補佐を依頼しているが、その話は省略)。しかし彼は官房長官は自派閥から出すべきと断っていた。
・中曽根は、なぜ彼を選んだのか。中曽根にとって彼は内務省での先輩だ。そのため官僚に睨みが利く。もう1つは、田中派の圧力が強く、その「風よけ」のためだ。

○面目躍如
・この人選が功を奏する。1983年9月大韓航空機の墜落事件が起きる。ニューヨーク発ソウル行きの旅客機が行方不明になるが、日本が最初にソ連が撃墜の情報を掴む。午後8時安倍晋太郎・外務大臣が撃墜を表明し、午後11時45分米国務長官が撃墜を発表する。ソ連は否定するが、後藤田は傍受した交信記録テープを国連安保理事会に提出すると発表する。彼の危機管理が優れていたのは、内務省で警察庁長官に就き、浅間山荘事件を指揮するなどの経験があり、官僚のコントロールに長けていたからだ。

○総理に意見する
・彼は総理に違う事は違うと言っていた。1987年イラン・イラク戦争が続き、ペルシャ湾に大量の機雷が敷設された。9月日米首脳会談で中曽根はレーガンに「ペルシャ湾の安全航行に貢献する」と応じる。総理が帰国すると、彼は海上自衛隊の掃海艇派遣を打診される。外務審議官・栗山尚一が彼の所に来て派遣を要請するが、彼は断固拒否する(※詳細省略)。そして総理に「もしペルシャ湾で自衛艦が交戦に巻き込まれると戦争になります。国民はその覚悟ができていますか。派遣は止めて下さい。閣議にかけるなら、私はサインしません」と伝える(※簡略化)。彼は警察官僚でタカ派に思われるが、防衛力強化や自衛隊派遣には慎重だった。

○後藤田五訓
・彼は多くの後輩・部下から慕われた。彼らには「後藤田五訓」なるものがある。①出身がどこであれ、省益は忘れ、国益を想え。②悪い真実を報告せよ。③勇気を以って具申せよ。④「自分の仕事でない」と言うな。⑤決定されたら命令に従え。
・これに関連して、財務省事務次官や日銀副総裁を歴任した武藤敏郎が「部下の言う事が間違っていたら、3回は異論を言え。それでも大臣などが聞き入れないのなら、政治的理由があるので従え」を口癖にしていた(※部下でも上司でも3回は異論を言って、どうしても大臣(上司)が聞き入れない場合は従うのかな)。これを実践している官僚はいるのだろうか。文部科学省事務次官・前川喜平は退官してから文句を言い始めた。森友学園問題では、官僚は最初から忖度している。

○やってはいけない事
・彼は自民党幹事長・田中六助(※任1983年10月~84年12月)から諫められ、反省した事もある。田中がいる前で、総理に「それは違います」と意見する。その後田中から「他の人がいる前で、あなたは総理に言ってはいけない事を言った」とたしなめられる。彼は自著に反省したと書いている。

○剛腕・野中広務と青木幹雄
・「実力者型」に小渕恵三内閣(※1998年7月~00年4月。田中派→竹下派→小渕派)の官房長官・野中広務(※任1998年7月~99年10月。田中派→竹下派→小渕派→橋本派)もいる。小渕内閣は発足当初から低支持率で、参議院では過半数を割っていた。しかも金融危機を抱えていた。そこで彼は不俱戴天の敵・小沢一郎が率いる自由党と連立する(詳細は「はじめに」)。さらに公明党を加え、「自自公」大連立を実現する。
・後藤田は官僚に睨みを利かせ、数々の危機対応を成した。野中は弱い小渕政権を名を捨て実を取り、安定飛行させた。両者はスタイルは違うが、「実力者型」官房長官だ。

2.「忠臣型」官房長官

・「忠臣型」に藤波孝生/竹下登/小渕恵三などがいる。藤波孝生(※中曽根派)は中曽根康弘内閣(※1982年11月~87年11月)で最初は後藤田官房長官の下で副官房長官に就き、その後官房長官に昇格し(※任1983年12月~85年12月)、その後国対委員長に就く。「低姿勢は正姿勢」として裏方に徹した。また大平正芳の「政治は鎮魂」を信条とした。
・彼は俳人として有名だ。(※1980年6月大平が急逝した時、彼は夜行列車で移動中だったが、その時の話は省略)。弔い選挙で自民党は圧勝するが、彼は放浪の旅に出る。夫人は自殺するのではと付き添った。オホーツク海を前に、盆踊りしている人々を見て、政治家を続けると決意する。この時「オホーツク、海を背負って、盆踊り」と詠んでいる。

○巧みなバランス感覚
・彼らしさが発揮されたものに「閣僚の靖国神社参拝問題に関する懇談会」(靖国懇)がある。この懇談会は「憲法の趣旨に反しないで、閣僚が公式参拝する方法を検討する」(※簡略化)との結論を出す。彼らしさが発揮されたのは人選で、賛成派も慎重派も選んでいる(※詳細省略)。また報告書には異論も入れている。

○緩衝役を引き受ける
・彼は中曽根と田中角栄の間に入り、緩衝役を引き受けた。田中は中曽根内閣発足当初(1982年11月)から無理難題を押し付けた。ロッキード裁判前に解散総選挙しろと要求した。この圧力は凄まじかったが、彼は真正面から受けて立った。結局裁判後に総選挙するが、自民党は敗れる。※1983年12月第2次中曽根内閣は初めて自民党単独政権でなくなり、自民党と新自由クラブの連立になる。

○人々の魂を鎮める
・彼は中曽根と田中の緩衝役になったが、権力行使は抑制的だった。そのため森喜朗/加藤紘一/渡部恒三/野田毅/羽田孜らが集まる「新生クラブ」のリーダーになる。次世代総理と目されていたが、リクルート事件で政治家人生が一転する。
・政治は結局のところ権力闘争で、その権力至上主義の典型が小沢一郎だ。その反対に政治は人々の魂を鎮める事と考え、権力行使を抑制的にする向き合い方もある。当然彼は後者に類する。

3.「野心型」官房長官

・「野心型」の代表が細川護熙内閣(※1993年8月~94年4月)で官房長官を務めた武村正義だ(※任1993年8月~94年4月)。これほど相互不信の関係はなかった。その理由が3つある。第1は、細川内閣は8党会派(日本社会党、公明党、新生党、日本新党、民社党、新党さきがけ、民主改革連合、社会民主連合と無所属)の連立内閣で、総理は誰もが新生党党首・羽田孜が就くと思っていた。細川が就いたのは、左の社会党、右の新生党の中間が日本新党だったからだ。また細川は肥後細川家の18代当主で、日本新党ブームを起こしていた。武村には新党さきがけ党首として同格意識があった。※正しく多党連立内閣の弊害だな。

○強い権力志向
・第2は、小沢一郎との関係だ。細川は発足当初は小沢より武村と親密だった。ところが影響力の強さから、徐々に小沢に傾く。一方武村は小沢に違和感を持っていた(※詳細省略)。第3は、武村は権力志向で自分が総理になりたかったと考えられる。

○不仲による悲劇
・細川は総理日記『内訟録』を書いている(※名前の由来は省略)。当書を読んで感じたのは、当初は小沢が内閣を操っていたと思っていたが、実際は総理自ら意思決定していた。武村は当書を読んで、「政権発足1年前の私と細川の関係が全く記されていない(※まあ総理日記なので)。最初から最後まで彼は私を良く思っていなかった様だ」「それは違うと思う事も多々ある。特に成田憲彦・首席秘書官が小沢を庇い、私を批判する記述が多い」と言っている。

○それは発足当初から芽生えた
・実際当書を読むと、のっけから武村を批判している。彼の官房長官就任が新聞にリークした。彼はリークを否定するが、新党さきがけの代表代行・田中秀征は「細川がすごい勢いで抗議し、「これでは持ち堪えられない」と言ってきた。一方武村は「公にしたら後戻りできない」と言った」と言っている。
・当書に細川は「小沢不快感を隠さず。ただでさえ武村起用に反発しており、誠に心外」と記している。その先で荻生徂徠の長所短所を語る言葉を引用している(※本文省略)。さらに司馬光の「疑えば任ずるなかれ、任ずれば疑うなかれ」を記している。

○政治改革法案を巡る政治ゲーム
・当書は政治改革法案に関するくだりもある(※政治改革は細川内閣の唯一の実績かな)。この協議に小沢は関係しておらず、最終段階で疑義ありとして登場する。これにより幹部が招集されるが、武村は出席していない。細川が武村に「出席は好きにして下さい」と直接電話したらしい。結局武村は小沢が出席している協議に顔を見せず、協議終了後に来室している。

○短命内閣の特徴
・細川内閣は佐川急便からの借入問題で8ヶ月で退陣する。この1億円は返金され、会計簿にも正しく記されている。そのため成田は「政治倫理審査会で説明すれば問題ない」と進言するが、小沢は反対した。武村も動かなかった。そもそも国会が止まる様な問題でなかった。結局互いに政党の党首である細川と武村の相互不信が、最初から最後まで続いたと言える(※武村の回顧録を引用しているが省略)。

○政治改革が先か予算編成が先か
・『聞き書 武村正義回顧録』は嘆きと弁解が多い。この象徴が国民福祉税だ。1996年12月(※1993年12月では)与党内で予算編成が先か政治改革が先かで意見が分かれる。小沢は政治改革法案、武村は予算編成の優先を主張した。細川は米国に内需拡大のための減税を約束し、予算編成を優先しようとした。ただし大蔵省は増減税の一体化を考えていた。そこで小沢は政治改革法案と国民福祉税のセットを提案し、大蔵省もこれに乗る。しかしこれを武村に知らせなかった。

○小沢の策略
・12月16日小沢が突如、首相公邸に来る。そして玄関で総理を呼びつけ「武村のクビを切れ。そうでなければ内閣に協力できない」と怒鳴り、帰る。この話を聞いた武村は「小沢は小さな人」と言っている。その後小沢は10日ほど音信不通になる。新生党の羽田/渡部/奥田敬和などが小沢を探すが捉らなかった。結局小沢の意向通り、予算編成は越年となる。
・10日後、公邸で細川と小沢が会う。しかし『内訟録』には、「小沢氏来訪。遅れて市川氏」としか書かれていない。小沢は公明党書記長・市川雄一と親しく、「一一ライン」と言われた。武村は「政治改革法案が通ったら内閣を改造し、私を更迭する。さらに会派を統一し、党にする話し合いが行われた。細川と小沢は仲直りした」と述べている。
・結果的に翌年、社会党/新党さきがけが連立から離脱する。一連の流れから連立内閣の難しさが覗われる。連立であっても官房長官は信頼できる人を据えるべきだ。

4.「総理への階段型」官房長官 ※このタイプの官房長官は多そう。

・「総理への階段型」の代表が宮沢喜一だ。1980年6月衆参同日選中に大平正芳総理が急死する。次の総理は同じ派閥(宏池会)の宮沢にすべきとの声が多かった。大平と宮沢は池田勇人・大蔵大臣の秘書官を務めたが、仲は良くなかった。宮沢を推していたのは、他派閥の佐藤栄作(※1975年死没)や福田赳夫で、そのため田中角栄は宮沢後継に反対したとされる。田中は同じ宏池会で扱い易い鈴木善幸を推した。

○似た者同士
・結局鈴木内閣(※1980年7月~82年11月)になり、宮沢は官房長官に就く(※任1980年7月~82年11月)。ところが両者はリーダーシップを発揮するタイプでなかった。鈴木は総務会長を長く務め、調整型の政治家だ。宮沢はインテリで、「リーダーとは巨大タンカーの船長で、確実に進路を取れば問題ない。本人が見えなくても、政治が回っていればそれで良い」と言っている。こんな2人なので内閣が何をやろうとしているのか見えなかった。
・総理と官房長官は異なるタイプが望ましい。第2次安倍内閣以降の菅義偉の様に、裏で総理を支えるタイプが望ましい。中曽根・藤波のコンビも役割分担ができていた。後に宮沢は総理になり(※1991年11月~93年8月)、官房長官に河野洋平が就くが(※任1992年12月~93年8月)、もっとギラギラした政治家が良かった。結局小沢・羽田グループに裏切られ、内閣不信任案が可決され、自民党は与党から降りる。

○政治家の一流・二流
・宮沢は頑固で、人の言う事を聞かない。宮沢内閣が出した政治改革法案が、全会一致が原則の自民党総務会で幹事長・梶山静六の反対で通らなかった(※法案は官僚→自民党(総務会)→閣僚→国会の流れかな)。そこで私は「この法案を通せたら、総理を辞めても構わない」と自分を捨てるべきとアドバイスする。当時は政治改革機運が高まっており、そうすれば野党は賛成せざるを得ない。そうなれば総選挙で勝てるし、総理を辞めさせる訳にはいかなくなる(※深い構想だな)。結局彼はそれをしなかった。

・彼は評論家としては一流だが、政治家としては二流だ。彼は側近として優秀、頭は良くて政策に通じ、英語も堪能だ。しかし鈴木総理の下での官房長官には適していなかった。鈴木で一番問題だったのが、日米首脳会談で「日米関係は同盟関係でない」と発言した事だ。この結果伊東正義が外務大臣を辞任する。国際通の宮沢が鈴木に振り付けしていたら、こんな発言は出なかった。

○手堅く慎重にがモットー
・「総理への階段型」に小泉純一郎内閣(※2001年4月~06年9月)で官房長官に就いた福田康夫も挙げられる(※任2000年10月~04年5月)。彼は「手堅く慎重に」がモットーだった。小泉-福田の組み合わせは悪くはなく、福田の在任期間は菅に抜かれるまで最長だった。
・小泉内閣の最大の功績は北朝鮮の電撃訪問だ。これは外務省アジア太平洋局長・田中均の交渉による。この時田中は頻繁に小泉と会い(1年で27回)、北朝鮮の信頼を得た。この交渉内容は小泉/福田/官房副長官・古川貞二郎/外務事務次官・野上義二の4人に逐次報告された。福田は常に慎重派だった。電撃訪問により5人の拉致被害者が帰還するが、残る8人の帰還が課題として残る。

○小泉再訪朝の裏舞台
・この交渉には3つのルートがあった。1つ目は総理秘書官・飯島勲で、朝鮮総連最高幹部とのルートだ。2つ目は小泉の盟友・山下拓のルートだ。3つ目は先の田中のルートだ。飯島が朝鮮総連最高幹部と話し、小泉が再訪朝すれば残る拉致被害者を帰す話が纏まる。福田は慎重論を唱えるが、小泉の決意は堅かった(※小泉は2002年9月/2004年5月に訪朝している)。

○潔く辞めれば復活する
・小泉再訪朝が固まった2004年5月、突然福田の辞任が発表される。理由は自身や閣僚の年金未加入・未納問題だった。表向きは年金問題だが、小泉再訪朝を飯島に出し抜かれた事が理由と考えられる(※彼は田中ルートの担当?)。これは彼が政治家でなかった事になるが、潔く辞めれば復活に繋がり、結果的に総理になる。彼は官房長官も総理も突然辞任している。
・小泉内閣の次に安倍内閣(※2006年9月~07年9月)が発足する。安倍内閣は構造改革などを継承して推進するが、これは「改革疲れ」になる。そして次の総理は同じタイプの麻生太郎ではなく、安心感のある福田が選ばれる。

○福田総理の功績
・福田が小泉を制御するのに適任だったが、それにはそもそもの理由がある。小泉は議員になる前、福田赳夫の玄関番で福田邸を訪れる政治家・新聞記者の靴を並べていた(※小泉も世襲だが)。その御曹司が福田康夫だった。小泉に福田は鬱陶しかったかもしれないが、自分の流儀を押し通すタイプなので、気にならなかっただろう。2人は馬が合わなかったかもしれないが、福田は上昇志向が強くなく、部下としての姿勢を心得ていた。彼は権力を得るためにお金を掛ける事もなく、身を粉にして人間関係を作る事もなかった。
・彼の総理としての功績に「洞爺湖サミット」(※2008年7月)がある。開催前に日本記者クラブで会見し、日本は地球温暖化対策として低炭素社会を目指すと語る。これは名演説だった。

第3章 幹事長

・自民党幹事長の類型を紹介するが、その前に梶山静六の話をする。1993年6月宮沢喜一内閣に不信任案が提出され、自民党からも政治改革できないとして小沢一郎/羽田孜が賛成し、可決する。宮沢は解散総選挙するが、敗北し、非自民の細川護熙内閣が誕生する。前章で触れたが、選挙制度改革法案が通らなかったのは、全会一致が原則の総務会で梶山が反対したからだ(※梶山は主流派だと思うが、反対したんだ)。不信任案が可決される5日前、宮沢は梶山を私邸に呼び、協力を要請する。しかし「自民党は組織政党です。総理・総裁に一任すればできると考える人は自民党を知らない」と拒否される(※本人を直接批判?)。選挙制度改革法案が総務会で通っていれば、不信任案が可決される事もなかった。幹事長の存在の大きさを痛感する。

○幹事長の3つのタイプ
・自民党本部幹事長室の室長を30年務めた奥島貞雄は『自民党幹事長室の30年』を書いている。彼は1967年第1次佐藤内閣(幹事長・田中角栄)から1995年村山富市改造内閣(幹事長・加藤紘一)まで22人の幹事長に仕えた。彼がベストに選んだ幹事長は田中角栄で、ワーストは小沢一郎だ。
・彼は幹事長を2つに分類した。1つは「エンジン型」で、個性・リーダーシップで党を引っ張る田中角栄/福田赳夫/中曽根康弘/大平正芳/田中六助/金丸信/安倍晋太郎/橋本龍太郎/加藤紘一を挙げている(※就任順だな)。この傍流の過激派として小沢一郎/梶山静六がいる。もう1つは「グリース型」(調整型)で、保利茂/橋本登美三郎/内田恒雄/斎藤邦吉/桜内義男/二階堂進/竹下登/小渕恵三/綿貫民輔/森喜朗を挙げている(※こちらも就任順)。前者の多くは総理になっている。後者の竹下/小渕/森は総理になるが、調整重視の典型的な日本的リーダーシップを発揮している。
・奥島は幹事長の個性で分類しているが、私は総理・総裁から見てどんなタイプだったかで、「ライバル型」「総理への階段型」「独立独歩型」の3つに分類する。※「ライバル型」「総理への階段型」は近い気がする。

1.「ライバル型」幹事長

・かつては総裁と幹事長はライバル関係でなかった。それは幹事長が総裁派閥から選ばれたからだ。ところが三木武夫内閣(※1974年12月~76年12月。三木派)で変わる。三木を総裁に選んだのは副総裁・椎名悦三郎だ。椎名は総裁候補の三木/福田/大平/中曽根を呼び話し合う。その時確認されたのが幹事長は総裁派閥から出さない事だった。そこでクリーンなイメージの三木が選ばれる(椎名裁定)。そして幹事長に中曽根(※任1974年12月~76年9月。中曽根派)が選ばれる。これが最初の「総・幹分離」となり、以降常態化する。
・この目的は権力の分散で、総裁選が終わるとノーサイドで、挙党一致で協力するのが大義名分だからだ。こうして党内の実力者は幹事長として総裁を支えるのが不文律になる。

○幹事長代理
・総・幹分離だと総裁の意向が通らなくなる。そこで幹事長のお目付役となる幹事長代理を設け、中曽根の下に石田博英(※三木派)を就けた(※幹事長代理は知らなかった)。そもそも幹事長は国家老みたいな存在で、領地(党内)で一番力を持つ。そうなると殿様(総裁)の意向が通らなくなる。そのためこの仕組みを作った(※面白い例え)。
・この不文律を壊そうとしたのが大平正芳内閣(※1978年12月~80年7月。大平派)だ。大平は自派の鈴木義幸を幹事長に就けようとするが、福田が猛反対する。理由は総・幹分離の不文律と、鈴木が田中派の二階堂進と親しかったからだ。結局妥協案として毒にも薬にもならない大平派の斎藤邦吉(※任1978年12月~79年11月)が幹事長に就く。総理・総裁はリーダーシップを発揮するため息の掛った人を幹事長に就けようとするが、そうすると対抗勢力から反対される。政治とはこう言ったせめぎ合いになる。

○対抗意識が強かった石破幹事長
・「ライバル型」幹事長に第2次安倍晋三内閣(※2012年12月~14年12月)の石破茂(※任2012年9月~14年9月)が挙げられる。2012年9月総裁予備選(党員投票)で彼は199票、安倍は141票を獲得するが、決戦投票で敗れる。この結果安倍は彼を幹事長に就けざるを得なくなる。そして幹事長となった彼は、半年位は総理と対等な口をきく。彼は2度の選挙(2012年衆議院、2013年参議院)で自民党を大勝させ、責任を果たす。

○鉄ちゃんのおかげ
・石破の力の源泉は地方にある。それは彼が「鉄ちゃん」(鉄道マニア)だからだ。彼は地方遊説すると、現地で党員・支持者と食事し、夜行列車で帰る。普通自民党の幹部などは、地方遊説すると直ぐに帰る。地方の支持は政治家に大切だ。安倍は早く辞めさせたかったのか、彼は幹事長を2年、その後地方創生担当大臣を2年務め、退任する。
※ライバル型は多いだろうが、石破だけか。

2.「総理への階段型」幹事長

・「総理への階段型」幹事長の典型が小泉純一郎内閣(※2001年4月~05年10月)での安倍晋三(※任2003年9月~04年9月)だ。実はこれは異例で、安倍は閣僚経験がなく、当選3回で49歳の若さだった。小泉は自分の後継が安倍である事を内外に示した。(※小泉人事を詳しく解説しているが省略)。それまでは幹事長に就くのは、主要閣僚(財務大臣、経産大臣、外務大臣など)や党三役(幹事長、総務会長、政調会長)の経験が条件だった。小泉の人気は高かったが、安倍の人気も高かった。

○ずば抜けて人気が高かった橋龍
・人気が一番高かったのは、宇野宗助内閣(※1989年6月~89年8月)での橋本龍太郎(※任1989年6月~89年8月)だ。宇野内閣は、農産物の輸入自由化/リクルート事件/消費税の問題があり、さらに本人の女性問題が加わった。一方社会党委員長・土井たか子が「マドンナブーム」を起こしていた。この時参院選があり、彼の遊説は25都道府県で、街頭演説53回/街頭政談6回/政談演説会5回/個人演説会7回などに及んだ。演説先では「龍さま」の声が掛かり、追っ掛けもいて、おひねりが出た(※簡略化)。しかし自民党は大敗し、衆参でねじれになり、1993年自民党は下野する。
※総理への階段型も多いだろうが、安倍・橋本の2人だけか。


3.「独立独歩型」幹事長

・「独立独歩型」幹事長には、本章冒頭の宮沢喜一内閣(※1991年11月~93年8月)での梶山静六(※任1991年10月~92年12月)、海部俊樹内閣(※1989年8月~91年11月)での小沢一郎(※任1989年8月~91年4月)、安倍晋三内閣(※2006年9月~07年9月)での二階俊博(※任2016年8月~21年10月)が入る。このタイプは党人派が多いが、総理・総裁を目指さない人だ。

・中曽根康弘内閣(※1982年11月~87年11月)での金丸信(※任1984年10月~86年7月)も「独立独歩型」だ。彼はバイプレーヤーとしてトップを作る事に力を発揮した。彼は佐藤内閣で幹事長に就いた保利茂(※任1971年6月~72年7月)を師と仰いだ。保利も調整型だが、彼はそれ以上だ(※金竹小を思い出す)。
・彼は田中派から竹下登を中心とする創政会を旗揚げするのに尽力する。これは世代交代が目的だった。幹事長に就いた時にはこの構想を持ち、就任と共に田中派を離脱し、派閥を越えて自由に行動する。彼は日本政治をどうするかの青写真を持っていた。最大の誤算は竹下/小沢に裏切られた事だ。

○ライバル派閥の若手の面倒を見る
・奥島貞雄は『自民党幹事長室の30年』で金丸について「彼は『政界の寝業師』、表裏がある、得体が知れないと喧伝されるが、準備を周到に進め、行動は白刃一閃だった」「幹事長には応援演説の依頼が殺到するが、彼は派閥関係なく受けた」と書いている。一方小沢については「小沢が血道を上げたのは地盤固めで、竹下派内の勢力拡大に努めた。昼食時自派の若手を呼び、シンパ拡大に励んだ」と書いている。

・中曽根にも金丸と似た話がある。彼は幹事長として出張する時、他派閥の若手議員を誘った。中曽根内閣では彼らが閣僚に選ばれた。彼には幾重もの人が集まった。一番内側に秘書グループ、次に自派閥の議員、次に地元の支持者、次にマスコミ、その外に学者グループが彼を囲んだ(※多重だな)。「いざ鎌倉」となると、皆が駆け付けた。

・金丸も自派だけを優遇しなかった。それは世代交代のためだ。中曽根嫌いを公言し、「中曽根が行き過ぎれば、差し違える」とまで言っている。これは圧倒的な田中派に所属していたからできた事でもある。一方鈴木善幸の後継を選ぶ総選挙では「中曽根が一番嫌いな俺が言っているのだから」と言って、田中派を中曽根支持に纏めた(※嫌いなのに総理にする?良く分からん。これも世代交代のためかな)。

○金丸の本質
・彼は多くの名言を残している。「さすっている様で叩いている。叩いている様でさすっている」(中曽根との関係)。「馬糞の川流れ」(野党が一致団結しても、ばらける事)。「大便より小便がまし」(野党は絶対反対より、妥協案がまし)。

・岡崎守恭(※新聞記者)が彼の夫人に「金丸とは何ぞや」と聞いている(『自民党秘史』)。夫人は「彼は繊細でも政策に精通もしていない。政治家に必要なのは、多くの耳と冷たい目を持ち、流されない事」「誰かがある提案をすると、賛否両論が出てくる。彼は聞き役に回るが、結局は自分の言う通りにしてしまう」(※簡略化)と語っている。選挙になると彼は応援で全国を回り、地元は夫人に任せた。しかし演説は彼より夫人の方が上手かった。彼は内助の功に感謝している。
・その夫人を中曽根が利用した事がある。1986年7月衆参同時選挙で、中曽根政権は圧勝するが、金丸が「しまった、勝過ぎた」と漏らす。大勝した事で中曽根の総裁任期が延長され、世代交代ができなくなるからだ。そこで彼は幹事長を竹下登に譲る。中曽根は彼を副総理に就けようとするが、固辞する。そこで中曽根は夫人に「あなたが無役の奥さんになって、家に引き込むのは忍び難い」と伝える。結局彼は副総理を引き受ける。

○幹事長として重要な事
・幹事長として重要なのは、総理・総裁にものを言えるかだ。また行動が自分の勢力拡大のためか、総理・総裁を支えるためか、自民党のためかも重要になる。党や国のため、自分にマイナスな事もやらねばならない。私は「秘書を見れば政治家が分る。政治家を見れば秘書が分る」と思っている。長く共に活動すると似てくるからだ。その意味で金丸はもっと評価されて良い。

○あえて増税法案を持ち出す ※以下は総理の評価かな。
・あえて不都合な事をやろうとした福田内閣後の大平正芳内閣(※1978年12月~80年7月)を評価する。彼はあえて一般消費税を持ち出した。しかし党内外の猛反対で撤回する。その後中曽根康弘内閣(※1982年11月~87年11月)が売上税を導入しようとするが、失敗する。そして次の竹下登内閣(※1987年11月~89年6月)で消費税が導入される。しかし導入後の参院選(1989年7月)で自民党は大敗する。消費税を3%から5%に引き上げた橋本龍太郎内閣(※1996年1月~98年7月)も直後の参院選で大敗する。増税は死屍累々となる。日本のためにやる覚悟が問われる。※2019年10月消費税が10%に引き上げられる。安倍内閣はその前の参院選で自民党9議席減に留めた。

・私は野田佳彦内閣(※2011年9月~12年12月)も評価する。彼は消費税を5%から8%/10%と引き上げる決断をする。この時は民主党内でも反対が多かった。私は彼に「消費税引き上げをするんですか。総理でいられなくなります。総理を取るか、消費税引き上げを取るか」と聞くと、「消費税引き上げを取ります」と応えた。この決断は小泉の電撃訪朝と並ぶ決断だ。

○中曽根が竹下を後継に選んだ理由
・中曽根が後継に竹下を選んだのも消費税が関係している。当時、安倍晋太郎/竹下/宮沢の後継者候補がいた。5年に及ぶ中曽根内閣でできなかった事が2つあった。1つは教育改革、もう1つが売上税だ。これを導入するには野党を含めて調整できる人が適任で、竹下を選んだ。
・竹下は消費税3%の導入を実現するが、リクルート問題で辞任する。その直後の参院選で大敗する。その後橋本内閣が5%に引き上げ、参院選で大敗して退陣。民主党の野田内閣は8%への引き上げを決めて、衆院選で敗北し、政権を引き渡す。前章の官房長官・福田康夫の項で、政治的な死は蘇るとしたが、これは野田についても言える。

○野田内閣には勝ち目があった
・2012年8月野田内閣は消費税引き上げ法案等8法案を民主党・自民党・公明党で合意し、成立させる(社会保障・税一体改革に関する確認書)。12月解散総選挙で大敗するが、私は直後であれば政権を維持できたと思う。その頃消費税引き上げについて街頭で聞いても「社会保障でお金が掛かるので仕方ない」と賛同する人が少なくなかった。しかし彼は直後の選挙をできなかった。それは1票の格差から、衆議院の定数是正問題があったからだ。彼は「私」を捨てる大英断をやったので、評価できる。

○大義を持った政治家が強い
・私なら「私」を捨てると簡単に言えるが、政治家は簡単でない。これは組織にいる人は皆同じだ。大切なのは大義で、「こう言う事を実現したい」「こう言う国にしたい」などの大義が必要だ。今の政治家はこの大義を主張しない。安保法案を国会で審議している時、国会前でデモが盛んに行われた。それを推進したい議員は、そこに行って信じる道を示すべきだ。誰も国民を戦争に行かせようとは考えていない。それは国民を守るためにやっていると示すべきだ。政治家には信念と勇気が必要だ。

第4章 諸外国との比較

・本章は米国・英国・ドイツの政治システムを紹介し、日本の官房長官・幹事長と比較する。それぞれ大統領制/議員内閣制を採っているが、内容は大きく異なる。

○米国の場合
・日本は国会議員が総理大臣を選ぶため間接民主主義だ。一方米国は三権分立が確立され、大統領は直接選挙で選ばれる(正確には間接選挙)。日本は議会の多数党から総理が選ばれるため、総理と幹事長は一体化する。一方米国は大統領と議会が分立しているため、日本の幹事長的な役割は重要でない。
・官房長官も同じだ。日本の官房長官は4つの役割がある。①総理の右腕、②政府のスポークスマン、③各省庁の把握、④政府と議会の調整。ところが米国は政府と議会が分立し、これらの役割をそれぞれ別の人が担っている。

○大統領は与党の党首でない
・そもそも大統領は与党の党首でない。トランプ大統領は共和党の党首でないし、以前は民主党の支持者だった。ただ大統領の政策を共和党は支持する。民主党のヒラリー・クリントンは民主党員だが、バーニー・サンダースは民主党員でない(※それなのに予備選に出馬できるんだ)。

・米国で政党の党首に近いのが「全国委員会」の委員長だ。このポストは大統領選・連邦議会選で党の活動方針を纏める(※このポストは知らなかった。活動方針の具体例が欲しい。大統領選に関与するんだ)。ところが議員個人の権限が強く、日本の様に「党議拘束」はない(※国土が広く、多様性が高く、そうなるかな)。日本の幹事長は人事権を持ち、政治資金を握り、選挙の公認権などを持つが、全国委員長にそれ程の力はない。

・米国の会派は上院と下院で個別に行動する。そのため各院にある「院内総務」が会派を纏め、日本の幹事長に近い存在だ。院内総務は会派の政策を決定し、政治日程を調整する。また大統領に対抗する策も講じる。「下院議長」は大統領権限の継承順位2位だ(1位は副大統領)。この下院議長には多数派の院内総務が就く。

○米国の官房長官は?
・米国は明確な三権分立で、行政府の長は大統領で、行政権は大統領に帰属する。日本は憲法に「行政権は内閣に属する」とあり、内閣を統括するのが総理だ。そのため全閣僚が合意し、閣議決定しなければいけない。米国の内閣は大統領の諮問機関に近い(※米国の閣議は大統領を賞賛する会みたい)。大統領は自分と意見が合わない人のクビを簡単に切る。日本は党や国会の運営を重視し、余程の不祥事でない限り閣僚を罷免しない。また米国の閣僚は連邦議会議員との兼務を禁じられ、三権分立が徹底されている。一方日本の閣僚は大半が国会議員で、特に官房長官は100%国会議員が就いている。

・米国で官房長官に近いのが大統領の首席補佐官で、人事/各省庁との調整/ホワイトハウス内の規律維持などを担う。外交・安全保障は国家安全保障会議(NSC)の外交・安全保障担当大統領補佐官が担う。日本は外務大臣・防衛大臣が担当し、官房長官が調整し、総理を補佐する。
・官房長官は日々記者会見する。米国は閣僚でない大統領報道官が担う。大統領と意見が異なってはいけないので、全ての重要会議に同席する。
・官房長官は強大で幅広い役割を持つ。一方米国はこの役割が分散し、大統領に権力が集中していると言える。一方日本は権力が分散し、チェック・アンド・バランスが働いている。※米国は理論的・合理的、日本は和を重んじ、連帯主義かな。

○英国の場合
・英国は日本と同じ議院内閣制だ。議会は貴族院(上院)と庶民院(下院)があり、下院第1党の党首が首相に就くのも同じだ。日本と同じく党を預かる「党幹事長」が存在する。保守党の最高決定機関は「党評議会」で、その議長が党幹事長を兼務する。
・ところが党幹事長は選挙の公認権限を持たない。それを持つのは各選挙区協会だ。小選挙区なので候補者は1人だが、生まれ故郷とか、親の地盤を継ぐとかはなく、落下傘候補になる。そのため候補者選びは徹底的に行われる。日本の様に幹事長が根回ししたり、自派閥を優遇する事もない。
・もう1つ大きな違いは、党幹事長の政権への影響力が小さい。それは与党議員全員が内閣に入り、党と内閣が一体化するからだ。宮沢内閣の政治改革法案が自民党総務会を通らなかったが、そんな事は起きない。

○英国の官房長官は?
・英国では各省庁を所管する国務大臣(上級大臣)がいる。それ以外に担当大臣(閣外大臣)がいて、その下に政務次官がいる。これらが皆大臣の位置付けだ。また党の役職の院内総務・院内幹事長・院内幹事・院内幹事補・法務官も大臣の位置付けだ。そんな中で官房長官に近いのが「内閣府担当大臣」で、各省との調整や広報を行う。また首相官邸に「内閣官房長」がいて、閣議の議事録を付けている。また首相官邸報道室の首席報道官(公務員)が日々の記者会見を行っている。中国の報道官も外交部の人間で閣僚ではない。日本の様に閣僚がするのは珍しい。

○ドイツの場合
・ドイツは連邦制/大統領制だが、政治的権限の多くは首相にある。メルケル首相はキリスト教民主同盟(CDU)の幹事長を経て党首になり、首相に就いた。日本と同様に幹事長は党のナンバー2だ。ただし連邦議員である必要はない。格は幹事長より州首相の方が高く、州首相を経験した首相は多い。

○ドイツの官房長官は?
・ドイツには15閣僚(14省庁、連邦首相府)がいて、連邦首相府長官が日本の官房長官に当たる。連邦首相府長官は各省や与党内を調整するので、官房長官に似ている。ただし日々の記者会見は報道官がやる。

○諸外国との比較
・日本の官房長官/幹事長の立場・権限は強い。「参議院は盲腸」と言われるが、参議院も強い。予算案は衆議院が優先されるが、法案は衆議院を通過しても、参議院で否決されると成立しない。この場合、衆議院の再議決で出席議員の2/3が賛成すれば成立する。日銀総裁や行政機関の委員会・審議会の委員長・委員などの人事も両院の賛成が必要だ(※行政機関は具体的に何?)。
・そのため参議院対策が重要になる。池田勇人内閣・佐藤栄作内閣の時、参議院は「重宗王国」と言われた。それは重宗雄三が3期9年に亘り参議院議長を務め、絶大な力を持っていたからだ。ねじれを含め、内閣は参議院に気を遣ってきた。また参議院は衆議院に対し対抗意識があり、与野党が一致して対抗する事もある。

・日本は官房長官/幹事長に権力が集中している。特に官房長官が権力をフルに使えば、強力な体制を作れる。これが今の菅官房長官だ(※任2012年12月~20年9月)。

○官房長官/幹事長の特殊性
・官房長官/幹事長はどうあるべきか。評価されるためには政権を支え、強化できるかにある。その後に自分が出世できるかがある。また幹事長なら党勢の拡大もある。そのため候補者の選定、お金の配分などが重要になる。中曽根の様に多彩な人材を大事にすると、自分に返ってくる。官房長官であれば、「私」を捨て政権に尽くせるかが重要になる。総理の意向を十分理解していないと、閣僚・官僚・行政機関を把握できなくなり、与党に対しても説得力がなくなる。※総理は内閣の顔だが、裏で働く官房長官は本当に大変だな。

○一強体制は悪か
・第2次安倍内閣以降(※2012年12月~20年9月)は「安倍一強」と批判的に言われた。総理がリーダーシップを取れる内閣に何の問題があるのか。政策・やり方の評価は次の選挙で審判される。一強体制を批判するのは、天に唾する話だ。
・トランプ大統領は民主主義国における力の行使の究極だ。これは良くも悪くも参考になる。側近も何時クビになるか分からない。チェック・アンド・バランス機能がないと、どうなるかの参考にもなる。幹事長は結構な力を持つので、チェック・アンド・バランス機能になっている。

終章 人・組織を動かすのに欠かせないもの

○安倍政権が長く続く理由
・官房長官は総理の右腕・女房役であり、幹事長は党のナンバー2だ。国を上手く回すため、彼らがどうすべきかを総括する。一番大切なのは彼らと総理との信頼関係だ。また総理は彼らを選ぶ基準を持つ必要がある。安倍晋三が官房長官に菅義偉を選んだ理由は官僚を掌握するためだ。これは中曽根康弘が後藤田正晴を選んだのと同じだ。当時は行財政改革が課題で、そのためには官僚の協力が欠かせなかった。二階俊博・幹事長はどうだったのか。彼は茫漠としているが、押さえる所は押さえ、清濁硬軟取り混ぜながら纏める事ができる。これは金丸信の政治力に似ている。
・安倍政権は人事が上手くいったので長期政権になった。それは第1次安倍内閣の教訓だろう。第2次安倍内閣以降でも問題を起こす閣僚はいたが、官房長官/財務大臣/幹事長などの重要ポストには信頼を寄せる人物を据えた。

○ナンバー2はどうあるべきか
・幹事長/官房長官に重要なのは、「自分のためにやっているのではない」と回りに思わせる事だ。これは政治家/新聞記者/会社員など組織で働く全ての人に当てはまる。これができればポストを離れても人望を得て、人が付いてくる。後藤田が評価されるのは、三原山噴火や掃海艇派遣問題での「私」を捨てた対応による。「私」を捨てるとは公平公正であり、国民の幸せを目的にしているかだ。そして政権に仕える限り、トップの方針に徹底的に従うべきだ。「自分だったらこうする」は、自分がトップになってやれば良い。

○人の上に立つ人間の原点
・政治家に必要なのは、「こういう国にしたい」「恵まれない人に手を差し伸べたい」などの信念・原点だ。ただ信念を持つだけでなく、それを実現するために、同じ思いを持つ人や支えてくれる人を増やす必要がある。またそれに反対する人もいるので、包容力も必要になる。また傲慢にならない謙虚さも必要になる。

○想像力
・2018年7月豪雨被害が予予想される中、一部の自民党議員が赤坂の議員宿舎に集まり懇親会を開き、批判を浴びた(赤坂自民亭問題)。自分が被害を受ける立場だったらどうだろうか。政治家にとって、想像力は大切だ。二階は「政治は弱者のためにある」を口癖にする。弱者には社会的・経済的・身体的弱者がいるが、彼らは弱者を想定できていたのか。

○政治とは鎮魂
・大平正芳の信条は「政治とは鎮魂」だ。誰もが不安を抱えているため、政治は国民に精神的な安定を与えなければいけない。彼は大蔵省出身で、官房長官/幹事長にも就き、エリート政治家と思われている。しかし農家の8人兄弟に生まれ、苦学して大蔵省に入省した。仙台税務監督局に務めていた時のエピソードがある。当時は清酒を買えない家が多く、家で「どぶろく」を作っていた。彼の仕事の多くは、その摘発だったが、それが嫌だった。東京財務局に昇格すると、1944年「国民酒場」を創設している(※簡略化)。
・彼は主計局主査時代に奨学金制度「大日本育英会」を創設している。この時、対象者を限定する給費(給付)制にするか、対象者を広げる貸費(貸与)制にするかで意見が分かれる。主計局長に心情を吐露され、貸費制に決める(※簡略化)。いずれのエピソードも『私の履歴書 大平正芳』にある。

○政治とは心
・私は「政治とは心」と思っている。人々の心を理解しているか。自分のポストに忠実か。出世の階段にしようとしていないか。誠心誠意務めているか。これは政治家だけでない。人間社会に生きる全ての人に問われる。

おわりに 政治はもっとも人間らしい行為

・私は「政治を語るのは難しい。それは人間を語る事だから」と思っている。東工大の永井陽之助は「月に人を送れる様になったのに、大学紛争/国際紛争などが絶えない。これは政治学・法律学が未発達なのでは」と訊かれ、「それは地球と月の間に人間が棲んでないから」と応えた(※意味不明。その間に人間が棲んでいたら、送った事にならない?物理的な説明?)。そうです人間は「神と悪魔の間」の存在で、両極の性質を持ちます。そのため「政治」は難しく、面白いのです。本書は人間の分析を通し、政治の不可思議さや面白さを書きました。政治は特殊な世界ではなく、普遍性を持ち、全ての組織に共通です。

・本書の校正中に第4次安倍内閣が発足しました。官房長官/幹事長は留任したが、安定のため当然です。一方今回の改造で「入閣待機組」が大量に起用されました。これは党内の不満を抑えるためです。国民はこれに敏感に反応し、支持率は上がっていません。これも「政治」です。